ティヒエン小噺その1 ある女主人

 人通りがまばらな昼下がり、白い石の嵌めこまれた石畳の上をひとりの少女が歩いていた。彼女は顔が見えないようにか外套のフードを深く被り、上等な白いワンピースをはためかせながら、楽し気な足取りで街を行く。物珍しそうにあたりを見回す少女は、そのしぐさが指先まで整っている代わりに、街歩きに慣れていない様子だった。すれ違う人々がほほえましそうに彼女を見守る中、時折露店や雑貨の店、労働者たちのために開けられた食堂のメニューなどをひやかしながら、ティヒエンの街を謳歌している。
 どこか良いところのご令嬢が、ひとりでお忍びにでも来たのだろうか。はたまた、護衛らしき人間を連れていないところやお忍びに向いていない服を着ているところを見るに、屋敷を抜け出して家出でもしたのだろうか──と、パン屋の女主人は考えていた。この町を納める神殿や元老院のものたちの誰かの娘か、あるいは大きな商家の娘か。なんにせよ、もしも家出だとすればいまごろあの少女がいるべき屋敷は大騒ぎになっているだろうなんて余計なことまで考えながら、女主人は少女を見守る。
 今日売る分のパンを焼き終わり、店先で売り子をしながら休憩をしようと思っていたところ、あの少女が目についたのだ。馬車も通るような大通りをふらふらとあっちへこっちへ歩む少女が居れば、それが遠くであれども気を引かれるものだ。年頃のご令嬢が家出をしたとしても、昼間であればさほどの危険はない穏やかな街ではあるけれど心配してしまうのが大人の性。街の誰もがそう思っているのか彼女には幾多の視線が向けられていたが、彼女は気にするそぶりもなく露店の雑貨を眺めていた。
 少ししたころに、少女は女主人の営むパン屋の近くまでやってきた。パン屋のとなりは気難しい革職人の工房兼水車小屋であり、ふたつの家の間には大きな水車がひとつある。水龍に愛され、水に恵まれたティヒエンの街において水車などありふれたものであったが、少女はどうやら興味津々の様子だった。深窓のご令嬢ともなれば水車も珍しいらしい。流れる水を見て数拍、横から水車を覗き込むように壁に手をつき覗き込んでまた数拍。ここらの水車の中では大きめのものであるからか、少女の興味は尽きないようだった。街中に流れる川には魚が泳いでいて、たまに跳ねてはぽちゃんと音を鳴らしている。
 水車が水を揚げては落とす音と、少女の嘆息、それから街の喧騒が混ざり合う。令嬢がこんなところまで遊びに来るなどめったにあることではないし、こうして市井を楽しむ令嬢も見れて良い午後になりそうだった。まだ暖かい日差しに照らされながらあくびをした女主人の耳に、次の瞬間腹の虫が盛大に鳴る音が聞こえてきた。
 それは『ぐぅ〜』と気の抜けるような音。頬杖をついてあくびをしていた女主人は不意を突かれ、口を押さえていた手を下げかねて、口をあけたまましばらく少女のほうを見つめていた。少女も自分の腹の音が市井に鳴り響いたことは気が付いているようで、そっと腹を抑えていた。小さく肩をすくめてため息をつき、それからなにかを諦めたように踵を返す。
 腹が減ったならその辺の露店で食べ物のひとつでも贖えばいいものを、金を持っていないのか彼女はそうしようとはしなかった。ティヒエンの街は豊かで民の間での格差というのはさほどないが、それでも自分たちより身分が高いであろう令嬢が腹を空かせているのは普段見られない光景だ。仕方なしと言いたげに歩き始めた少女の背中がなんだかおかしくて、女主人は思わず声をあげて笑った。
「ちょいとそこのお嬢ちゃん」
