27

 いつも通りに囲む朝餉の食卓も、トウトとシュヴァルツが険悪な空気を醸し出しているとどこか気詰まりだった。いつもより速く少女の作ったスープを飲み干したトウトが、少女にだけ素早くお礼を言って寝室へと立ち去る。一晩中少女の面倒を見ていたほうが朝から昼前ほどまで眠るのは慣習と化していた。
 おやすみなさい、と去る背中に声をかけた少女に軽く手を振って、寝室の扉が音を立ててしまった。シュヴァルツは一瞬顔を顰めた後、小さくため息を吐く。
「……シュヴァルツも意地になっているの?」
「…………トウトは意地になってるのか」
「そう見えたけれど……いえ、トウトのことなら、シュヴァルツのほうが知っているのでしょうね」
 そう言ってからパンを咀嚼する少女に、シュヴァルツは一旦食べる手を止めてなにごとかを考えているようだった。今日は昨日に比べて、すがすがしいほどの晴天だった。
 目を細めたシュヴァルツが、小さな声で口を開く。
「……分からないんだ。俺は、トウトを怒らせたことが、なかったから」
「喧嘩はしないの?」
「……軽口の叩き合いくらいなら。でも、あんな風に怒鳴られたことも、俺が怒鳴ったこともない」
 俺の話もろくに聞いてくれなかった、とシュヴァルツはぼやいた。話すことが得意ではない彼にとって、彼の調子に合わせて話を聞いてくれる相手は稀少なのだろう。どこか影のある様子で食事を進める彼は、それでもどこか決意に満ちた顔をしていた。
「……あのさ」
「なにかしら」
「……今日、家のこと終わらせたら、聞いてほしい話があるんだ」
 俯いた表情で、どこか緊張しているようにシュヴァルツはそう言った。
「ええ、分かったわ」
「……ああ」
「トウトに話したのと同じこと?」
「…………ああ」
 彼の、匙を持つ手がきつく握られた。普段温厚なトウトから、あれほど頭ごなしに怒鳴られれば、少女に話すのも勇気がいるだろう。伝えることに関しては、トウトが話せることならたいていトウトに任せるような彼だ。ここまでして少女に訴えたいことは、はたして何事なのだろうか。トウトから話の概要は聞いているとはいえ、少し重苦しくなった空気が背にのしかかってくるような気分だった。
 それきりシュヴァルツは黙ってしまった。昨晩から、僅かに湿っているからと暖炉の前に置かれた本が二冊、揺れる炎の光に照らされていた。見覚えのない本が一冊紛れていることを聞く間を逃し、少女は家事を始めてしまった。

 少女の寝室の椅子に座り、シュヴァルツは寝台横の棚に持ってきた本をゆっくりと置いた。いつも二人が読んでいるあの分厚い本ではなく、きちんと装丁がされていながらに、比べれば小ぶりな本だった。どこからか借りてきたのか、譲ってもらったのか分からないけれど、見たことのない本であることに違いはない。
 シュヴァルツの俯きがちな顔に心配を抱きながら、少女は目を細める。一通り一日、最低限行わなければいけないことは済ませた。本当はまだ家事が残っているけれど、トウトが起きる前に、という意味が暗に含まれた誘いに、少女は頷いたのだ。
 トウトの口からは言いたくないことであり、あれほど彼の怒りを生むことだ。それでも少女に伝えたいのならば、今の時間を選ぶのは賢明な判断だろう。寝台に腰かけた少女と向き合ったシュヴァルツは、迷ったように視線を泳がせている。
「……それで、なにかしら」
「トウトから、なにか、聞いてるか」
「私とコハクの違いについて、だったかしら。要領を得なかったから細かくはわからないわ」
「……そうか」
 どこから話すか、とシュヴァルツは小さく呟いた。トウトより微かに低い声が耳朶をくすぐる。膝の上で握りしめられた拳が、彼の緊張を表していた。
「遮ったりしないから、なにからでも話して頂戴」
「……ああ」
 何度か深呼吸をしたシュヴァルツが、ゆっくりと顔をあげた。釣り目がちに細められた真剣な表情に、少女もあらためて背筋を正す。こんな真っすぐな視線に刺されるのは、随分と久しぶりな気がした。
「一昨日、俺が夜、お前の番をしてたとき、少しだけ症状が出たんだ」
「……聞いてなかったけれど、そうだったのね。ありがとう」
「…………いや、うん。……それで、その時お前に声をかけてたんだ、少しでも止められないかって」
 それはいつもやってるんだけど、と言われ、少女は小さく頷いた。しかし、赤い目をした少女の名前を呼んでも決して反応しないのだと彼らは言っていた。まるで少女じゃないかのような反応をするのだ、と。誰でもない、どこにも居ないような抜け殻みたいになってしまうのだと。
 シュヴァルツは続ける。視線が泳ぎそうになって揺らぎ、それでも少女から目を離さぬように堪えていた。彼の口数も声色も、真剣そのものだった。
「……一昨日、勢いで名前を呼んだんだ、『レイン』じゃなくて『コハク』って」
「ええ」
