次の収穫祭までどうか、と願う老婆の声が神殿にこだまする。一枚の幕を隔てた先で悲痛な声で祈りを捧げる老婆に、幼い少女は眉を潜めるばかりだった。少女の横に控えた、女の身でありながら騎士である側役の娘──マーヴィに助けを求めるべく視線を投げても、娘は凛として前を向くばかりだった。
「主人は収穫祭をとてもとても楽しみにしているのです。あと少しですから、どうか主人の命をお助けください……」
少女が目を泳がせようとも、幕の向こうでただ祈りの言葉を捧ぐ老婆に伝わることは消してない。彼女はそもそも、少女がこのような戸惑いを持つただの子供であるなどと思ったことはないのだろう。老婆は少女が言葉に詰まっていても、自分の言葉が巫女の返事に値しないものだと思ったのか幾度も同じ言葉を捧げていた。
幼く柔らかな唇を微かに噛み俯けば、マーヴィの横に居たウィリアムが淡々と答えた。
「ティエデールさまは民を見守っておられます。ご安心なさい、収穫祭まであとひと月もありません」
「ええ、ええ……しかし、今にも死にそうなのです。もう尽くせる手はございません」
「神に気に入られているのかもしれませんね。神々が一足先に彼を連れて言ってしまわぬか……巫女殿からもティエデールさまに言伝てしておきますから、どうかご安心なさい」
「本当ですか」
肩口まである銀の髪の向こうからウィリアムの視線が幼い少女に飛んだ。肩を微かに跳ねさせてから、はっと気が付いて口を開く。
「……ええ、勿論」
「巫女様!」
巫女様から言伝ていただけるならば安心です、とあからさまに明るくなった老婆の声に、少女は布で隔てられているのをいいことに苦笑する。
「神々は我が儘ですから、巫女殿のお言葉より彼への愛を選んでしまうかもしれません」
「ええ、ええ、承知しております。それでも幾分か望みがあるだけ幸福です」
幕の向こうで何度も頭を下げる老婆に、ウィリアムは優しい声で続けた。
「さあ、家に帰って主人の傍に居てあげなさい」
「はい、本当にありがとうございます、巫女様」
浮ついた声に眉を潜めた。齢九つの幼い少女に、彼女はどれほどの信頼を寄せているのだろう。なんどもお礼の言葉を口にしながら遠ざかる老婆の姿を影で見ながら、少女は微かにため息をつく。決して神殿の中に響かぬように気を付けたと言うのに、隣でそれを聞きつけたウィリアムには視線で嗜められてしまった。
神様などいないのに、と呟けば、目の前に座る黒髪の娘の眉がきりと吊り上がった。
どこかで梟が鳴いている。嵌め殺しの窓の向こうから聞こえるその声が何かと問うたのはいくつのころだっただろうか。少女は、未だ本の挿絵でしかその姿を見たことはない。
そうして夜が深まってくるころに、少女と側役のふたりは部屋で食事を摂っていた。木の椀に注がれた暖かなシチューが湯気を立て、肌寒くなりはじめた部屋を暖めている。大人二人と同じ大きさの匙は、幼い少女の手には少し余っていた。
柔らかにふわふわとした黒髪を頭の天辺で纏めているマーヴィは、幼い少女の先の一言にシチューの椀を机に置く。それから、咎めるように一段低くなった声色で少女を刺した。
「ティエデールさまは聞いていらっしゃいますよ、巫女様」
「だって、祈ったって神様の気配はおろか、あなたたちの言う神の声など聞こえもしないのよ」
「修練を重ねればティエデールさまとて認めてくださいます」
「マーヴィはいつもそればかりね」
「まあまあ、ふたりとも熱くならないで。マーヴィも頭ごなしに叱らない」
分かりやすく不機嫌を表に出した二人の間から温和な声がする。食べていたシチューを飲み込んだらしいウィリアムが、ゆっくりと諫めるようにマーヴィの肩を叩いていた。それに対抗するように睨みつけて、マーヴィは不満げな声で返す。決して声を荒げているわけではないのに、その静かな口調には熱が籠っていた。
