一章 白昼夢

「それでさ、シュヴァルツのやつってば今日も工房に泊まるって言いだしてさ。作業に集中したいのはわかるけど、家事の当番はもう二日俺がやってるんだよな」
 声変わりを迎えたばかりの少年の声が響いていた。だれかに話しかけているのか、日常について紡ぐ柔らかな声が紡がれる。その声に呼び戻されるように意識を浮上させた少女は、ぱちぱちと何度かまばたきを繰り返した。
「や、あいつは本当に彫刻だの装飾品だのをつくるのが好きだからさ。それがこっちにきても親方に認められたのは兄としても嬉しいぜ? でも俺もたまにはシュヴァルツの作る飯が食いてえんだよな」
 おどけた調子でそう話す少年の声に、返事はない。誰に話しかけているのだろうか、と思いながら、少女は眼前に広がる木の天井を見つめていた。時刻は夜なのか部屋はどこか薄暗く、向こうのほうで照らされている炎の明かりが反射して揺らめいている。
 ここは、どこだろうか。
 最後に眠ったのはいつ、どこでの事だっただろうか、と考えて、少女はすぐにその記憶がないことに気が付いた。自分が何者なのか、どこからやってきたのか、どうしてここにいるのか──何もわからない。
 記憶喪失、だろうか。記憶がなければ記憶を喪うことへの抵抗感すらなくなるのか、少女はさほど驚くこともなく、素性の分からぬ自分を受け入れた。命からがら生きている、というわけでもなさそうな、穏やかな空気感がそうさせたのかもしれない。背中に感じる柔らかさと、肌触りのいい毛布に包まれている暖かさは、少女を余計に搔き乱すことなく穏やかに迎え入れている。
 身体がひどく重たい。どこかが痛むわけではないが、腕一本さえ動かすのが気だるく感じるほどの倦怠感が少女を包み込んでいる。どうやら、ずいぶん深く寝入ってしまっていたようだった。もしや眠りすぎて記憶喪失になったのだろうか。本当にそうなら笑えない、などとくだらないことを考えながら、少女は起きたばかりで鈍い頭を動かした。
「シュヴァルツは料理下手だけどさあ、最近はスープなら上手に作れるようになってきたんだぜ。お前も食いたいだろ?」
 少年は無視されていることも気にしていないのか、あるいはひとりごとなのか、やはり喋り続けていた。酔狂なひともいるものだといやに冷静に思ったあと、少女はもしかしたら自分が話しかけられている可能性に思い至る。
 そう思い至って初めて、少女は声のするほうへと緩慢に首を動かした。首元をくすぐるのは、自分の真珠色をした細い髪だ。視界に入る部屋は狭く、暖炉と机、それからそれなりの大きさの棚があるだけの簡素なものだった。声の主である少年は、火の番をしているのか暖炉の目の前に座り込んでいた。
 少年は陽に照らされた小麦畑のような薄茶色の髪を、頭の天辺でまとめていた。ふわふわと緩やかに巻きのかかったそれは、少年が身じろぎするたびに尻尾のように揺れている。
人懐っこい犬を思わせる風貌だ、などと勝手に評価しながら、少女は少年を見つめていた。部屋には少女と少年しか居ないようだった。
「まあ、シュヴァルツのやつもコハクが眠ってるのを見てんの、つらいのかもしれないけどさ」
「……さっきから、誰に話しかけているの?」
 喉が非常に乾いていたせいか、少女の声はまるで老婆のようにひどく掠れていた。手足が動かぬように声も出していなかったのだろうか。その問いかけと同時に少女は咳き込んでしまった。
 思ったより高い声だった、と冷静に考える少女と対照的に、その声に勢いよく振り向いたのは少年だった。髪と同じように薄茶色をした瞳が大きく見開かれ、霊でも見たかと思うほど驚いた顔をする。
「コハク」
「……やはり私に話しかけていたの? ごめんなさい、眠ってしまっていたみたい」
「コハク!」
 少女の言葉を遮る勢いで、少年はそう叫んだ。どうやら、自分の名前はコハクというようだった。咳き込みながらもなんとか答えた少女に、少年は手に持っていた薪を乱雑に暖炉に投げ入れて駆け寄ってくる。炎の中に丁寧に積まれていた薪の山が崩れ、盛大に火の粉が舞った。
「目ぇ覚めたのか」
