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 驕っていたのかもしれないな、と少女は思った。
 ウィリアムから多くの知識を授かり、民に慕われ、成長とともにしっかりと周りを見ることができるようになったのだと。巫女を務めるに相応しい存在になることができたのだと、心のどこかで慢心していたのかもしれない。元々、少女にできることなどただ祈り、民の象徴として静かにそこに在ることだけだというのに。 
 今日のような失敗を重ねるわけにはいかない、と少女はひとり静かに本の頁を捲った。本来ならばとっくに眠りについているはずの時間だったけれど、今晩はどうにも眠れそうにない。ならばせめて、知識のひとつでも増やしたらどうかと思ったのだ。
 幸いなことに、少女の部屋にはすべてが備え付けられている。本棚も、月明かりよりも頼もしい蝋燭も。揺れるあたたかな光のもとに文字を照らしながら、少女はただ考えていた。
 この町のために少女ができることは、とにかく民のために祈ること、それから民の声を聞き届け、少しでも心の安寧を保つことだ。それ以上に出来ることを探し、読み漁っているのはウィリアムが置いていった地学の本だったが、ろくな情報はほとんど残っていない。大抵の本が既に読んだもので、そもそもウィリアムが既に頭に詰め込んだ知識ばかりだ。
 本当に恐ろしいのは土砂崩れではない。少女は文字を目で追いながら目を細める。土砂崩れはあくまで副産物でしかない。この地の地盤が崩落する前に、民をどこかに移動させねばならない。
 助かるためには、この地を捨てなければならない。
 民が、元老院がそれを渋る理由も少女には分かっている。少女たちの進言ひとつでどうにかなるものでもないそれは、水龍の棲む湖──毎日、少女が祈っている湖がそこにあるからだ。捨てられない、この町に根付く信仰と慣習のすべて。それを捨てるということは、彼らにとっては「水龍ティエデール」を捨てることに他ならないのだ。
 町と呼ぶには小規模で、世襲制の議会である元老院ひとつで綺麗にまとまり、些細な争いごとはあれど慎ましやかにしなやかに、この町があるのは水龍がいてこそだった。ここは宗教都市なのだ。もしかしたら、水龍と共に、それが定めだとこの地に身を埋めるのが彼らの幸せなのかもしれないとさえ少女は思った。
 それでも助かってほしいと願うのは傲慢だろうか。少女は未だ水龍ティエデールを感じたことはなく、湖はどこか空虚に、底に代々の白の巫女を眠らせたままに揺蕩っている。それだけなのだ。今既にこの町の信仰は民の心を支えるだけのもの。現実の救いなどなにひとつない、そんなもの。
 信仰などそれで良いのだと少女は思っている。けれど、その信仰が人を、民をこの地に縛り付け殺すのは──象徴としてそこに在る少女として納得したくはない。信じた末に死を迎えるなど、そんな悲しいだけの結末を、この町に与えたくはない。
 少女はため息をついてから、ぱたんと本を閉じた。まさか、突然災害が起こるからこの町を離れてくれなどと民に言うわけにもいかない。一年後にはこの地を去る、民のための巫女のことばで混乱を生むことはウィリアムたちも元老院も望んでいないだろう。
 ウィリアムにあとを任せたほうが良いだろうか。それでも、一年経ってから、少女が神の世界に嫁いだからもう平気だと民たちが勝手に納得しはしないだろうか。かつての研究者は、巫女は、この事態を予測できなかったのだろうか。
 何を言ってももう遅い。長く見積もったとしても、きっとウィリアムたちが天寿を全うするころにはティヒエンは地の底だろう。どうしたものか、どうしたものか!
