それからのことだ。突然のことに戸惑い、抱擁を返すこともなく呆然としていた少女に、彼を追って来ていた少年が目を見開く。コハク、ともう一度少女に呼びかけ、少女がどなたでしょうとぽつりと返せば、唇をきつく噛んだ後にシュヴァルツを引きはがした。どうやら私は「コハク」という名を持つ二人の知り合いであるらしいな──というのは、取り乱しているシュヴァルツとそれを抑える少年を見ながら考えたことだった。
その後、宿として部屋を貸すから話がしたいといわれて招かれるままについていった先にあった山小屋が、ふたりの住む家らしかった。最低限でつくられた簡素な家は、その昔大工仕事を負っていたという薄茶の髪の少年──トウトと名乗っていた──が廃墟を手直ししたものらしい。齢はたいして変わらないように思えるのに高い技術の持ち主だ。自分の年齢などわかりっこないので、憶測にしか過ぎないのだが。
小さな部屋で水気を拭き取り、コハクのものなんだけどと渡された服に着替えると、やはりもともとは少女の持ち物なのかやけに体にぴったりだった。ふたりの待つ居間へと戻る。木彫りのカップに、暖炉で温めたらしいミルクが淹れられていた。勧められるがままに椅子に座れば、トウトが「ええと、どっから話すかなあ」と苦笑いを零す。シュヴァルツは、出会い頭の抱擁の様子はどこへやら、頬杖をついて少女から目を背けている。漆黒の瞳が、机の真中に置かれた燭台に揺れていた。
「まず聞きたいんだけど。お前さ、俺たちのこと分かる? 名前は名乗ったよな、それ以外でさ」
「わかりません」
「自分のことは?」
「……わかりません。目が覚めたら、あの湖に」
そうかあ、記憶喪失かあとトウトが頭を掻いてみせた。ふたりの瞳に帯びていた希望の念らしきものが途絶えたのが、少女にはぼんやりと分かった。
どうやら、何かを期待されていたらしい。自分が彼らの知り合いだというのなら当然の反応だろう。出会った瞬間に飛びついてくるほどの仲なら尚のこと。忘れられていい気分ではない、どころか悲しませたかもしれない。実感は湧かないがしかし、少女はぺこりと頭を下げておいた。
「……えっとだな。まずは、シュヴァルツが驚かせて悪かった。訳ありでな、許してやってほしい」
「いえ」
「…………悪かった」
「いえ、シュヴァルツさんも本当にお気になさらず。許しなど……むしろ、こうして拾っていただけて感謝しています」
少女はふるふると首を振った。別に抱き締められる以外の何をされたわけでもない。知り合いならば別段拒否する理由もなし、特に嫌悪も感じなかったので謝られる謂れなどない。注がれたミルクをこくりと一口飲むと、蜂蜜でも混ざっているのかほんのりとした甘さが口に広がった。
そんな少女を眺めながら数瞬躊躇った末に、トウトがゆっくりと口を開く。
「半年前に、お前……に、そっくりなやつが水難事故に巻き込まれて行方不明になったんだ。あまりにそっくりだから、ついな」
「……コハクさんという方でしょうか。行方不明だったとは」
「まあな。……本人かと思ったよ、というか、まだちょっと思っちまってるというか」
「私は記憶喪失ですから。コハクさんを知っている方がそう言うならば、その可能性もあり得ると思います」
どこか他人事らしいともいえるほど簡潔で的確な状況説明に、トウトは居心地悪そうに何度か頷いて、言葉を探すように俯いた。
少女の居住まいや返答に違和感があるのかもしれない。あまりにそっくりというからには、彼らには少女がその行方不明のコハクという少女に見えるのだろう。かれらの知るコハクと、今の自分に差異があれば、その反応も頷ける。とくに言及することなく、少女はまたひとくちミルクを嚥下した。
何気ない沈黙の間に、シュヴァルツの視線は少女の胸元に向いていた。指輪を見ているのだろうか。
「指輪が気になりますか」
「……いや」
「どうぞ」
興味を示しているのは明明白白だというのに、シュヴァルツは少女に声をかけられると目を逸らす。抱擁の件を気にしているのかもしれないと思った。少女自身は件に関してそれほど気にしてはいないし、これをシュヴァルツが検分することで何か情報が得られるなら、そちらのほうが有益だ。そう考えて、少女はするりと指輪が釣り下がっている組紐に手をかけた。首を擡げ、頭を通してそれを外そうとする。
刹那のことだった。石造りの指輪に嵌まった石が、炎をも凌ぐ赤に光る。一瞬の出来事に誰もが目を瞑り、組紐は驚いた少女の手から滑り落ちて再び指輪を胸元へと添えた。
少女の手を離れた指輪が微かに揺れ、ゆったりと光は落ち着いていく。三人三様に目を守っていたらしく、安全を確認してから緩慢に目を開いた少女は、シュヴァルツとトウトのふたりと視線をかち合わせることとなった。疑問符の飛び交う沈黙が場を支配していた。