04

 町の中では比較的広い建物が、トウトとシュヴァルツが現在仕事場としているところだった。ひとりの頭を中心に、見習いを含む大工から鍛冶、家具職人など様々な職人が集まる工房だ。職人気質な人の中には徹夜を繰り返して作業を終わらせる性格の人も少なくなく、色々な部屋にまばらに灯りがともっている。その一室に彼は居た。
 ガシャン、という金属音とともに、足元のランプが蹴倒される。その拍子にろうそくの火が消え、あたりを照らすのは少し向こうにいるトウトのランプだけになった。工房の一室に篭りきりだったシュヴァルツが、珍しく夜半すぎに迎えに来たトウトの言葉に驚いて蹴倒したものだった。
 コハクが目を覚ました、と告げるトウトはどこか歯切れが悪そうだった。
「ほんとうか」
「こんな嘘つかねえよ」
「帰る」
「まあ待てって、おい片付けもせずに行くな話を聞け」
 工房内の木くずも片付けずに家のほうへ向かおうとするシュヴァルツを、トウトが出入口を通せんぼする形で押しとどめる。シュヴァルツの気は急いていた。この三月、悲願も悲願だった家族の目覚めだ。どうして止めるのか、と少しきつめの視線で問えば、トウトはゆっくりと目を逸らした。
 コハクは、イズに来る前のあの事件の日を境に目を覚ましていなかったのだ。生きているのも不思議だと、イズに到着した後に診せた医者に言われたほど大きな傷を負いながら生き永らえた彼女の容体は思わしくなかった。傷は着々と治っていくが、いつごろ目を覚ますかは分からない。最悪、死ぬかもしれない。そう言われていた彼女の目覚めだというのに、どうしてトウトは嬉しそうではないのだろうか。奇跡的に命を繋いだはいいものの、大切な妹を、家族を守れなかったという意識はずっとふたりの間に深く根ざしているのだ。彼女への罪悪感からこんな表情をしているだけならいいのだが。
 どうやらトウトは言葉を選んでいるようだった。コハクになにかあったのか、と問いただしたい気持ちを抑え、シュヴァルツはトウトの言葉を待つ。それは、彼がいつもシュヴァルツにしてくれることだったからだ。シュヴァルツは、喋ることがあまり得意ではなかった。
「……取り乱してもいいから、家に戻るのは落ち着いてからにしてくれるか」
「分かった」
「コハクは記憶を失ってるらしい。どうやら」
 その言葉に、シュヴァルツは細めていた漆黒の瞳を大きく見開いて、小さく息を吸い込んだ。

 思ったよりも穏便に、家の扉は開かれた。枕を背にして上半身をななめに起こし、ぼうっと窓の外を眺めていた少女は、その木の軋む音にそちらを向く。入ってきたのは、ランプを手に持ったトウトと、黒髪の少年だった。彼がシュヴァルツだろうか。
 シュヴァルツとおぼしき彼は、真っ黒という印象を与える見た目をしていた。さらりと落ちるつややかな黒髪に、夜の湖を思わせるような黒い瞳。首元を守るように黒い襟巻をしていて、服装も全体的に暗い色だった。夜中に森ですれ違いでもしたら、人が居たことにすら気が付かないのではと思うくらいだ。トウトに比べると華奢な体つきの彼は、どこか決まりが悪そうに俯いていた。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま。医者のほうは留守だったから、明日また行ってみるよ」
「そうだったの。急患かしら」
「そうかもなあ。こっちも急患なんだけど」
 それほどでもないわ、と微笑んだ少女に、トウトが肩をすくめて笑い返す。少女の目覚め、というのは彼らにとって重大なことなのだろう。
 彼もどうやら、少女が記憶を失っていることについては聞いて来たらしかった。少女はトウトに「口調が違う」と評されていたが、話し方についても特に聞かれない。トウトはシュヴァルツとなにやら軽い応酬を交わしたのち、軽くシュヴァルツの背を押した。うなじのあたりで結ばれた黒髪が揺れていた。
 トウトが、わざとらしいほど快活に笑ってシュヴァルツのことを紹介した。
「こいつがシュヴァルツ」
「……よろしく」
「こちらこそ。トウトから聞いてるようだけれど、記憶がないの。よそよそしく感じたらごめんなさい」
「聞いてる」
