一瞬で顔を青褪めさせたシュヴァルツと少女の間に、トウトが割り込んでくる。急いで結んだのか乱れた髪が揺れていた。トウトの背中が大きく少女の前にそびえ、少女は慌てて立ち上がる。
「トウト」
「レイン、何言われた」
「何も言われてないわ」
「嘘だろ。聞こえたよ、なんだ──元の体だとか、コハクとシュヴァルツと俺と、お前だとか、わけのわかんねえこと」
「私が傷つくようなことは何も言われてないわ」
「そうやってまたお前は自分を無碍にする!」
震える肩と大きな声に、少女は一瞬怯む。本当だ、なにひとつ嘘などついていない。彼の言葉は全て優しく、少女を傷つけるようなものなどひとつもなかったというのに。
「……無碍になんてしてないわ」
一瞬の沈黙をどう受け取ったのか、トウトは小さく首を振った。
「無碍にしてる。俺たち相手にまで我慢しなくていいんだ」
「じゃあシュヴァルツを責めるのをやめて」
「っ……責めてない」
「落ち着いて、トウト。私は傷ついていない、彼の話は至極まっとうで興味深いものだったわ。私の記憶についても、コハクのことも助けられるかもしれない足がかりよ」
「お前が! お前がコハクだろ!」
力任せの怒鳴り声がキン、と頭に響いた。
これほどまでに追い詰めてしまっていたのか、と少女は思った。彼はいつだって少女とシュヴァルツに優しく、独りよがりに物事を決めつけることなどなく、広い器で家族と接している人だ。注意喚起や戯れで声を大きくすることはあれど、こうして怒鳴りつけるなどない。昨日から彼の様子は変だったのだ。
少女の──コハクの不在は。これほどまでに彼らを変えるほど、大きなものだったのだろうか。守れなかった罪悪は肥大化して、少女というコハクのようでいてコハクでない私に触れた末に破裂した。やはり、コハクと少女の乖離はどこかにあるのだ。隠せないのだ。
トウトの必死の抵抗こそが、少女とコハクの相違を明確に表しているような気がしてならなかった。様々な要因で緊張した精神を摩耗して、彼はここまで来てしまったのだ。
少女が次に告ぐ言葉を必死に考えている間に、そこまで黙りこくって椅子に座ったままだったシュヴァルツがゆらりと立ち上がる。少女が何とかふたりの間に立とうとトウトの背を抜け出した瞬間に、深く息を吸い込んだシュヴァルツが言った。
「傷つけてるのはお前だろ、トウト」
「は、」
「俺は! 確かに、レインに酷いこと言った、それは確かにそうだ、謝らなきゃいけないのもそうだ、でもレインから逃げたいわけじゃないんだ」
「じゃあ早く謝れよ、コハクが我慢しいなのは誰より知ってるだろ!」
「レインはコハクじゃない」
「まだ言うのか、シュヴァルツ! しつこいぞ!」
彼が声を張ることは滅多にない。驚いて息を呑んだ少女にも頓着せず、シュヴァルツはトウトをきっと睨みつけていた。最後に彼の大声を聞いたのはいつだっただろうか。初めて出会ったあの晩に、湖に佇む少女を呼ばわった彼の声くらいじゃなかろうか。
トウトのように怒鳴ることはなくても、シュヴァルツにしては大きな声で、はきはきと迷いなく言葉を紡いでいた。
「しつこいのはお前のほうだろ」
「俺のどこがしつこいって言うんだよ!」
動悸が激しい。彼らの仲は決して悪くないと、家族だ、親友だと言っていたはずじゃないのか。少女から見ても、ずっと仲の良い兄弟だったふたりが喧嘩を始めてしまうのは痛ましい光景だった。どきどきと鼓動がやけに早くなり、冷や汗が垂れる。