 少女は分かっていた。民を助けたいのならば、神も巫女もなく、街の慣習に逆らい民の安寧を壊しても、水龍と共に眠ることを望む者たちがいたとしても、それすら全て超えてただ生きていてほしいのならば。少女がすべて背負うしかないのだ。
 ウィリアムとマーヴィだけでは民の意思を動かす決定打に欠ける。少女が動かなければ、事態は動きさえしないのだ。それで、たとえ少女が悪者になったとしても。
 
 収穫祭から数日が経った。ウィリアムとマーヴィはまだ気まずいのか、食事の時間はいつも以上に沈黙が訪れていた。仕事は問題なくこなすもののどこかやつれた様子のマーヴィに、ウィリアムは心配そうな視線を注いでいる。そのウィリアムも、どこか疲弊しているように見えた。
 原因は数日前の言い争いだけではない。土砂崩れとして起こったその災害の兆候に不安を覚えた民たちが、我先にと少女の神殿に祈りに来ているために、常の日々よりも忙しさが増しているのだ。淡々と続く食事の中で、少女は軽く目を伏せてからひとつため息を吐いた。それから匙をゆっくりと置く。
 その様子に、ウィリアムの視線がふと少女に注がれる。数拍置いてから、少女は少し言い出しにくそうに、それでも確かに言葉を紡いだ。
「お告げが……あったわ」
「……お告げ?」
「そう、水龍様からの──いえ、そうね。とにかく、民に伝えたいの」
 怪訝そうに眉を潜めたふたりに、少女は今度こそ凛として続けた。ここで日和ってはならない。彼らの主として、ティヒエンの理想として、嘘だとしても真にしなければならないのだから。
「この町に終わりが迫ってきているわ。いずれ土地は二つに分かたれ、ティヒエンは地の底へ沈んでしまうでしょう……だから、民に早くそれを伝えなくては」
「……アルカディア?」
「そう聞こえたのよ。私はようやく巫女の器たるものに成ることができたみたいだわ。やはり外へ行く経験は重要だったのではないの?」
 誤魔化すようにそう笑って肩を竦めれば、この町で最も信仰心が薄いであろうウィリアムは小さく目を見開いてから、食事の手を止めた。小さくため息を吐いてから、銀色の髪をそっと耳にかける。マーヴィも彼に倣ってか、少女のほうへ向き直って話の続きを促した。
 神の声が聞こえたなんて当然、真っ赤な嘘だった。少女がこの土地に感じる神聖さなどほとんどなく、既に居ないと思っている水龍の声など聞こえてはいない。ただ淡々と、学びから得たこの土地の悲劇を退けようと思った少女のことばでしかない。
 宗教都市であるティヒエンならば、巫女のことばよりも、神龍のお告げとしたほうが民に声が届くだろうことを、少女は理解していた。この行為が、巫女の立場を乱用していると後ろ指をさされても仕方がないことも。
 ずっと信心の薄弱な少女を見てきたウィリアムは、突然神の声がなどと言い出した少女に確信的な疑いを持っているようだった。けれど、少女は知っている。町から人を逃し助けたいウィリアムにとって、少女のこの提案は悪くない相談であることを。
 ウィリアムが、眉を潜めてアルカディアをまっすぐに見つめていた。
「……民を集めて、神の啓示だとその言葉を伝えたい──ということでいいかな」
「ええ、そうね。この騒ぎの原因と対処を伝えれば、民も少しは落ち着くでしょう」
「分かった。元老院には話を通しておこう」
「…………本当にティエデール様のお声が聞こえたのですか、巫女様」
 何か言いたげにしながらも、少女の読み通りに業務的にことを済ませたウィリアムに、そこまでただ淡々と話を聞くだけだったマーヴィが口を開いた。
「──ええ、勿論」
「あれほど神は居ないだのと仰っていらしたのに?」
「いつの話をしているのかしら、マーヴィ。私も幼かったということね。この年の私には、外の刺激は毒ではなく薬になったのよ」
「……ティエデール様のお言葉ならば、私たちも民にお伝えすると同時に聞くべきではないですか」
「何を言っているの。私の唯一無二の側役がティエデール様のお言葉を知らないだなんて、それこそ私が怒られてしまうわ。けれど、民にも──元老院にもまだお言葉を伝えてはだめよ。私がきちんとお告げとして啓示するわ」
 次々と、難なく少女にあしらわれ、マーヴィは膝の上で拳を握りしめていた。最後の言葉はウィリアムに向けた。ウィリアムは分かっているよ、とだけ答えると、また食事を再開する。その様子に業を煮やしてか、常に理路整然とした言葉選びを心掛けているはずのマーヴィの口からぽろぽろと弱音が零れ始めた。
「…………ついこの前も訳の分からない話をふたりでしていらしたのに。またあなたたちはふたり手を取り合って一段上へと──私の手の届かない場所へと行ってしまわれるのですか」
「そんなつもりはないわ。白の子は碧眼の側役が居なければ生きてはいけないのよ」
「私は必要ですか? 育ての親と言うには関わりも薄く、授けることのできる知恵もない。おふたりの話ひとつついて行けはしない」
「必要よ」
 当然のことだわ、と少女は言い切った。
 マーヴィにも、きちんとことを伝えたほうが良いだろうか。嘘が苦手な彼女には黙っていたほうが良いだろうか。信心の薄い少女とウィリアムと共に暮らし、この町で一等信仰の篤い神殿に、巫女に仕えるという矛盾を抱えた彼女の心もまた、大きく揺れているようだった。少しだけ、それが少女には恐ろしかった。
 ただマーヴィにも、ウィリアムにも、民にも等しく命を救いたいだけだというのに、それだけのことがどうしてこれほどままならない。少女よりずっと年上のマーヴィでさえもが悩み苦しむことを、どうして少女が受け止めなければならない? 少女は、少女と巫女の精神性の乖離で揺れていた。それでも凛と、強く清く巫女であるために、迷いなど振り捨てなければならない日はすぐそこまで来ているのだ。
 嘘をついても、人を傷つけても、それでも少女は民を救いたい。救える可能性をもっているのならば、それをあきらめたくはなかった。
「……じゃあウィリアム、お願いね」
「お任せください、巫女どの」
 丁寧な口調で承諾を示したウィリアムと、黙り込んでしまったマーヴィを横目に、少女は静かに食事を再開した。
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