第一章 01

  濡れた髪が頬に張り付く感触があった。不快さに思わず髪を退ければ、月明かりに照る白髪が目に入る。白にも銀にも見えるそれを手で梳けば、さらりとした感触が指の間を走っていく。
 胸の真中で蝶々結びに留められた、腰辺りまでの薄手のローブでは流石に肌寒い。素足に膝丈のワンピース、そんなもので水に入ろうものなら風が吹いただけで肌を刺すつめたさになる。私はそんな簡単なことも分かっていないのだろうか、と微かに眉を潜めた。
 あたりは暗く、ここは森の中のようだった。小さく浅い、どちらかというなれば水たまりに近いような湖に体を沈めていたらしい少女は、先ほどゆっくりと体を起こしたばかりだ。きょろきょろと視線を泳がせてみたり、手を開いたり閉じたりしてみたり、ゆっくりと自分の体の挙動を確かめている。澄んだ水滴が頬を伝い落ちて、湖に小さな波紋を作る。
 ──私は、誰だろうか。
 上を向いても下を向いても、辺りを見渡しても、景色には見覚えがない。どうしてここにいたのかも分からない。月明かりを頼りに、水面に映る自分を見ても、なんだかしっくりくる感覚すらない。これが記憶喪失というやつか、とやけに落ち着いた心境の自分ばかりがそこに取り残されていた。突拍子もない話すぎて、精神が追い付いてないともいうのかもしれない。
 水音を立ててゆっくりと立ち上がれば、少しよろめくものの足は立った。皮を剥いた白樺の幹のようだ。少しの衝撃で折れてしまいそうな脆い体だな、と思った。歩くたびに波紋が広がり、ちゃぷちゃぷと音が響く。外だな、とぼんやり思った。
 首元には、なにやら首飾りがさげられている様子だった。石造りらしい重たく冷たい指輪に、小さな赤い宝石が嵌まっている。風に揺れるたび、胸元をひんやりとした温度が掠めた。──見覚えは、ない。服装にも、指輪にも、体にも。
 自分のことが分からない以上、何をどうすればいいかもわからないのは自明の理だ。少女は困ってため息をついた。体中を確認しても、荷物の類は一切見受けられない。武具もなしに夜の森を、しかもこんなに華奢な体と水を吸った服で歩けるわけがない。その行為が危険だという、人間として最低限の知識は忘れていないようで助かった。頭の中をひとつひとつ探っていく作業をしながら、少女は口を結ぶ。
 どうしようか。とりあえず、近場の町を探すところから始めたほうがいいだろうか。ただ、身元も素性も不明な、かといって働き手になるような体力も腕力もなさそうな記憶喪失の異分子を受け入れる優しい町などあるだろうか。夜風が吹き曝し少女の体を冷やしていく。
 そうだ、こんな時に夜盗でも来たらどうするのだ。身を隠しておかねば、何をどうされるかもわからない。鋭利な石でも投げられた日には、先に待つのは命の危険ばかりであろう。今のところそういった足音などは聞こえないが──。
 少女がそんなことを思った次の瞬間だった。ざく、ざくと地面を踏みしめる音が静かな森に響き渡る。鳥も虫も鳴かぬような、少女と風だけが在ったその空間は、一瞬にしてその気配に支配された。足音は二人分、特に気配を消すこともなく堂々と森の中を歩いている様子だった。咄嗟のことに足が竦む。そもそも逃げられるだけの足腰を持っているのかさえ分からないが、動いたほうがよかっただろうか。それとも、自分に気が付かない可能性を考えて、物音を立てないほうが得策だろうか。ぐるりと、知識と常識の足りない頭で解決策を考えている間に、木陰から月明かりの元へ、その足音の主の姿が晒される。胸の下ほどまである黒髪を風に攫われるままにしている少年と、その彼より少し背の高い、薄茶の髪を後ろで結わいている少年──ふたりとも目を伏せている。
 一瞬のことだった。黒髪の少年のほうとぱちり、と目が合ってしまう。ふたりの歩く、踏みしめられて道となっているそこと湖はほとんど地続きだ。森の緑に湖の透明、それらとは明らかに違う、輝く白色を持つ少女が目立たないわけがない。敵意があるかはわからないものの、彼は少女を見るなり目を見開く。
 黒髪の少年が足を止めた。
「……シュヴァルツ?」
 少年をシュヴァルツと呼んだもう一人の少年も、ぴたと足を止めて視線を追う。その先にしっかりと捉えられている少女を見るなり、少年も伏せがちな瞳をぱっちりと見開いた。
 少女もなぜだか、ふたりから目が離せなかった。彼らは悪人でないと、誰かが囁いた気がした。身動きの一つも取らずに彼らを見つめる少女に、シュヴァルツが駆け寄り抱き締めたのは、少女にとっては一瞬のことだった。乾いた服と暖かな体温が、少女を包む。
「──コハク!」

 ──シュヴァルツの紡いだその言葉は、私の、名前だったのだろうか。
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