シュヴァルツの長く艶やかな髪が、彼が声をあげて身を捩るたびに靡いていた。部屋の中に風など吹いていないのに、トウトとシュヴァルツが声を荒げるたびにふたりの髪が揺れる。少女が口を挟む暇などなかった。いつからか、少女を頭痛が苛みはじめていた。
「トウトは、いつになったらちゃんとレインと向き合うんだ、コハクからもレインからも逃げてるだけだろ」
「お前のほうこそ、コハクに記憶がねえからって雑に扱ってっ……」
「それでもコハクの兄か、俺の家族なのか、お前」
呆れたように、吐き捨てるように言ったシュヴァルツに、トウトが口端をひくりとさせながら言い返す。
「馬鹿にしてんのか」
「してる」
「トウト、シュヴァルツ!」
怒りにかっと頬を赤く染めたトウトがシュヴァルツの胸倉を掴むのに、少女はようやく叫ぶようにして口を挟んだ。ずきずきと少女の頭を襲う頭痛を堪え、仲裁するように手を伸ばす。それをみて勝ち誇ったように軽く口角をあげたシュヴァルツが続けた。
「……コハクが俺たちの喧嘩を仲裁するのか」
「記憶がないんだから昔みたいになってるのかもしれないだろ!」
「昔だとしても、仲裁しない」
「……しただろ!」
「嘘だ。しない。他人の喧嘩に口を挟めるやつじゃない。そもそも、記憶がないからって、口調も、仕草も、何もかも変わるのか」
「なにかあったんだよ、絶対!」
ぎり、とトウトの腕に力が入る。やめなさい、と繰り返す少女にも頓着せず、彼らの喧嘩は止まる勢いを知らなかった。
頭が痛い。声がどこかに反響しているような、そんな不可思議な錯覚に襲われた。
そうだ、彼らはコハクのために声を荒げているのだ。普段温厚なトウトも、日常的な会話も少ないシュヴァルツも、大切だからこそ堪えきれない感情を、声にして溢れさせている。
少女はそれを、その光景を知っている気がした。彼らの言葉が虚空に混ざり、よく見知った誰かの声になる。彼らは私の名を呼んでいる。それはシュヴァルツが少女に問いかけた心当たりのようにも、眠るときに視る夢のような気もしていた。ああ、そんなことよりも早く、今にも取っ組み合いになりそうなトウトとシュヴァルツを止めなければならないのに! こんな時に限って思考がぐちゃぐちゃだった。
「早くレインと向き合えよ、分かってるんだろ、トウトも」
「馬鹿言うな、コハクに謝れ! お前、コハクに何も言えなかったって後悔してたくせに、いざ出会ったら出会ったで更に傷つけてどうするんだよ! また後悔したいのかよ!」
「後悔するのはお前だ、お前こそ早く認めて、ちゃんとレインと向き合えよ」
「こんな好き勝手言われていいのか、コハク」
「トウト、だから私は──」
シュヴァルツの胸倉をつかんだままのトウトに問われ、少女は小さく首を振りながらなにか言葉を返さねばと声を紡いだ。頭痛とこの状況に乱された思考からでもなんとか、ふたりを落ち着かせなければならない。きっとこの状況を止められるのは自分だけだと頭に手をやった少女の声を、シュヴァルツが遮った。
「今のお前には俺の話を聞く余裕もないくせに、知った口聞くな」
「そう言うお前はコハクの何を知ってるんだよ! コハクをコハクとも呼べないくらい器が小さいくせに!」
「俺が!」
トウトに力任せに胸倉を掴まれて、シュヴァルツの体が微かに持ち上がった。爪先立ちになったシュヴァルツに、そろそろ力づくでもなんでも止めなければと覚悟を決めた少女すら圧倒するような大声でシュヴァルツが続けた。
「この俺が! コハクを見間違うわけないだろ!」
