部屋に戻ってからは、着替えたのちに寝台に寝かされていた。寝台の横に置かれた椅子に座るマーヴィは、ずっと心配そうに少女を見つめている。食事の時刻になればウィリアムもこちらに顔を出すだろうから、と慰めのつもりか口を開けばそればかり繰り返している。
いつもと変わり映えのしない少女の部屋だった。一人で住むには広く、空ろに冷たい。寝台と反対側の壁沿いに置かれた本棚がずいぶん遠くに見えた。
「本当に大袈裟ね。少し眩暈を起こしただけじゃない」
「心配になるのは当たり前でしょう」
「寝ている必要もないと思うけれど……」
「お食事は摂れそうですか? 無理そうであればウィリアムにあらかじめ通達を……」
「……食欲はないわね。けれど食べれないほどではないわ」
マーヴィは随分と焦っているようだった。十四年間も生きているのだから、体調を崩すことは初めてではないけれど、思えば彼女の目の前であんな風に頽れたのは初めてだったかもしれない。少女の答えに眉を潜めたマーヴィは、がたりと音を立てて立ち上がる。
「では、食べやすいものに今日の食事を変更してもらうよう給仕に言いつけて参ります」
「あら、良いわよそんな──」
「今日は外出為されましたから……人々の集まる収穫祭で疲れてしまったのでしょう」
精神的なものから来ている食欲不振だ。きっとすでに用意されている食事をわざわざ変えてもらうほどのものでもない、と伝えようとした少女を置いて、マーヴィはさっさと立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
一人残された少女は、軽く肩を竦めてため息を吐く。よく考えれば、ウィリアムにも事情を説明しなければならないのだから、理由は外出の疲れにしておいたほうが余程都合がいいはずだ。嘘をついている感覚は好きになれなかった。けれどそれ以上に、彼らに悟られてはいけないというのに。
マーヴィの言う通り、疲れているのかもしれない。上手く回らない思考を落ち着かせるように呼吸を繰り返し、森のざわめきに耳を澄ます。例年の収穫祭よりも落ち着いた町の喧騒がうら寂しかった。
この町のために何ができるだろう。ただ、人々の象徴として心身の安寧を保つこと以外に、少女に何ができるだろう。できることならば、ウィリアムの研究を手伝い、人々を安全な地へと先導しうる巫女になりたかったけれど、たった十五年の命には難しいことだ。
だって、残された時間はあと一年しかないのだから。
目を細めた少女が何度目かしれないため息を吐くと同時に、神殿の入り口の大扉が開く音がした。少女がその場所を通ることは滅多にないけれど、側役のふたりや祈りに来た民が通る扉だ。マーヴィが宣言通り給仕へ言いつけるために出ていったのか、はたまたウィリアムが帰ってきたのか。どっちだろうか、と現実逃避のようにぼんやり考え始めた少女の耳に、なにやら喋り声が触れた。なにやら、マーヴィが出て行ったのではなくウィリアムが帰ってきたようだった。
見れば、マーヴィはどれだけ慌てていたのやら、いつもきちんと施錠されている少女の部屋の扉が少しばかり開いていた。彼女が普段の冷静な振る舞いに反し、存外直情的なことは少女も知っている。少女の体調に関して、随分心配をかけてしまったようだった。
せめて扉くらいは閉めておいてやらねば、ウィリアムに叱られるのは少女ではなく護衛をしていたマーヴィだ。少女の軽率な振る舞いの末に心配をかけてしまったのだから、彼女が叱られるのでは寝覚めが悪い。喋り声は少し遠く、大扉の近くなのだろうか内容までは少女に聞こえなかった。
まさか気が付かれることはないだろうけれど、と思いながら、少女は音を立てないように気を付けながら、静かに寝台から降りた。少女の部屋を出ても、神殿の出入り口である大扉は遠い。その間に、祈りの時間のために存在する民と少女を隔てる薄い布幕さえあるのだから、少女が叫び声でもあげぬ限りはふたりが少女に気が付くことはないだろう。そろりそろりと扉に近づいて、指一本が入るほどの些細な隙間の開いた扉に手をかける。両開きの白い扉には、花や龍などの緻密な意匠が施してあった。
扉を引けば、一瞬で遠くの喋り声が途絶えた。きちんと扉が閉まっていることを確認して、少女は寝台のほうへと踵を返す。大方、要件を話終えればどちらかが給仕に言いつけに行き、どちらかは少女の部屋へやってくるだろう。今日はきっちりと休んで、明日からはまた普段通りに過ごせばいい。そう思ったところで、本当に疲れが出たのか小さく欠伸をした。