 その笑い声と、女主人の声に令嬢が振り向く。上品な口元だけが陽に照らされていて、髪も瞳もフードの陰に隠れて見えなかった。顔を見られては困る何かがある、と公言しているような少女は、その口元をゆるめて呼びかけに答えた。そのあたりの町娘でも腹の音を聞かれれば恥じらうものだろうが、常識を知らないのか単に性格の問題なのか、まったくそのことは気にしていないようだ。
「腹減ってんならうちのパンでも食べてくかい」
「あら、いいの? でも生憎持ち合わせのお金がないの」
 そう言った少女は、持ち合わせがないとしぐさで示しているのかワンピースをその細い指で摘まみ、なんどか風を孕ませ靡かせる。顔立ちが分からないというのに、美しいと感じてしまう所作だった。そんな少女の美貌の前に、もとより少女を見守っていたであろう街の人々が何人か足を止めた。女主人だけが、少女のささいな動きからすら漏れる美しさに面食らうことなく──実際は面食らっていたがそれをおくびにも出さず──話を続ける。
「金なんかいいさ。腹減ってるこどもをほっとけるほどあたしらは冷たくねぇさ。パンが嫌なら向かいの酒場にでも交渉してやるよ」
「それならお言葉に甘えさせてもらおうかしら。私、パンが食べたいわ」
「じゃあ店に入って適当な椅子にでも座って待ってな。硬い椅子だけど我慢してくれよ」
「硬い椅子になら慣れてるわ。お気遣いどうもありがとう」
 それが冗談なのか本気なのかは、女主人には分からなかった。

 パンが所狭しと並べられた店内には、気休めのように休憩用の椅子がひとつ置いてある。そこに座って、言われた通りに待っている少女は、こうした店もまた珍しいのか陳列された品をじっくりと見ていた。棚に皿がたくさん並べられ、そのすべてに様々なパンが乗っている。甘いものもしょっぱいものも店には置いているけれど、そのどちらでもない香ばしい香りが部屋を支配している。調度品も決して高級ではないが、質素でかわいいと呼べるようなものばかりだ。気っぷも良く腕っぷしもそれなりにある女主人の趣味とは思えない、と仕事帰りに寄る男たちにからかわれるような店内だったが、少女のお眼鏡にはどうやら叶ったようだった。
 少女はそうして周りを見渡して、細いながらに肉付きも良い足がぱたぱたと動しながら、女主人が適当なパンを選定するのを待っていた。
「はい、お待たせ」
「……これは?」
「揚げパンだよ、揚げパン。うちでいちばん人気の品さ」
「揚げパン……パンを揚げるの? 画期的ね」
「そうかい? ま、良いところのお嬢様にとっちゃそうかもしれないねえ」
 皿にのせて渡したそれを、少女は不思議そうに見ていた。てりてりと脂が太陽に照らされて光り、固まったはちみつが表面を彩る。こういった世俗的な食べ物は平民の楽しみであり、上にはない文化だろうと踏んで少女に渡したが、女主人の見込みは大正解だったようだ。水車といいパン屋といい見知らぬものに興味を示すらしいこの令嬢は、角度を変えながらしばらくはパンを眺めていた。
「うちには粉砂糖みたいに上品なもんはないけど、代わりにはちみつを使ってるのさ。こういう甘さも悪くないもんだよ」
「へえ……おいしそうね。本当にいただいていいの?」
「もちろん。ま、なにか返したいと思ってくれるならまた買いに来ておくれ、お嬢さんみたいなかわいいお客なら大歓迎さ!」
「あら、口と商売がお上手ね。素敵だわ」
 くすくす、と少女が口元だけで笑う。そうしながら揃えられた膝の上に皿を置いて、その指が揚げパンを摘まみ上げた。やはりと言っては何だけれど、しつけが行き届いているのか少女はまず手でパンをちぎろうとしている。マナーのなった食べ方といえばそれが妥当なのだろうが、揚げパンとなれば話は別だ。少女が少しパンを千切ると同時、指はパンからあふれた脂でべとりと濡れて、パンと同じようにてりてりと光るようになってしまった。それに驚いたのかかすかに肩を揺らした少女は、そのまま小さく首を傾げる。本気で不思議そうな顔をする少女の世間知らずな様子に耐えかねて、女主人はふたたび声を上げて笑った。