 心配と安堵の篭った声色でそう言った少年は泣きそうな顔をしていた。骨張った手が少女の手を力強く握り、それから少女の手を痛めないようにか思い出したように力を抜いた。
 少女の名前を知っている、ということは、かつての少女を知っているのだろうか。少女がされるがままに手を握り返せば、目の前の少年はその些細な仕草にさえも心を揺さぶられるようで、不安定に瞳が揺れた。身体が衰えているのか、あまり力は入らなかった。
「ええ、そうみたい。なんだか心配させてしまったみたいね」
 言葉を紡ごうと喉をふるわせるたび、ちりちりとした痛みが喉を焼く。それでもかすれた声はだんだんとましになっているようだった。少女がかすかに瞳を細めれば、少年は何度か言葉に詰まる様子を見せて、それから言葉を絞り出す。瞳がひどく揺れていた。
「…………無理にしゃべらなくていい」
「いえ、あなたに聞きたいことがあるのよ」
「あとで全部話してやるから! 今水を……シュヴァルツも医者も呼んでくるから……」
「落ち着いてちょうだい」
 己が記憶喪失だと自覚した少女より、少年のほうがよほど気が動転しているように見えた。視線を右往左往させていた彼は、諫めるような少女の言葉ではっと気が付いたように押し黙る。少し荒れていた息を整え、野生動物が自分の子を案じるような、獰猛さと優しさのどちらも感じ取れる瞳を伏せた。一拍のちに瞼をあげれば、少年の瞳は穏やかな色になっていた。
 少年は、少女とさほど年も変わらぬように感じられた。自分の年齢も正確に知らない少女にはそれが正しいかどうかも分からないのだけれど。
 目を覚ましただけでこれほど驚かれるとは、自分は大怪我か大病でもしたのだろうか、と冷静に少女は考えた。なるほどこの体の重みは、長らく寝たきりだったからなのだろうと納得する。身体の痛みがないのも、眠りについている間に治ったからかもしれない。
 寝たきりだった相手が目を覚ませば驚くものだ。それに加えて記憶喪失だなんて言った暁には、彼が泡を吹いて倒れてしまいそうだ。少女は気が動転している様子の少年を見ながらそう思ったけれど、まさか記憶喪失であることを隠し通せるはずもない。言わないわけにもいかないなと小さくため息をついた。
 それに彼がどれだけ驚いたとしても、少女は自分のことを知っているらしい彼に、自分について彼に問わねばならないのだ。記憶がなければ身の振りかたも分からない。
「……大声出して悪かった、怖かったよな。気が動転してた」
「いえ……私のほうこそ、驚かせてごめんなさいね」
「生きててくれただけで幸せだよ、謝るなって! それで、聞きたいことってなんだ、何でも聞くぞ」
 穏やかな顔つきになった少年は、声をひそめながらそう言った。おおげさなことを言うひとだ、と思いながら、少女はそれじゃあと口を開く。
「私、記憶がないの」
 その言葉を聞いた少年はいちど大きく目を見開いて、それから怪訝そうに眉をひそめた。少女を伺うような視線で目を合わせたのち、いびつに口角を持ちあげた。信じられない、嘘だと言ってほしい、そういった表情だろうか。記憶がなくなってしまえば、どんなに親しい相手だったとしても初対面だ。沈黙の意味を知るには相手のことを知らなすぎる。
「きっとあなたは私を知っているのよね。よければいろいろと教えてくれないかしら」
 そう言ってからなるべく優しい顔で微笑むと、少年はまばたきを数度繰り返した。言葉の意味を噛み砕けていないのだろうか、部屋の中に落ちる沈黙に従って、少女は少年を見つめ続ける。ゆっくりと手に力を籠めれば、はっとしたように肩を揺らした。
「…………なにも覚えてないってことか? 全部?」
「ええそうね、なにも。自分の声も聞き覚えがないわ」
「……俺のことも? シュヴァルツって名前に聞き覚えは?」
「ないわね」
 懐かしさのひとかけらも感じはしない、と伝えるつもりできっぱりと言い切った少女に、少年が頭を掻いて俯いた。次に告げる言葉を迷っているのか、いくつか言葉にならない言葉を紡いだのち、少年がひとつ息を吸い込み、そしてため息をつく。同時に手が握りしめられて、今度は少し痛かったけれど、少女は口には出さずに先を待った。