薄らとした眠気を覚ますような大声が神殿に響いた。びくりと肩を揺らした少女の耳に、誰かを怒鳴るような声は断続的に響く。
ウィリアムの声だった。彼が怒鳴るところなど生まれてこのかた見たことはなく、常に穏やかに遠くを見据えているような人だった。それが、頑丈に作られ扉も閉めた、少女の部屋に響くほどの大声など──何事だろうか。
緊急事態ならば、自分はマーヴィや警護が到着するまで部屋から出ないほうが良い。もしかしたらその後外に避難するかもしれないと考えて暖かな羽織を手に取った少女の思考に反するように、次に耳に触れたのはマーヴィの声だった。
──言い争っているのはふたりなのか。会話の内容までは少女に届かない。しかし無価値な喧嘩をしないふたりのことだ、重大ななにかであることは間違いないだろう。そして今日に限っては──少女に思い当たる節がある。
一瞬竦んだ足を奮い立たせて、少女は閉めたばかりの扉を開いた。開けた神殿内ではふたりの声も明瞭になり、少女と民を隔てるように置かれた幕のほうへと駆け足になる。
側役二人の言い争いに、何事かと外にいた警護の兵士たちも内部へと集まってきてしまっているようだった。兵士たちの鎧が揺れて鳴る音に紛れ、幕をひらりとあげて、少女が階段を駆け下りてくる足音にもふたりは気が付いていないようだった。少女を見た兵士たちのざわめきは、そもそも側役二人が言い争っていることに対するざわめきに溶けていく。
「あの子に言ったら悟られてしまうことも分からないのか!」
「分からないわ、分からないわよ! ウィルは何の話をしているの!」
「分かっているくせに惚けるのはやめてくれ、僕がきみを警護に置いたのはなんのためだと──」
「ウィリアム!」
少女の咄嗟の叫び声に、言い争っていたふたりの声はぴたりと止んだ。
驚きと怯えを含んだ表情で首を振るマーヴィに、ウィリアムは肩を掴んで詰め寄っていた。それ以上は言ってはいけない。神殿内を走り息の荒れた少女が小さく首を振ったことで、ようやく彼も気が付いたようだった。
やはりその話だったか、と少女はうるさくなった心臓を片手で軽く抑えた。大方、給仕に言いつけに行ったマーヴィとウィリアムが此処で会い、状況の報告でもしあっていたところだろう。その際、マーヴィが湖での話の流れにひとたびでも触れてしまえば、彼なら少女が何の意図をもってそれを問うたのか、そして何に気が付いたのか知ってしまう。彼ならきっと気が付いてしまう。それを止められなかったのも少女の落ち度だ。疲れていた、というのは言い訳になるだろうか。
呆然としているマーヴィの肩から、ウィリアムはそっと手を退けた。小さく息を吐いて、未だ動揺を隠せないのか小さく首を振っている。マーヴィは怯えたように一歩下がり、そのあと自分を落ち着けるように深呼吸を繰り返していた。少女は軽く息を整えてから、兵士たちに小さく会釈した。
「私の側役がお騒がせしてごめんなさいね。私の頼みごとが不十分だったせいで、少しすれ違ってしまったようなの。……さあ、ちゃんとお部屋で話しましょう。声を荒げてはいけないわ、ウィリアム、マーヴィ?」
ただでさえ不安定な民に、これ以上不安の種を与えてはいけない。なにより、ウィリアムが触れようとしていたような、ティヒエンの巫女の真実についてなど、決して知られてはならないことだ。少女たちの役目はただひとつ、民のためになること。民のために生かされたこの身で、民たちに平穏を送り出すことこそが宿命なのだ。兵士たちは少女がにこりと笑いかけたことで少しは納得したようだった。
多少は冷静になったらしいウィリアムも、その場で兵士たちに驚かせてすまなかったと謝罪をしていた。少女がそれを見届けて部屋のほうへと踵を返せば、ふたりは沈黙を守りながら、ゆっくりと後をついて歩いてきている。
結局、給仕への言いつけは済んでいないようだった。部屋に戻ってすぐに予定通りに並べられた、収穫祭ならではの豪華な食事にも、少女たちは手を付けていない。暫くの間の沈黙を経て、少女の凛とした声が場を制した。
「……ウィリアム、あんな場所で怒鳴ってはいけないわ。民に不安を与えてしまうでしょう」
「……申し訳ありません、巫女殿。しかし」
「改まらなくていいわ。けれどまずはマーヴィに謝罪するべきではないの」
普段、常に平静を保ち続けている彼に説教をするなど、少女の人生でなかったことだった。彼もことの重大さを理解したのか、はたまたしばらくの時間の間に落ち着きを取り戻したのか、マーヴィに向き直って頭を下げる。