「これはどうしたら、手を汚さないで食べられるのかしら」
「あっはっはっは、いや、そんなことはできないさ」
「できないの?」
「どうしても脂がこぼれちまうからね。フォークとナイフでお上品に食べれば話は別かもしれないが、それじゃあ楽しみは半減さ。かぶりついてごらん」
「……かぶりつく。そう、面白そうね」
 少女は令嬢にしては、市井の生活になじむのに抵抗がないようだった。これは正当なお忍びではなく家出かな、などと女主人がおかしそうに眺める横で、少女が控えめに揚げパンにかぶりつく。じゅわり、とあふれた脂が唇をつたい、顎に落ちそうになっているのを舐めとって、少女は満足げに笑った。味わうように何度も揚げパンを咀嚼した少女は、それを飲み込むと幸せそうに顔をほころばせる。
「おいしいわ。普段食べているものとは全然違うもの」
「そうだろう? 腕には自信があるのさ」
「ええ、とても。人気なのも頷ける」
 そう言って、少女はもうひとくち揚げパンにかじりついた。お腹を空かせたこどもは、身分は関係なく目の前の食べ物に夢中になるものだ。少女はそのまま無言でパンを半分ほど食べすすめ、それから小休憩というように息をついた。揚げパンといえど白パンのようにやわらかいものではないから疲れてしまったのだろうか。食べっぷりがいい相手は施し甲斐もあるもので、少女が食べきったらもうひとつ揚げパンでも持たせてやろうかと考えはじめたとき、目の前の少女がふいに言った。
「本当においしいわ」
「そりゃ光栄だね」
「また食べに来たくなってしまうくらいよ。……ところで、あなたは私が身分のあるものと気が付いていながら、私の素性について問わないわね。理由を聞いても?」
 そう言った少女が女主人のほうを見上げたとき、少しだけ目元が見える。真っ黒な瞳がフードの影に隠れながらこちらを覗いており、その視線には試すような意思が乗っていた。唇の油を真っ赤な舌ですくった少女は、話の続きを促すように首を傾げる。少女らしからぬ強い視線は怖いものなしと言われた女主人のこともじっくりと刺していく。もしかしたらただの興味なのかもしれないが、少女の視線は鋭かった。
 どう、と聞かれてもどうもこうもない。女主人は、一瞬だけ蛇に睨まれた蛙のような心を覚えたが、別にやましいこともないのだからと素直に答えを口にした。
「そりゃ、あんたが話さないのに無理に聞きだすわけないじゃないか。厄介ごとに巻き込まれたくもないしね」
「ああ、成程ね。ごもっともだわ」
 少女の視線がすっと弱まり、少女はもういちどパンのほうを向いてしまう。見えなくなった目元が威圧感を発していたらしく、一瞬高鳴った心臓もすぐに落ち着いた。身分があるものは身分があるものなりの理由があるものなんだと思い知ったような気がして、女主人は肩をすくめる。それでも今は対等な立場のはずだと、なんでもない様子で話を続けた。
「お忍びなんだろう? じゃあ街のやつらと同等に扱わないとね。まったく忍べてはなかったけど」
「家出兼お忍び、といったところだわ。あなたのような人にも会えたことだし、楽しい日になりそう」
「おいおい、やっぱり家出だったのかい。いまごろ兵士が血眼になってあんたを探してるぞ。匿っていたと思われたくはないんだけどね」
「まあ探してはいるでしょうね。中央通りでさっき兵を見かけたから、こちらへ来るのもそろそろかしら。ああでも安心して頂戴、あなたを巻きこんだりしないわ」