 ひそやかに懺悔するような声で、彼は続ける。
「口調がおかしいと思ったんだ」
「あら、なにかおかしかった? 普通に話しているつもりだけれど」
「……昔とは、喋り方が全然違う。でも、お前はその──いろいろ、あって。怪我して、三月くらい目を覚まさなかったんだ。でも、生きてるだけでも奇跡だから、記憶がなくてもおかしくないんだと、……思う」
 ぱち、と先ほど雑に投げ入れられた暖炉の薪が、またひときわ火花をはじけさせたようだった。月明かりと炎の光が混ざり合い、夜を彩る。少年の顔に落ちた影がゆらゆらと揺れていて、表情を伺うことができなかった。
 やはり少女の身には、なにごとかが起こっていたらしい。いろいろ、という部分を言い淀んだ少年は、自分の中で物事を整理しようとしているのか簡潔にそうまとめると、少女に向き直る。
 薄茶の瞳が真っすぐに少女を射抜いていった。かすかに震えた声が、ぬるい空気に溶けていく。夜の輪郭をなぞるような、少し掠れた低い声だった。記憶と共になくしてしまった心の隙間を埋めるような優しい声が、少女をゆっくりと包み込んでいく。
「お前の名前は、コハク」
 柔らかな音だった。少年の声でしっかりと名前を呼ばれても、やはり聞き覚えはない。けれど、胸の奥がほんのりと暖かくなった気がした。
 名前は、自分と他人を切り分ける大事なもののひとつだ。少女の名前はこれなのだと伝える彼の声に、少女は少なからず安心する。ささやかな心細さを、彼が少し背負ってくれたような気がした。
 少女が寝台に寝転がったまま首だけでゆっくりと頷いたのを見て、少年も頷いた。それから自分の胸をとんと叩いて続ける。
「俺はトウト、お前の兄だ。……いや、厳密には少し違うんだけど」
「……兄なの、そうでないの?」
「俺たちはもとは捨て子でさ。小さいころに爺さん──町一番の偏屈って言われてたな。その人にそれぞれ拾われて、それから一緒に家族として暮らしてたんだ。だから血は繋がってない。爺さんはもういないけど、残された俺とお前と、あとひとりで暮らしてるよ。それで、俺のほうがふたりより先に拾われてたから兄」
 だから頼ってくれ、と少年──トウトは続けた。頼もしさを感じる凛々しい声音と、わずかに悲しさをたたえる視線が絡み合い、少女は小さく頷く。それを見て、少年は震える口の端をゆっくり持ちあげてみせた。
 血の繋がりがない家族、という感覚は、不思議と少女に馴染んでいった。実の家族よりも長く傍にいて、だれより互いを分かっている。家族という関係の名前を互いに望めば、それはなにより強い絆になるのだろう。
 眠り続けていた少女のことを待ち続けていたらしい兄は、当の妹が記憶を失ったとしても兄としてしっかりと振るまうつもりのようだった。少しの痛々しささえ覚えるような強がりの笑顔は、彼の矜持が為したものなのだろう。
 告げられた言葉をゆっくり噛み砕いている少女がぼうっとしているように見えたのか、トウトが心配そうに少女の顔を覗き込む。眉尻を下げた少年は、さっきの力強い声とはうってかわって囁くような、優しい声音で続けた。
「……俺たちはどんなお前でもちゃんと受け止めるし、ずっとずっと家族だからな。安心してくれ」
「ありがとう。……そんなに改まらなくても、ちゃんと伝わってるけれど」
「そうか? はは、お前はすぐ強がる奴だったからさ」
「平気よ、お兄さま」
「お兄さまなんて、そっちこそ改まってるじゃねえか。トウトでいいよ、トウトで」
 空元気の笑い声が、部屋に響く。そうして取り繕われたトウトの口角が下がるのを、少女は申し訳ない気持ちで眺めていた。
「ありがとう、トウト。心強いわ」
 頼らせてもらうわね、と続ければ、トウトはなにやら黙り込んでしまった。震える唇が何かを紡ごうとして、閉ざされた。訪れかけた沈黙を誤魔化すように、トウトががたんと音を立てて立ち上がる。そうして勢いよく背を向けて、ひとつ鼻をすすった。
 心配かけてごめんなさいね、と笑えば、震えた声で許しの言葉が告げられた。
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