「……すまなかった。いきなり声を荒げて」
「それはもう良いわ、良いけれど……なんだったの。分からないのよ、なんであなたに怒鳴られたのか分からないの。それが恐ろしいのよ」
私は何をしたの、とマーヴィはか細い声で言った。彼女の顔色は悪い。ウィリアムは軽く唇を噛んでから、続ける。
「……きみは、まだ、分かってないのか」
「何のことだかわからないわ。だから恐ろしいと言ってるんじゃない……叱るなら、きちんと理由を言って頂戴、こんなの、反省ひとつもできないわ」
「…………僕らが本当にアルカディアを愛しているなら、絶対に気付かせてはならなかったんだよ」
「分からないわ! 本当になんのことなの、私はただ、巫女様の具合が優れないから、食事の変更を頼みに行きたかっただけなのよ。それの何がいけなかったの」
今にも泣きだしそうな声のマーヴィに、少女の胸がずきりと痛んだ。こんな思いをさせるくらいなら、少女がちゃんと真っ向からウィリアムに問うてればよかったのかもしれない。それとも、ウィリアムにもマーヴィにも気がつかれないように、もっと上手く出来たのかもしれない。しかしそれらは全て過ぎたことで、時間を巻き戻すことなどできやしないのだ。
少女は机の下で小さく拳を握りしめてから、少しだけ俯いた。目の前に並べられた食事からはまだ湯気が立っていて、机の上だけが日常に染まっている。
どうしたらいいだろうか。どれだけ気丈に振舞ったとしても、少女の身にのしかかる責は重く、枷となる。互いをどれだけ大切に思っているのか、少女にも推し量れないようなこのふたりの仲に亀裂を入れてしまったことを、どうすればいいだろうか。
ただ今の少女にできることは、真実を伝えることだけだった。彼女ばかりが責められないように、せめて彼の誤解は解かなければならない。
「ウィリアム」
「…………」
「いいのよ。言われるまでもなく気がついていたわ」
「……え、」
「あなたの愛を無碍にはしたくなかったの。だって、私が気が付かないように、ずっとずっとすべてを隠していたじゃない。だからむしろ分かっていたわ、でも、一年くらいは覚悟の時間が欲しかったから──儀式の内容をマーヴィに聞いただけだわ。それだけなのよ」
少女の言葉に、ウィリアムだけが情けない声を漏らした。話を始めたときの凛とした態度はどこへやら、少女はいつのまにか悪戯をした子供が言い訳をするような口調になっていた。
もっと気丈に常に聡明に、ふたりを明るいところへと引っ張るような──そんな主でいたかったものだ、と自嘲する。自分で思ったよりも、どうやら自分は弱かったらしい。そんなことを今日何度も思い知らされた。そんなことひとつにも、少女はずっと気が付いていなかったのだ。
愕然と目を見開いていたウィリアムが、ぽつり、とまるで独り言のように少女に問いかける。
「…………知っていたのか? いつから」
「もうずっと前のことだわ」
そう言えば、ウィリアムの顔がくしゃりと歪んだ。ティヒエンの儀式のこと、歴史のこと、なにもかもが隠されていることこそが、そこになにかがある証拠。俯いては少女のほうに視線をやり、また俯いてということを繰り返しているウィリアムは、少女が知っている中で一番に動揺をあらわにしていた。
再び、部屋の中を沈黙が満たしていった。これ以上どうしたらいいかなど少女にはわからず、ただ俯いて座っていた。
そんな中、がたり、と音を立てて立ち上がったのはマーヴィだった。いつもの何倍もがさつに椅子を戻すと、そのまま少女とウィリアムに背を向ける。
「……お二人が何の話をしているのか、私にはさっぱりわかりません」
マーヴィはか細く震えた声でそう言い置いてから、一歩ずつ踏みしめるようにしてゆっくりと部屋を出て行ってしまった。何も言えず、その背を見送るだけだった少女に、ウィリアムが小さく「どうして」と呟いた。
「…………本当に気が付かせてはならなかったのは、私ではなくマーヴィのほうだったのかもしれないわね」
「……気が付いていないわけなどないと──思っていた」
「……だって、残されるのはマーヴィだもの。彼女は聡明だわ。ただ、自分の心を守るために気が付いてないことにしてるだけなのよ、きっと。本当はそれで良かったんだわ」
少女の言葉を最後に、ウィリアムもとうとう黙り込んでしまった。もしかしたら、今すべてを洗いざらい説明してしまえばよかったのかもしれない。もう少女に正解など分からない。ただ目の前には、少し冷たくなった食事だけが鎮座していた。