「そしたら、反応した。お前が──いや、コハクが」
 驚いて瞬きした少女に、シュヴァルツが唇を噛んだ。
 返事をした、とはどういうことだろうか。何をしても、ただひたすらにかの地へ向かおうとすると言っていた夜の少女が、シュヴァルツの呼び声に反応したなんて。『コハク』だと返事をしたんだ、と繰り返すシュヴァルツに、小さく首を傾げた。
「……つまり、夜の間の私こそがコハクだと言いたいのね?」
「……そうだ」
「それで、今の私はコハクではないと、そう言いたいのね」
「…………そうだ」
 小さく息を吐いてから、シュヴァルツはそう答えた。気まずさを覚えたのか目を逸らしたシュヴァルツの拳は微かに震えている。乱れ始めたシュヴァルツの息に、怯えられているのか、ただ緊張しているのか分からないけれど、と少女は目を細めた。
「責めているわけではないわ、落ち着いて」
「……悪い」
「トウトはその話を細かく聞いたのかしら。それから、もう少し根拠があれば聞かせてほしいのだけれど、お願いできるかしら?」
 安心させるように微笑んだ少女に、シュヴァルツはゆっくりと視線を戻した。噛んでいた唇をそっと解いて、シュヴァルツはこくりと頷く。
「……俺の声にやっと反応してくれたお前が、俺のことを『シヴァ』って呼んだんだ」
「シヴァ?」
「……俺が、コハクから呼ばれていた愛称なんだ。シュヴァルツを省略して、シヴァ。……やっぱり、お前は知らなかったんだよな?」
「ええ、知らないわ。トウトから聞いてもいない」
「…………俺のことをそう呼ぶのはコハクだけなんだ。だから、コハクだと思った。トウトにも話そうとしたけど、それで昨日の言い合いになった」
「……成程ね」
 少し考えるように首を傾げた少女に、シュヴァルツがさらに重ねる。
「俺、原因とか、いろいろ考えたんだ。だっておかしいだろ、人間が入れ替わるなんて」
「ええ、そうね」
「……いつのまにか指輪に嵌まってた、赤い石も怪しい。そもそも、変な噂が沢山ある白の子そのものも、俺は怪しいと思ってる。……昨日は、それを調べにイズに向かってた」
「ああ、そうだったのね。ありがとう」
 少女のお礼の言葉に、シュヴァルツは小さく首を振った。それから、寝台の横の棚に置いてあった本をゆっくり手に取ると、ぱらぱらと頁を捲り始める。紙の香りが微かに鼻腔をくすぐった。
「その本はどうしたの?」
「イズの教会の……グラド神父が譲ってくれた。事情を話して──勝手に話して、悪かった」
 今思い出したかのようにはっとして頭を下げたシュヴァルツに、少女は軽く首を振る。
「私のためを思ってくれたのでしょう? 私は構わないけれど……そうね、聡明だとは思ったけれど、グラド神父は理解があるのね」
「……ありがとう」
 しばらくの沈黙が部屋を満たす。俯いた彼の瞳を、睫毛が微かに隠していた。翳った瞳の向こう側で、今日一番に弱々しい声がする。
「……俺は、お前のことも助けたいんだ」
「……私のこと?」
「…………散々、コハクじゃないとか言って冷たく当たっておいて、何を今更って思うかもしれないけど」
「冷たく当たられたと思ったことはないけれど。家族が──いいえ、特別な相手が、様変わりして帰ってきたら驚くものだわ」
「……気付いてたか」
「尋ねていいか迷っていたところよ。自分のことだと思っていたから」
「……俺の話が全部嘘で、俺の気が触れていて──自分のことかもしれないぞ」
「ええ、そうね」
「……なんにせよ、俺はレインに優しくはなかった」
「出会った一晩目は確かにそうだったかもしれないけれど、今は違うわ」
 優しくて素敵な人だと思っているわ、と少女が笑えば、シュヴァルツも困ったように微かに笑ってみせた。常なら照れているような仕草だったけれど、それはどこか哀愁を帯びていた。少女に、それからコハクに深い罪悪を抱えているような表情だった。
「……コハクじゃないって言われて、随分あっさり受け入れるんだな」
「……あっさりではないけれど。薄々感じてはいたもの」
「…………そうか」
「自分が何者かも分からずに、勝手に他人の体を借りているだなんて非現実的なことと向き合うのは少し嫌だわ。でもいつまでも立ち止まってはいられない」
「強いんだな」
「きっと元来の性格なのよ。コハクは私のようではないのでしょう?」
「……全然違ったな。昔は明るい奴だったけど、自分が迫害されることに気が付いてからは……変わったから」
 ぱらり、ぱらりと何かを探すようにシュヴァルツの手が動いている。
「…………お前は、自分がコハクじゃないとしたら、何か……心当たりはないか。元の自分に」
「そうね……白い髪だけは懐かしいと思ったわ。それから、どこか……神殿のようなところに居た気がする。ふたり、いつも傍に居てくれる人がいたわ、ちょうどあなたたちみたいな人が」
「……やっぱり白髪なのか」
