第四章 願いと呪い    30

「アルカディア」
 背後から優しげな声がかかった。ぼうと思慮に耽っていた少女がゆっくりと振り向くのを待って、銀の髪を持つ青年は微かに笑う。どこか苦笑いの気配を伴ったその微笑みに、少女は肩を竦めた。
「ウィリアム。なにか用事かしら」
「もう夜も深くなってきてるから知らせに。眠らないと駄目ですよ、巫女様」
「あら……もうそんな時刻かしら。ありがとう」
「いいえ。結構前からこの部屋に居たけど、本当に気が付いてなかったのか。珍しいね」
「少しね。考え事をしていたわ」
 外で瞬く夜空を閉じ込めたような漆黒の瞳を細め、少女はゆっくりと立ち上がった。腰まである真っ直ぐで指通りの良い髪が、少女の動きに合わせて揺れる。二の腕に嵌められた金色の腕飾りと、艶やかに真白な髪が三日月の光を浴びて煌いていた。
 もう眠るわ、と少女が言えば、ウィリアムは小さく頷いた。それから少女が思慮に耽っていた机に置いてある蝋燭の火を揺らして消す。部屋に灯る灯りは寝台の傍の燭台ひとるになり、夜がじわりとその場を支配し始めていた。
 白く磨き上げられた石壁のこの部屋は、少女に与えられた部屋だ。燭台がいくつかあり、一人で眠るには聊か大きい寝台のある、質素でありながら上質な住まいだ。少なくとも、町の中で一等質のいいものを使った部屋であることは間違いなかった。
「……考えていたのは、明日のお告げについて?」
「そんなところよ」
「……そう」
「何か言いたげね。遠慮はいらないわ、言って御覧なさい」
「いいえ、まさか。ティヒエンをお守りくださる白の巫女様に意見など」
「……都合のいいときだけ側役の顔。そういうところ、嫌いではないけれど」
 謙遜するように首を振り、微かに息をついたウィリアムに少女は手をひらりと振った。彼の明るい空の色をした瞳が少女から逸らされる。
 こうなれば、彼はもう何も語ってはくれない。幼いころから彼に親代わりとして面倒を見られている少女はそう悟って、寝台へと腰かけた。もとより、側役の顔と家族の顔をうまく使い分ける器用な彼から深く問いただそうなどと考えてはいない。もうひとり居る親代わりだったなら、ここで口を割っていただろうけれど。
 眠る支度をと靴を脱ぎ、腕と足、それから首に嵌まっている飾りを外し始めた少女に、ウィリアムは簡単な形の礼をする。それに軽く微笑み返して、少女は続けた。
「それじゃあお休みなさい。マーヴィにも言っておいて、いい夢をとね。どうせ起きているのでしょう? 明日は民へ神の声を届ける大仕事だというのに」
 わざとらしくそう言えば、青年はここ一週間ほどで何度目かわからない溜め息をついた。おおかた、少女が明日ティヒエンの民に伝える「神龍からのお告げ」に思うところでもあるのだろう。少女が強気な姿勢を崩さないのを見てか、はたまたそもそも諦めていたのか──ウィリアムはそっと扉へと向かうと、冷たい石でできたそれをゆっくりと押し開けた。まるで夜更かしをしたがる子供が本当に眠るかを確認するように少女のことを眺め、そして笑う。
「きっと起きてるだろうから伝えておくよ。お休みなさい、アルカディア。──また明日、神殿で」
「ええ、また明日」
 とっくに夜の服に着替えていた少女が全ての装飾具を外し寝台に登れば、ウィリアムはようやく満足したのか扉の外へと出て行った。
 少女の部屋の扉がゆっくりと閉まるまで、ウィリアムの足音は止まなかった。扉一枚で繋がる水龍の神殿を歩む硬質な足音が響き、その音がいっそうこの場所の静けさを目立たせる。部屋の扉が閉まり暫くして、神殿の大扉が開いてすぐに閉まるのを感じながら、少女はゆっくりと眠りにつく。
 夜の神殿に在するのは、いつだって白の巫女──少女ひとりだった。誰かの気配を感じることなどなく、ただ、夜に寄り添っていた。乳飲み子でなくなってから続くこの寂しさは、十四にもなれば慣れてしまった。ただ冷たい壁と暖かな火の光が揺れる光景だけが、この瞬間の少女のすべて。

 ここはティヒエン、水を、神を愛する町。町長含む老院が町を治め、真白に磨き上げられた神殿とその奥にある「月の湖」に見守られることで繁栄してきた町。町の建造物は白色の石ばかりで出来ていて、あちこちに水の流れる、まさしく水龍に愛された町。
 神殿に住まうことを唯一許される、三代に一度授かるとされた「白の巫女」の少女──アルカディアの故郷の町だった。