アルカディア10話ボツ

 ざあざあと屋根にたたきつける水滴が鳴らす無遠慮な音と、湿った森の香りに、なぜだか目が覚めた。あてがわれた部屋の寝台の寝心地は体によく馴染み、深い眠りへと誘ってくれるものだったけれど、なぜか。
 ふわとあくびをひとつしてから、まだ日が昇るには遠い夜の中で起き上がった。伸びをしてから再び眠るつもりだったのだが、何やら居間では炎が揺れている様子だった。その光につられて、音を立てないように居間まで歩く。靴を履くのを忘れたせいで、冷えた木の感触が直接足の裏に沁みた。
 ゆっくりと光源へと向かう少女にも、炎を灯したその人はすぐに気が付いた。出会ったときと同じように艶やかな黒髪を降ろしているシュヴァルツは、なにやら手元の本を読んでいるようだ。
 まだ眠気の残る頭でぼんやりとシュヴァルツを見る少女を見てか、シュヴァルツは自分の隣の椅子をひく。少女は慣れた様子でそこへと腰を下ろした。それを見届けて、シュヴァルツが言葉少なに問いかける。
「……寝付けないの」
「起きたのよ。ふいに」
「……悪い夢でも」
「快適な眠りだったわ。本当にふと目が覚めただけ。心配かけてごめんなさいね」
 橙に照らされて、ふたりの漆黒には瞳は色が映っていた。隙間風に靡く髪は色の対比が激しく、特に少女の白髪は闇の中でも目立っていた。
「貴方こそ眠れないの?」
「……そんなところ」
「そう」
 聞くだけ聞いたけれど、少女には何もできない。肌寒さに寝付けないのか、それとも昼間のトウトのように何事かを思い出して寝付けないのか。なんにせよ、少女にできることはない。ぱらり、とめくられる頁の音を聞きながら、少女は船を漕いでいた。
「……お前が戻ってきてくれて、よかったとは思ってるよ」
「なあに、コハクじゃないって言ったのを気にしてるの?」
「……それなりに」
「いいわ、当然のことよ。私だって自分がコハクだって自覚、あんまりないもの」
「…………そうか」
「そうよ」
 沈黙が降りた。
 トウトの寝息は居間まで聞こえてきていた。どうやら寝付きはいいらしく、シュヴァルツと少女が普通に話していても起きる様子はないようだ。昼間の快晴はどこへやら降り始めた雨も、彼の眠りを妨げることはないらしい。
 シュヴァルツの読んでいる本の表紙に彫られた龍の紋章をぼんやりと見つめる少女は、ふと思い立ってシュヴァルツの袖を引いた。
「私がコハクじゃない別人だっていうなら、名前は何かしらね」
「……名前?」
「そう、記憶喪失のコハクの名前。それがあれば、貴方とお友達になれる? コハクの体を借りた誰かとしてなら」
「……俺のために、わざわざそんなことしなくても」
「私、ふたりのことをたくさん悩ませたみたいだから。少しでも役に立てるならそれがいいわ」
「……なんだか、押しが強くなった?」
「敬語じゃなくなって威圧的に感じるだけよ、きっとね」
 ねえ、なんだと思う。夢見心地に蕩けた瞳で少女は問いかけた。シュヴァルツは本をぱたんと閉じると、少し考えるそぶりを見せる。
 雨音が響いている。シュヴァルツはふと外を見やると、月明かりのない暗黒の世界を瞼の裏に焼き付けた。少女はそんな彼を見つめて、ただ名前を乞うていた。やがて思考の海から船着き場へとたどり着いたらしいシュヴァルツは、改めて少女に向き直る。こんなにもはっきりと目が合うのは出会った時以来だな、と少女は思った。その端正な顔が少女を射抜き、そして音を紡いだ。
「──レイン」
 レイン、と少女は復唱する。
「……雨が降ってるから、別の地方で雨を意味する……レイン」
「安直ね」
「……不満か」
「ふふ、まさか。嬉しいわ」
 そう言ってから、少女は立ち上がった。純白のワンピースの裾をつまむと、くるりと一回転してみせた。ひらりと裾が舞い、さながらどこかの妖精のようだった。シュヴァルツは思わず見惚れていた。
「私はレイン。あなたたちの家族。──ふふ、なんだかしっくりくる。ありがとう、シュヴァルツ」
「…………ああ」
「読書の邪魔してごめんなさいね。でも、早く寝るのよ。おやすみなさい」
「……おやすみ、レイン」
「おやすみなさい、シュヴァルツ」
 少女は、自分にはもうコハクという名があるのに、名を求めてしまった理由がわからなかった。ただ、ひどく晴れやかな気持ちになったことは覚えている。私はレイン、彼らの家族。きっとトウトは明日、少女をコハクと呼ばないシュヴァルツに怒るだろうから、それは私が止めなければいけない。だって、私がそう望んだのだから。
 夢見心地に微睡んで上機嫌な少女の胸元で、指輪が何やら熱を持っていた。少女はそれに気が付くことなく、深い眠りへと落ちていったのだった。