ずっと一番傍で見てたんだ、とシュヴァルツが続けた。少女が頭痛すら忘れるほど驚いて、同時に目の前の光景が歪むような感覚を覚える。トウトがゆっくりとシュヴァルツから手を離したのは、その大声に怯んだからではなく、シュヴァルツの目から大粒の涙が零れたからだった。
「喋るのが苦手な分、見てたんだ、ずっと」
「……そんなの、俺だって」
「家族としてみてたお前とは違う、俺は──」
そこまで言って、シュヴァルツの言葉は涙に呑まれていった。さっきまでの怒涛の応酬はどこへやら、一気に訪れた静寂の冷たさがやけに目立つ。気まずそうに目を逸らしたトウトが唇を噛んでいた。
シュヴァルツの服の襟を離したきり、行き場がなくなったように宙に置かれたトウトの手が、咳が切れたように泣き出したシュヴァルツの涙が、すべてが少女をどこかへと連れ去っていく。頭痛はどんどんと大きさを増していた。痛みにふらついてしまわないよう足に力を入れて、少女は軽く俯いた。真白な前髪が少女の瞳と表情を隠した。
少女は、目の前の光景を知っているような気がしていた。
声を荒げて揺れるひとまとめの髪、自分を思うがあまりに引き起こる喧嘩。それはどこで起こっていた、なにを引き金に起こっていた? 小屋が静寂に包まれた分だけ少女の思考は鮮明になり、現実と過去の境目が曖昧になっていく。鼻を赤く染めて袖で涙を拭ったシュヴァルツと、どうしようもなく行き場をなくした感情を持て余しているトウトのことも、全てが少女の記憶と混ざり合っていく。
「…………レインがコハクじゃなかったほうが、良いんじゃないか、お前にとっても」
「……でも、じゃあ、俺の知ってるコハクはどこに居るんだよ」
「…………それ、を。探そうって、言おうと思ってたんだよ、俺は。レインとも、もう話したから」
「……認めたくない」
認めたくない、と少女の頭の中で繰り返し言葉が響く。ちかちかと目の奥でなにかが光るような感覚がした。ずきり、と今までで一番激しく頭が痛む。
ただ、痛みはそれきりだった。
悔しそうに拳を握り、自分も泣きそうに目を潤ませるトウトが、絞り出すような声で少女に問いかける。
「なあ、レイン。お前がコハクじゃないなら、お前は誰なんだよ」
答えがないのを知っていて、それでも聞かずにはいられないような、諦めの混ざった声色だった。シュヴァルツがぐすぐすと鼻を鳴らし、俯きながらも少女に心配そうな視線を向ける。
「──……私は」
頭痛は既に収まっていた。
少女が何か答えようとしたのを察してか、トウトが小さく首を振る。「いや、いい。悪かった」と自嘲気味に笑ったトウトの言葉を遮って、少女はゆっくりと顔をあげる。
「私は、アルカディア」
ぎゅう、と少女は拳を握った。
その言葉に驚いて、シュヴァルツとトウトが勢いよく少女の方を向いた。見開かれた目が驚きを示し、張り詰めた空気が一瞬にして広がる。
右の目から一粒だけ涙を零した少女は、目を見開いたふたりの視線を一身に受けながら、燐と続けた。
「……全て思い出したの。私が何者かも、どうしてここにいるのかも、コハクのこともなにもかも全て。どうかしら、温かいスープでも飲みながら話を聞いてはくれないかしら」
少女は、ただの町娘が負うにはあまりにも神聖すぎる雰囲気を背に持って、今までにないほど優しく微笑んだ。呆然としたふたりに小さく「ごめんなさいね」と誤って、少女はひとり居間へとゆっくり歩いていく。
ふたりはその名前をよく知っていた。
それは遥か昔、水龍の怒りを買い湖に沈んだとされる街・ティヒエン最期の巫女の名。
呆然としたまま居間へと向かったふたりを出迎えて、少女はまるで別人のように綺麗に笑って見せた。