「ええ、おそらくはね。朧げな、夢のような記憶なんて宛てになるかわからないけれど」
「……これを見てくれ」
 会話の最中に目当ての頁を見つけたらしい彼が、少女に見やすいように本を持った。
 古いその本のその頁には、見開きの挿絵が描いてあった。掠れた筆の跡が残る絵には、あの教会で見た龍の紋章の書かれた柱らしきものが何本か描かれている。それの間を縫うように美しい龍がおり、その瞳はなにかの花弁の色ででも染めたのか美しい紅に染まっていた。その龍のもとに巫女と、その傍らに仕える側役らしき人、それから彼らの後ろには群衆たちが居て、まるで何かの儀式でもしているようだった。
 なにかの風刺画だろうか、と思った。シュヴァルツは絵を凝視する少女に、小さな声で続ける。
「これが、水龍……らしいんだ。目が赤いだろ」
「ええ、そうね。手……爪かしら。そこに持っている球体は青いけれど」
「この瞳には、願いをなんでも叶える力があるって書いてあるんだ。だから、巫女を通じて、街の発展をお願いしている場面、らしい」
「なんでも……まあ、神様と呼ばれるくらいだしね」
 少女は、言いながら眉を潜めた。願いをかなえるのには対価がいるものだ。それが行動にせよ、感情にせよ、物質にせよ、なんの代償もなしに自分の願いばかりかなえてもらうなど、ありえないことだ。例えば頼みごとを二つ返事で請けて貰えたとしても、それは信頼関係があってこそなのだから。
 しかし、あくまでこれは本に書かれている神話のようなものらしい。決して内容を説明したかったわけではないだろうシュヴァルツが何を言わんとしているのか、少女はなんとなく分かったような気がしていた。
「……こんな不思議なこと、ありえないとは、思うんだよ」
「まあ、人間と人間が入れ替わるだなんて、理屈で考えられることでもないわ」
「…………お前の指輪に嵌まった石が、水龍の瞳っていうやつで。それで、なんらかの事柄で──お前とコハクが入れ替わってる」
 あり得ないと自分で言う割に、シュヴァルツは確信を持っているようだった。
 少女は小さく息を吐くと、寝台に片手を突いた。神話を鵜呑みにするのならば筋は通っている。
「たとえばその仮説が本当だとして、記憶を失う前の私は、それほどまでにこの子が羨ましかったのかしら。それとも、誰でもよかったのかしら」
「…………白の子なら、虐待とか、あるし」
「ええ、そうね。コハクもわたしの体で不便しているかもしれない。早く元に戻らなければね」
 シュヴァルツはこくりと頷くと、話したいことは全て話したのか深呼吸をした。肩の荷が下りたとでも言いたげに力を抜いたシュヴァルツが、頬を掻きながら続けた。
「自分でも分かってる、突飛な話だって」
「興味深かったわ。私がコハクだったとしたら、元に戻った時には笑い話ね。イズで医者を探しながら、その……白の子と、赤い宝石周りに着いても調べましょうか」
「ああ。……聞いてくれてありがとう」
「いいえ。話してくれて嬉しかったわ」
 気がつけば、ずいぶん長く話し込んでいたようだった。窓から差し込む日の角度が少し変わっていて、少女はそろそろ昼ごはんを作らなければなと髪を耳にかける。
 トウトには、自分から少しづつゆっくりと話していけばいいだろう、と少女は思っていた。日にちが立てばトウトも落ち着いていくはずだから、時期を見ながら少女のほうから伝えれば、少しは話を聞いてくれるだろうか。随分と、トウトもシュヴァルツもコハクを失った後悔に苛まれ、切羽詰まっているのだ。
 昼を作るのに、肩をくすぐるような長い髪は少し鬱陶しい。組紐はどこに置いたかしら、と部屋に視線を巡らせた少女に、シュヴァルツがぼそりと呟いた。
「……もし俺の仮説が本当で、お前が元の体に戻れたら」
 俯いた彼とは目が合わない。話は終わったものだと思っていた少女は虚を突かれ、思わず瞬きをしながらシュヴァルツを見つめた。どこかぼそぼそと喋っている彼の言葉に耳を澄ませる。
 数拍の沈黙があった。少女の直感が、聞き逃してはいけないと警鐘を鳴らす。シュヴァルツに向き直り息さえ止めた少女に、何か覚悟を決めたらしいシュヴァルツが顔を勢いよくあげる。
「コハクとトウトと、お前も一緒にここで」
「何やってんだ、シュヴァルツ」
 その声に、シュヴァルツが大きく肩を揺らした。驚いて顔をあげた少女の目に映るのは、いつのまにやら起きて支度を済ませたらしいトウトの姿だった。まずい、と反射的に思う。
 今の彼にこの話を聞かせてはならない。切羽詰まってぎりぎりのところを綱渡りしているような心情の彼に、昨日あれほどの剣幕で否定したシュヴァルツのことばを聞かせてはいけない。──いけなかった。
 顔を顰めたトウトが、壁に手をついてシュヴァルツを見て──否、睨んでいた。
「お前、昨日の話をしたのかよ。よりにもよって、レインに」