 あっけらかんとそう言ってのけた少女に、女主人はあきれて片手を振った。美味しそうにパンを頬張る姿と豪胆な発言、それに見合わないような華奢な出で立ちが相俟って、少女は不思議な雰囲気をまとっている。兵を動かすことも追われることも、そして連れ戻されるであろうことにも臆さない肝の持ち主。そりゃあ腹の音が鳴ったくらいで動揺しないだろうと今なら理解できる。昔から体格と性格が豪胆だった女主人に比べて、育ちも体つきも落ち着いた彼女の口からぽんぽんと武勇伝になりかねない言葉が飛び出すのは、見ていて少しだけ面白かった。
 最初に言った通り、お腹を空かせたこどもを放っておくのは女主人の主義に反している。女主人は少女のちぐはぐさに笑いながらも、少女にパンのおかわりを勧めた。
「……いやあ、巻き込まないって言うならかまわないんだけどね? パンもうひとつ食べるかい」
「ええ、いただくわ」
 行儀についてはもう気にすることをやめたのか、指先についたはちみつを舐めとった少女は、女主人の誘いにあっけらかんと答えたのだった。

 街がざわつき始めるのはそれからすぐのことだった。揚げパンと、それだけでは甘かろうとレモンピールを乗せた小さな薄切りのパンを少女に与え、少女がそれを嬉しそうに食べているのを眺めていた女主人の耳に、鎧を着た兵士が動く音が聞こえてくる。それと同時にひづめの音も鳴っていて、どうやら騎馬兵までもが出動しているようだった。
 ずいぶんと大人数の部隊である。神殿を警護している兵士たちをかきあつめたのかと思えるような規模の捜索隊を見て瞬きを繰り返した女主人は、ちょいちょいと窓の外を示して少女に問う。
「……あれ、もしかしてあんたのお迎えかい?」
「ああ……そうだと思うわ。マーヴィさまがいらっしゃるわね」
「マーヴィさま?! マーヴィさまと言ったら巫女様の側役様だろう、早々簡単に……あんたどこの子なんだい?!」
「知りたいなら教えてあげても構わないわよ」
「いやいい、面倒事になる予感しかしないね」
「あなたは頭が良いようだから、分かるかもしれないわよ」
 そういってくすくすと笑う少女は、あれほど大規模な捜索隊を組まれてもなお余裕の表情を見せていた。それでいて隠れる素振りも見せず、おいしそうに揚げパンを頬張っている。その揚げパンの最後のひとくちを食べきると、女主人が途中で差し出してやった布巾で手を拭いて一緒に窓を眺めている。本当にどこのお嬢さんなのだろうと今になって肝が冷えるが、一度こうして招き入れてしまっては仕方ない話でもあった。ティヒエンにおいて身分が高いものは決して横暴ではないから、身の安全は保障されているというものだが、さすがにこれだけ捜索されるお嬢さんに気軽に話しかけていたとなれば注意くらいは受けるかもしれない。
 元老院の高位のものたちの娘かなにかなのだろう、向こうでは確かに黒髪の女騎士がほかの兵士たちに指示を飛ばしているようだった。凛と響く声は遠くまでよく届き、彼女がたしかに誰かを探していることを思わせる。碧眼を持って生まれた彼女は、この町において誰より高い身分の「白の巫女」の側役として仕えている。水と豊穣をもたらす水龍を崇めるこの街にとって、もっとも大切にされるのがその妻となるべく生まれた存在であり神の子である「白の巫女」だ。その右腕であるマーヴィが動いているということが、目の前の少女の身分の高さを証明しているようなものだった。
 マーヴィはティヒエンの騎士たちの長でもあるため、元老院の娘あたりの高い身分の子が家出ともすれば動くのも不思議ではない。ないが、「白の巫女」が生まれ育っている現代において、騎士団長がそうやすやすと市井に現れることはない。そんなつもりは毛ほどもないので問題ないけれど、目の前の彼女に傷でもつけようものなら恐ろしいことになりそうだ。