 跳ねぐせのついた薄茶の髪を持つトウトと真っすぐに艶やかな黒髪を持つシュヴァルツは、顔立ちも髪色もなにもかもが違った。聞いてはいたけれど、やはりトウトと彼、そして彼と自分の間に血の繋がりはないようだ。視界の端で揺れる自分の髪は真っ白で、トウトともシュヴァルツともにつかぬ色をしていた。
 シュヴァルツは、少女の記憶が本当にないことがそれほど衝撃だったのか、まるで人見知りの子供のように俯いていた。トウトの背に隠れるようなまねこそしないけれど、右手で自分の左腕の袖をぎゅっと掴んでいた。伏し目がちな瞳が左右に揺れ、険しい表情をしていた。
 しばらくの沈黙が落ちた。トウトが、ふたりが入ってきたきり開け放しにされていた家の扉を、後ろ手でゆっくりと閉める。トウトの持つランプと、寝台の横におかれたろうそくの光だけがたよりだった。
 何か話したほうが良いだろうか。しかし家族の記憶がないことに喪心しているのかもしれないし、トウトが語らぬのならば少女も口を出さないほうがいいのかもしれない。そうして少女が迷っている間に、シュヴァルツがようやく二の句を告いだ。
「……目が覚めてよかった」
 静かな声で、シュヴァルツがそう告げる。長い睫毛で隠された瞳が、それでも確かに少女を見据えている。顔立ちや髪の長さ相まって、美人と評するのが似合うような雰囲気だ。
「心配かけてごめんなさいね」
「いや」
 少女がそう淀みなく返事をすれば、歯切れが悪そうなのはシュヴァルツのほうだった。この状況に困っているのか、話すことが不得手なのか、おそらく両方なのだろう。彼は兄か弟か、トウトに聞いておけばよかったかしらと少女は思った。
 暫くの沈黙ののち、シュヴァルツがひどく言いづらそうに申し出た。
「その……頼みがあるんだ。嫌だったら断ってほしい」
「なにかしら?」
「……一回だけ、抱きしめてもいいか」
 少女のまばたきの音が聞こえそうなほどの沈黙が、一瞬だけその場におちる。そっと目を逸らしたシュヴァルツの言葉に、トウトが勢いよくシュヴァルツのほうを振り向いた。人と慣れあうことを好まなそうな雰囲気を漂わせているけれど、思ったよりも家族思いな類の人なのだろうか。出会ってすぐの相手の人となりを決めつけるのも良くないが、思ったよりも直球な物言いに少女は一瞬押し黙る。彼をよく知るはずのトウトも驚いていたようだけれど、ただ複雑そうな顔をして、そのあとに仕方ないなと言いたげに肩をすくめた。シュヴァルツも、家族が記憶喪失というこの状況に混乱しているということなのかもしれない。
 驚かなかったと言えばうそになるけれど、家族なら抱きしめ合うことくらいままあることなのかもしれない。それになにより、少し低いその声が、一生の願いかのようにそう嘆願してくるのを、少女は無碍にすることはできなかった。少女が「ええ」と頷けば、目を逸らしていたシュヴァルツはほっとしたように肩の力を抜いた。
 その言葉を合図に寝台にそっと近づいたシュヴァルツは、その腕の中にそっと少女をとじこめた。包み込むように優しく、しかし力強く抱きすくめられ、少女は所在のない手をそっとシュヴァルツの背に回す。外は肌寒い季節なのだろう、シュヴァルツの身体は少女よりも少し冷たかった。彼がほっとしたように息をついたのが分かった。
「──よかった」
 その声がひどくあまいことに驚いて、少女は伏せていた瞳を開く。耳が焼けてしまうのではないか、と思うほどあつい吐息が少女を掠め、震える手が少女を抱き締める力を強める。家族と言うには、あまりにも近いこころの距離でのことばだ、と少女は思った。
 行き場のない視線が、シュヴァルツの肩越しに見えるトウトに向かう。ランプを持ったまま部屋の壁に寄りかかっているようだった。懐かしいものを見るような遠い視線が、少女とシュヴァルツを撫でている。なぜ、そんな表情で弟妹の抱擁を見ているのだろう。その薄茶のひとみとぱちりと目が合ったと思えば、彼はまるで悪いことをしたといわんばかりに視線をそらす。
 その仕草が、シュヴァルツのあまい声が、まるでうしろめたいことをしているようで、少女はかっと頬に熱が集まるのを感じた。そんなはずはないのに。林檎のような顔になってはいやしないだろうか、と思いながら、少女は思わず繕うように言った。
「トウト、うらやましいならこっちへ来たら?」
「え?」
「こっちを見ていたでしょう」
