昨日、彼らの家に迎え入れられた時と違う道を歩いていることには、少女も気が付いていた。別の道があるのだろうか、それとも何か考えがあってのことか。少女は無言で歩くトウトに合わせ特に問いかけることなくついていった。晴れが続いているのか地面はからりと乾いていて、植物たちは少し物足りなそうだ。
一時間ほど歩いた末、辿り着いたのは──
「……綺麗」
「こっからならよく見えるだろ。湖自体からも離れてるし」
「とっても。湖の全体が見えて……すごく、素敵です」
湖から離れた高台だった。
少し向こうは切り立った崖になっているようで、木々が途切れ、景色が開いている。はるか遠くまで森が続いているように見える景色の中で、一際目を引くのは昨日の湖だった。そこまで大きくもない湖だから近くで見ても全貌は視界に入るだろうが、こうして遠くから見るのも格別だ。周りにぽつぽつと咲いている橙色の花が、緑ばかりの景観を彩っていた。
近くの岩に座ったトウトが、岩をとんとんと叩いて少女を呼ぶ。誘われるがままに隣に腰を降ろせば、冷たさが体に沁みた。トウトが木の筒から水をぐびと飲んでいるのを見て、少女は自分の喉が渇いていることに気が付く。自分も筒を取り出して、見様見真似にゆっくりと蓋をひねった。木が擦れる音がして、たいした力もいらずに蓋が開く。
そうして喉を潤している少女を、自分の膝を立てて頬杖をついたトウトが眺めている。蓋を閉じてからそちらを見やれば、トウトはようやく口を開いた。
「そうだな、どこから話そうかな」
「……私の生い立ちや、性格を教えてくれると嬉しいです」
「いや、それはそうなんだけど、いろいろあってさ。うーん……」
目を伏せるトウトを黙って見つめていた。鳥の鳴き声が耳を刺す。
「とりあえず、言われた通りお前のことから話すよ。聞きたいことがあったり、逆にこの話聞きたくねえなって思ったら話遮ってもらって構わないから」
「はい」
「お前はコハク。俺たちの義兄妹だ。俺が兄で、シュヴァルツとお前は……どっちが上かはわかんねえ。ほぼ同時期に拾われてきたし年齢は差なさそうだしな。俺はもともと北の町出身で、お前らは不明。森の中で爺さんに保護されたらしい」
「北の町、とは」
「えっとなあ、こっからだと……北東だな。俺たちが今いるここはフマ大陸ってとこのロアスラン地方っていうんだ。西には海が広がってて、東には山脈がある。そんなかで北にあるから北の町。まったくもって安直だよなあ」
そういって、トウトは笑ってみせる。北にあるから北の町、確かに安直だけれどわかりやすい。凝った名前で覚えきれないよりかは大分ましではないだろうかと思いつつ、トウトにつられて少女も微笑んだ。
北の町出身のコハク。かれらの義兄妹。シュヴァルツとはどちらが上かわからないけれど、トウトは兄。ならば呼び方はどうだったのだろうか、と少女は思った。
そういえば、ふたりとも咎めないのをいいことにずっと敬語で話していたが、どちらがいいのだろうか。記憶を失った自分に馴れ馴れしくされるのは嫌だというのであれば敬語のままが良いのだろうが、少なくともトウトは友好的だ。暫く考えたのちに、少女は真剣な顔でぽつりと言った。
「……お兄さまとお呼びしたほうがいいでしょうか」
その言葉に、なにやら言おうとしていたらしいトウトがぴたりと止まった。数回瞬きをしたあとに、少女のほうをじっと見る。
この反応は、間違っていただろうか。メドゥーサに見つめられ石になったかのごとく微動だにしないトウトを動かすべく、少女は問いかけた。
「間違っていましたか?」
「あ、いや……俺たちはお互いに呼び捨てだったし、お前も好きに呼んでくれてかまわないんだけどさ。お兄ちゃんとか兄貴とかじゃなくてお兄さま、だったからびっくりしただけだ」
「目上の方には、さまをつけるべきかと」
「目上って……家族だぜ。気軽にトウトでいいよ、お兄さまだなんて小さなころのコハクにも言われたことねえぜ」
「分かりました、トウト」
「おう」
話の腰を折ってしまったな、と思い少女は黙り込んだ。敬語で話すかどうか問うタイミングでもあったな、というのは口を閉ざした数瞬後に思い至ったけれど、それはシュヴァルツにも問いたいから後回しでいいかと納得する。話を促すように視線を送れば、それを敏感に察知したらしいトウトは足をぶらつかせながら口を開いた。
「そうだな、お前は……優しいやつだったよ。森が好きで、外が好きで、草木に生き物が好きだった。街を出るまで、あんまり見せてやれなかったけど」
「街を出るというのは先ほど言っていた、引っ越しですか」
「……そう。そこが込み入ってるとこなんだよ。といってもお前の話をするとそこは避けて通れないから、まず説明しないといけねえな」
トウトはそう言ってから少し黙り込むと、視線だけはコハクの横をすり抜けて湖を見つめていた。渡り鳥が水浴びをしているらしく、波紋がひとつふたつと広がっていった。距離があるせいで水の音は聞こえないけれど、ただただ美しい景色だった。
トウトにつられて湖を見ていた少女の頬を、隣から伸びてきた手がゆっくりと撫でた。その感覚に、びくりと大袈裟に肩を揺らしてから振り返る。急に、なんだ。昨日のシュヴァルツからの抱擁以来、だれにも触れられたことはなかったから、突然のぬくもりに一瞬思考が停止する。
トウトの指はそのまま額のほうへと向かい、少女の髪を梳いた。
トウトの真意が分からず瞬きをするばかりの少女に、トウトがゆっくりと言う。彼の手に寄って、トウトにも、少女にも、白い髪が視界の中心に来るようになっている。肩甲骨のあたりまであるコハクの髪はトウトの手の中で、日に透けて輝いていた。そうしてみれば、白い髪にだけは見覚えがあるような気がした。
トウトが、自嘲気味の顔を見せる。眉尻を下げて、口角をわずかにあげながら問いかけた。
「白の呪いって覚えてるか、コハク」