 しかしこうでもなければ、年に一度の祭りである収穫祭でくらいしか見かけることのない側役様である彼女を見ることができたのはある意味幸運だったかもしれない。そもそもどうせお叱りを受けるなら、人生は楽しんだほうが良いだろう。ご令嬢と良い午後を過ごせた駄賃だと思えばなんてことはないな、などと思いながら壁にもたれ窓の外を見ていた女主人に、少女が笑って言った。
「もの珍しそうね」
「そりゃそうだろうさ。あんなに血眼になって……そうとう慌ててるようだねえ」
「そうね。マーヴィさまは怒ると怖いもの、早く顔を出してあげなきゃ尋問される街の人が可哀そうだわ」
「そう思ってるなら行ってやりんしゃいな」
「ふふ、それもそうね。でもあなたと話すのは楽しいからつい」
 長居したくなってしまうわ、と続けた少女は、それでも名残惜しそうに立ち上がった。それから女主人に一礼すると、きいと店の扉を開ける。白いワンピース姿がそうしてパン屋から出たのを兵士の誰かが見とがめて、こちらを指さしているのが見えた。女主人もせめて見送りのためにと外に出れば、少女がやはり口元だけで微笑んでみせる。
「また来る、とは約束できないけれど、また来たい味だったわ。本当にありがとう」
「そう言ってもらえるなら光栄だね。いや、こっちはあの兵士たちに動じないでそう言えるあんたが不思議でたまんないが」
「ふふ、そうね。じゃあこれだけは教えてあげるわ、この家出は”取引”なのよ」
「取引?」
「そうよ。もともと早々に捕まるつもりだったのだけど……これがなかなか楽しくて、お腹が空くまで逃げ回ってしまったわ」
「……本当に大胆な性格だねえ。でもあんまり大人を振り回すんじゃないよ?」
「ええ、もちろんよ。これっきりにするつもりだもの。でも私、そうやって対等にお説教されるの嫌いじゃないわ」
 胸の前で手を組んだ女主人を振り返り、少女がそう言って笑う。説教をしていたつもりはなかった女主人はぱちくりと瞬きすると、次の瞬間やっぱり声を出して笑った。身分の差など関係なく、ただこどもに話すように話していただけだったが、それがどうやらこの令嬢にはお気に召したらしかった。その間も兵士たちは血相をかえてこっちへ向かって来ていて、のどかな風が吹いている穏やかなティヒエンに似合わぬ甲冑の音が響いている。彼らの先頭を駆けてくるのは市民が普段見ることなどないマーヴィだ。
「マーヴィさま、お迎えありがとう」
 少女は懲りていないのか、はたまたこれも「取引」の一部なのか、マーヴィを煽るようにそう言った。マーヴィは息を切らして遠くから走ってくるなり少女にそんな扱いを受け、耐えかねたのかがっと勢いよく少女の肩を掴んでみせる。おいおい乱暴ですねぇ、と落ち着きを取り戻した女主人によるこれまた杜撰な声かけにも肩を揺らし、眉間に深く皴を刻みながらなんとか声を絞り出していた。いつも眉目秀麗な姿しか民衆に見せないマーヴィがこれほど動揺していることも少なく、女主人はおかしくて口元だけで笑った。
 ひくひくと眉根を動かしたマーヴィは、なにやらところどころで突っかかりながらも、つとめて冷静に言葉を発している。家出したと思えばこうして大人をおちょくるような態度をとる少女に苛立っているのだろうか。
「み……いえ、アル──さま。ウィリ……お父様のご命令により捜索、および連れ戻しにまいりました」
「ええ、それじゃあ帰りましょうか」
「どうしてそんなにあっけらかんとしていられるのですか、みッ……アルさま! こちらでは一大事だったのですよ!」
「大きくなったら街を見に、そう、収穫祭くらいは外に出てもいいと約束していたのに、あなたがたがいつまでも約束を守らないからよ」
「分かりました、そちらは後で検討します! だからといってこんな、こんなッ……」
「検討しかしなかったら私はまたこうして抜け出すわ。まあ、それはあとで……お父様、と話し合うとしましょう」