 その言葉を聞いて、トウトは少し驚いたように目を見開いた。そのあと、夕暮れどきの空の端のような、とろりとした薄茶色の瞳がおかしそうに細められる。仕方ないなと兄の顔をした彼は、ゆっくりとこちらへやってきた。
 少女に決して負担をかけないようにと、トウトは片膝で寝台に乗り上げて少女とシュヴァルツを包み込むように抱き締めた。シュヴァルツよりは粗雑な動作で、しかし優しい手つきで少女とシュヴァルツを包み込む手は、少女にやさしい安心感を与えた。よかった、ともう一度、トウトより少し低い声が耳を掠めていった。冷えていたシュヴァルツの身体がぬるくなるまで、ふたりはそうしていた。
 しばらくしてから、するり、と猫が主人の腕から抜け出すようにしなやかに、シュヴァルツは少女とトウトから離れた。視線が絡む一瞬だけ熱のこもった視線が少女を撫でて、それから思い出したようにその熱がひっこめられる。気まずそうに視線を揺らしながらあたたかな炎に照らされる彼は、数拍置いてやはりぎこちなく微笑んだ。
 心臓の音が鳴りやまない。シュヴァルツの表情の意味が分からず、同じようにただ微笑んだ少女は、自分の頬が未だ熱を持っていることを自覚していた。なにを思ってこの熱が生まれているのか、それすらわからないというのに。
 そんな少女を尻目に、シュヴァルツはなにやら自分の首のあたりに手を伸ばし、無駄のない動きで服の中から何かを引っ張り出した。それはどうやら、麻の紐で作られた首飾りのようだった。
「これ」
 そう言って、シュヴァルツは少女にそれをゆっくりと差し出した。
 古びた麻紐の先を飾っているのは、どうやら指輪のようだ。半透明な白い石を削って作られたらしい指輪は、指に嵌めるには少し重そうな品に見える。大きさだけを見るならば、どこぞの王様がつけていそうな大ぶりなものなのだ。宝石はついておらず、少し粗削りな品であり、職人というよりはだれかの手作りと呼んだほうがしっくりきそうな品でもあった。宝石がなくとも十二分にうつくしい意匠でもあった。
 シュヴァルツは言葉足らずな節があるらしく、少女にそれをただ差し出すだけでそれ以上の説明をしなかった。トウトたちは部屋の大きさから見ても、持ち物から見ても、決して裕福な家ではないはずだ。そんな中、どうしてこれを少女に渡すのか。少女は首を傾げて問いかけた。
「これはなにかしら」
「指輪……首飾りだよ」
「そうではないわ、ええと……私にくれるのかしら?」
「……もともと、コハクのものだ。これは運よく、取られてなかったから」
 少し古びた麻紐が、その首飾りが大切にされてきた年月を表しているように思える。取られていなかったとはどういうことか分からないが、とにかく預かってくれていた、というところだろうか。そうだったのねと受け取れば、シュヴァルツの纏う空気がほんのりと優しくなった。まさか受け取ってもらえないとでも思っていたのだろうか。記憶を失いなにもわからない以上、少女は彼らに従うほかないというのに。
 少女はつい、トウトやシュヴァルツの見せる行動から、かつての自分のありようを探ろうとしてしまう。共にした時間が未だ短く、多くの事情すら聞くことができていないのだから仕方ないことだ。ほんの少し湧く焦りを無視するように、少女は「ありがとう」と指輪を受け取った。その覚えのない重みが、少女の失った時間と重なる。
 会話がひと段落ついたからか、指輪をひとしきり眺める少女のほうへとトウトがやってきた。指輪を渡して寝台近くから退いたシュヴァルツの肩に肘を置き、寄りかかるようにして立つ。シュヴァルツも彼に体重を預けていた。
 トウトは、シュヴァルツの補足をするように話し始めた。
「お前が目を覚まさなかった間はシュヴァルツが持ってたんだけど、もともとはお前の持ち物だよ。昔のこと思い出すきっかけになるかもしれないし、持ってたらどうだ」
「それじゃあ持っておこうかしら。ずいぶん大切にしていたようね」
「そりゃもう。大事にしてたぜ、俺がむやみに触ったら怒られそうなくらい」
「……それはないだろ」
「まあ怒りはしなかっただろうけど……まあ、それくらいってことだよ」