「ウィル! そうやって甘やかして、巫女様がずっとこの調子だったらどうするの」
「焦っているんだろう。大人たちにこぞって期待を寄せられながら成長した齢八つ、九つのころなんてそんなものさ。僕等にだって身に覚えはあるだろう?」
「十五も昔のことなんて覚えているわけないでしょう」
「きみは剣の腕前が伸びなくてよく泣いていたね。女性なのに剣を持たせてもらっているのに情けないと」
「…………忘れて」
瞬きの回数が増えたマーヴィに、少女は微かに鼻を鳴らした。ウィリアムに言論で対抗しようなど百年早いと微かに思った少女に釘をさすように、ウィリアムは少女にも向き直る。
「アルカディアも。神様にひどいことを言ってはいけないよ」
「……お願いごとの言伝を引き受けておいて、ただの湖に向かって唱えるだけなんて、民を欺いているとは思わないの?」
「今のきみには聞こえないかもしれないけれど、水龍様にきみの声は聞こえているよ」
「……そう」
「民に期待を寄せられているからね。悩むのも分かる。でも平気だ、きみは神に愛されて生まれてきたのだから。まだ人の身に慣れていないだけさ」
そう言って、ウィリアムはまたシチューを食べ始めた。少女は小さく肩を落としてから、倣って匙を持つ。町の中でも贅沢な食事は、巫女に与えられた特権だ。
日に透ける美しい白髪をもつ女子は、このティヒエンでは特別大事にされた。三代に一度と言われるそんな子供が生まれたその時から町はお祭り騒ぎで、神に愛された乙女だとはやされ神殿に預けられる。我らが守神である水龍ティエデールが、愛した魂を我が物にするために現世に一度預けるのだと言い伝えられているのだ。神に選ばれ白の子を授かった実の両親は百年の繁栄を約束され、そして当の白の子は、齢十五に現世の不浄を注ぎ神の嫁になるまで、ティエデールを祀る神殿で大切に育てられる。その親代わりの世話役を引き受けるのは、水龍の臣下の証とされる青の目を生まれ持つ人たちだった。
町の統治を行うのは元老院と呼ばれる議会だが、町の象徴は白の巫女だった。人々の祈りを受け取り、神へと言伝する大切なお役目を持っていた。少女はそのために育てられ、神に嫁ぐ齢十五までずっと神殿で暮らすのだ。
少女はそう教わって育ってきた。己は神の嫁となるものと自分を律し、ただ神殿の奥の水龍の訪れる場所と言われる湖で祈り、民の声を聴き、側役のひとりであるウィリアムから勉学を習うという日々を繰り返していた。
もう一人の側役であるマーヴィは、女性でありながら剣を持つ勇敢な女性であった。彼女は、騎士であることを己に律しているせいもあるのか格式に拘り小言が多い。側役であり親代わりだというのに、ウィリアムと違い赤子のころから少女の名を呼んだこともない。そんなところに見える頑固なところが、今の少女には少しだけ重荷だった。
神殿の中に吹く隙間風は冷たい。少女はあたたかな食事をゆっくりと口に運びながら、ふと疑問に思ったことを問いかけた。
「……ねえ、ウィリアム」
「どうしたの、アルカディア」
「ひとは死んだらどうなるのかしら」
その設問に、ウィリアムは一瞬眉を潜めた。微かに目を伏せてから、かたりと椀の淵に匙を置く。それから空色の目を細めて、寂しそうに口を開いた。
「神の世界に行くんだよ」
「そういう話をしているのではないわ」
「それ以外に死にまつわる話等ないだろう。神様の統治する世界に行って幸せになるんだよ」
「……神様など」
「アルカディア」
にこりと、わざとらしく張り付けた笑顔に諫められ、少女は渋々と口を噤んだ。そういうことを聞きたいのではないのよ、ともう一度繰り返せば、ウィリアムは目を伏せてまたシチューを食べ始めてしまった。