「お父様も……その、家を飛び出して大変だったのですよ! 私と違って体力もないのにすぐに慌てるから本当に!」
 女主人とさほどかわらない年齢であるはずのマーヴィは、そうして目の前の少女に振り回されていた。少女ははいはい、と手を振ると、風にずれかけたフードをもう一度深くかぶる。大人を手玉にとりながら、ころころと嬉しそうに笑う少女に末恐ろしさを感じながらも、世渡り上手なのだなと笑う。ぬくぬくとご令嬢として育ったにしては頭が回り、よく人を見ている少女のようだった。なにかを言いたげにしては黙り込んでしまうマーヴィの様子を見て、手をくちもとにやって笑いながら、少女はマーヴィの連れて来たらしい馬車に乗り込むべく歩き出す。
 これで、奇妙な午後は終わりを告げるようだった。揚げパンを好むご令嬢に今ここでパンを渡したら、世俗的すぎると怒られてしまうだろうか。聞くだけタダとも言うことだし、聞いてみるだけ一興だろうか──などと考えている間にも、少女は騎士のひとりらしい人間に連れられて馬車の入口へと乗り上げていた。その間に、マーヴィがこちらを振り向いて、ぺこりとひとつお辞儀する。態度は冷静そのものだったけど、まだ頭に血がのぼっているのか顔が多少赤かった。
「お嬢様がお世話になりました」
「ああいや、こんないいところの子だとは思わなんですよ。側役様におことばをかけていただけるなんて光栄です」
「お嬢様はお金を持っていきませんでしたから、ご迷惑をかけたお詫びは後日に」
「そんなお詫びなんて。いいんですよ、こっちも楽しかったからね。お嬢さん、本当にあんまり大人を振り回してやるなよ?」
 そう声をかければ、馬車に乗っていた少女は振り向いて頷く。少女はあらかじめ待機していた侍女に施されたのか顔の前に薄布をまとっており、馬車が暗いことも相まって素顔は最後まで分からずじまいだったけれど、その表情は確かに微笑んでいる。マーヴィはそれをちらりと一瞥して、それではと端的に告げ、自らも馬車に乗り込んでいった。
 たまたまパンを分け与えただけで、こんなおおごとに巻き込まれるとは思っていなかったけれど、思ったより注意を受けるわけでもなかったなと女主人は思う。騎士たちも馬車に付き従うように隊列を整え始め、東通りはまるで祭典時のような光景が出来上がった。周りの店からも野次馬根性で見に来ているものが多く、あたりはちょっとしたお祭り騒ぎだ。見えているのかはわからないが軽く手を振れば、馬車のカーテンが閉まる一瞬前に、少女が窓から顔を出した。
 淡い水色にそめられた薄布の向こうで、少女が嬉しそうに笑っていた。
「いずれお父様からそちらにお礼が行くと思うわ。それまでお元気で」
「ああ、そっちもね」
 説教されるのは悪くない、とそう言ったどこかのご令嬢は、女主人のその返事に満足そうに笑った。こんなにも大人に守られて育った令嬢ともなれば、対等に話せる人間のひとりやふたりが欲しかったのかもしれない。手を振った女主人をしり目に、すぐに馬車は動き出し、街はいつもと変わりない風景を取り戻しはじめる。水車の音がよく聞こえるようになったころには、馬の蹄の音は遠く向こうへ行っていた。
 揚げパンを美味しそうに食べる口元がかわいいご令嬢だった。結局どこのご令嬢だったのかはわからないけれど、こうしてあの子が市井に降りてこなければ言葉を交わす機会などない相手であることは容易に想像がつく。こんどの収穫祭で身分の高い人たちに目を凝らしてみようか──などと考えた女主人は、そんな奇妙な午後に呑まれて出来ていなかった家事に手を付けるべく、店の中へ戻っていくのだった。

 後日、厳重に封蝋をされて届く、お礼と揚げパンを献上するよう頼み込む「白の巫女」からの手紙に仰天することを、まだ彼女は知らない。