 シュヴァルツが言葉を紡がない分だけトウトが騒がしいようだった。彼の代わりに言葉を紡いでいるかのようにぺらぺらと喋るトウトを横目に指輪をあらためる。青白い月明かりに照らされるその指輪は、造形こそ少し荒いがきちんと研磨されていてつややかだ。何度も形を整えたのか、風に揺れる水面のようなけずり痕が模様になって、指輪の輝きを支えている。指輪の中に吸い込まれていく月光が、小枝のように細い少女の指に反射していた。
「綺麗ね」
 指輪を目の高さまで掲げてそう言えば、トウトの「コハクがどれだけその指輪を大切にしていたか」について語る言葉が止んだ。代わりに、小さなつぼみが朝焼けと共に花開くように、シュヴァルツがくしゃりと笑う。三日月のかたちになった瞳が、嬉しそうに少女を見つめている。
「そうか」
 雪解けのような笑みだ、と思った。
 さっきのような、受け取ってもらえるか不安だった、という表情ではない。少女が一瞬目を奪われてしまうほど、静かに幸福そうな微笑みだ。どうしてそんな顔をするのだろう、と少女が思うのもつかの間、トウトが自慢げに続けた。
「けっこう昔のことだけど、その指輪はシュヴァルツが作ったものだぜ」
「シュヴァルツが?」
「……まあ」
「昔から手先が器用でさ。今も家具職人のもとで見習いやってて、模様を彫ったりする以外にも装飾品を作ったりして仕事にしてるんだよ。シュヴァルツはよく『今の腕前に比べたら出来が悪い、作り直す』って言ってたけど、お前はそれがお気に入りだったから結局そのままなんだ」
「そうだったのね。……でも分かるわ、すごく綺麗だもの。記憶はないけれど、今の私もこの指輪がとっても好きよ」
 シュヴァルツが謙遜にか軽く俯いて、それからか細い声で「ありがとう」と言った。照れているのか、白い耳が林檎のように赤く染まっている。それをからかうかのように、トウトの大きな手がシュヴァルツの背を叩いていた。
 シュヴァルツが淡々と少女に向ける声は、トウトに向けるものと同じように淡泊なものもあれば、ほんのりとした甘さと熱を帯びているものもある。前者は、淡泊でありながらも優しい家族の温度のものだけれど、後のそれは、例えるならまるで恋人のようで。
 少女とシュヴァルツ、そしてトウトの関係を家族、とひとことで形容してしまうのは時期尚早な気がした。月のもとでも燦然と輝くこの指輪は、細部まで丁寧に磨かれたいい品だ。それを目の前の彼が作り、かつての少女に渡したという。それは、家族として装飾品を贈るだけの気持ちだったのだろうか、はたまた。そうして疑ってしまうことが失礼だと思いながらも、少女には一度頭をよぎった推測をすべて捨てきることはできなかった。
 しかし記憶がない以上、推測の域を出ないことを口に出すのはそれこそいけないことだ。トウトとシュヴァルツがなにやら話している横でかすかに目を細めた後、少女は緩慢な動作で首飾りを身に着けた。
「お、似合うな」
「変でないならよかったわ」
「コハクって感じがする」
 そういってトウトは、少女のことを撫でた。髪がくしゃくしゃと乱れる感覚がして、少女は思わず笑った。胸元できらめく指輪が少し重たい。されるがままになっている少女のもとに、シュヴァルツから無言で手鏡が差し出された。素直に受け取れば、シュヴァルツはなぜだか少し驚いたような顔をした。
 木組みの簡素な枠に嵌められたそれを覗きこめば、ひとりの少女がいた。
 少女はかわいらしい顔立ちをしていた。自分で思うのもどうかとは思うが、おおきなたれ目気味の瞳と上品な口もと、桜色の唇がちょうどよく整い、やさしい表情をしている。ふわりふわりと巻き毛ぎみの白い髪が肩口あたりまで伸び、首元をくすぐっていた。陶器のように白い肌が月あかりに映え、黒曜石のように真っ黒な眼が真珠色の睫毛と対比されてうつくしい。首飾りの麻ひもさえ、少女の肌に合う色が選ばれているようだった。
 自分の顔立ちすら覚えていないこと、既視感のひとつも覚えなかったことが、自分自身が記憶喪失であるという事実を思い知らせてくる。しかしそれ以上に、想像していたよりも愛らしい顔立ちに衝撃を受けていれば、トウトたちがそろって首を傾げた。変な顔をしていたかもしれない。しかし正直に話すのもいかがなものだろう。
「……コハク? 大丈夫か、なにか思い出したか?」
「いえ……自分の顔立ちが思ったよりも、その」
 ぺたり、と少し冷えた手を頬にあてながらそう言いかけ、少女は一瞬言い淀んだ。家族相手であるならば、記憶喪失でもあることだし正直に言葉にしてしまってもいいものなのだろうか。それとも謙虚さはきちんと持っておくべきだろうか。特殊な状況でもあるこの場合、謙虚さと正直さはどちらが優先されるべきだろうか──などとくだらないことを思案している少女に、トウトが眉をひそめる。明らかに不機嫌……というよりも、なにかに怒っているかのような顔をしたトウトは、声の調子を少し下げてからはっきりと言った。
「醜くないからな。白い髪だからって不気味とか、俺たちは思わないから。お前はかわいいよ」
 何を言われるのかと一瞬身構えた少女に降ってきたのは、強い言葉に包まれた優しさだった。至って真剣にそう告げられ、謙虚さと正直さについて考えていた少女は二の句を告ぐはずだった口をぽかんと開けてしまった。
 なんの恥ずかしげもなくかわいいと口にされ、少女は思考がいったんぴたりと停止した。家族とは言え、あまりにも真剣にそう言われるといっそ驚いてしまうものだ。猫のようにかわいがるわけでもなく、盲目的に溺愛している様子でもなく、ただ淡々と事実を述べるかのように褒める。少女には、ますますこの『家族』が分からない。
 しかし今の発言は、少女が自信を醜いと思っているという前提のもとで発言されたものだ。もしかしたら、かつての自分はこの容貌を醜いと認識していたらしいが、今の記憶と共に美醜の感覚すら損なってしまったのだろうか。何はともあれ、とにかく誤解は解かねばならない、と動き始めたばかりの思考で反論しようとした少女だったが、トウトはかぶせるように続けた。
「あの」
「お前がどう思おうと誰が何と言おうとかわいいからな。それにこっちじゃ白い髪は歓迎されるくらいなんだぞ? かわいいって、シュヴァルツもそう思うだろ」
「そうではないのよ」
 困りきってしまった少女にもおかまいなしに、トウトのとなりのシュヴァルツも小さくこくりと頷いた。引いていたはずの頬の熱が再び集まるのを感じ、少女はうつむきがちに視線を逃がす。ゆっくりでいいから分かってくれたら嬉しい、などというだめ押しの一言で、少女はとうとう小さくうなずいてしまった。かつての自分もこれほど恥ずかしがりだったのだろうか。
「お前のその髪、俺たちは好きだよ」
 先程から白い髪だから、白い髪はと言うけれど、もしかすると白髪は世間的に醜いとされる要素なのだろうか。少女にしてみれば、トウトとシュヴァルツの髪の色が薄茶や黒であるように、この白髪も自然なことのように感じる。そもそも人は、老いれば髪の色が抜けることが多い。生まれ持ってから老いたような外見になってしまうという点では美しくないのかもしれないが、少女の外見はむしろ神聖さを感じさせるほどに少女であり、自然だ。艶やかな真珠色は、老いよりも愛らしさを冗長させている。指先でくるりと髪をいじれば、トウトはまだ心配そうにこちらを見つめていた。
 少女は未だ、分かっていないことが多すぎる。自分の中の常識が常識であるのか、外ではどう振舞えばよいのか、そもそも自分はどんな人間だったのか。記憶を失ったからと言って人格まで変わってしまうとは思えないが、ひとを形作っているものは記憶と経験だ。何らかの経験をもとに自分で作り上げていた自分、こころに仮面をつけて生活していたとしたら、少女はもとの少女と同じ振る舞いはできないだろう。記憶を取り戻すその時まで、あらたな経験だけが、これからの少女を形作っていく。それは少女にとってはただの日常であっても、家族である彼らにとっては寂しいことかもしれない。その乖離がなにを生み出すか、まだ少女には分からない。
 しかし、不安がってもない袖は振れないのだから、過去も未来もこれからゆっくりと知っていけばいい。優しい家族が、それを許さないとは思わない。ぐるぐると回る思考をそう結論付けたあと、少女はトウトに笑いかけた。
「ありがとう。十分に理解したわ」
「……ならよかった」
「言いにくいのだけれど、そもそも特に自分を醜いとは思わなかったわ」
「えっ」
 謙虚でいるか迷っただけよ、と苦笑いした少女を、トウトとシュヴァルツはやけに驚いた顔で見つめていた。
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