深海に棲む鮫のような

タンポポよりもくすんでいる、けれどその目をカッと見開いて輝かせながらこちらを見てくるその人に、とてもやりづらさを感じている。落とし穴に二人仲良く落ちたことで仲良くなったとは思うし、なんとなく扱い方もわかってきたのかもしれないけれど、それでも二人きりの任務となるとまあ、困る。
 田噛さんなら上手くかわしたり流したりで切り抜けているし、佐疫さんも流石とは言ったもので、苦労しながらもなんとかやっている。他の人たちは、どうなんだろう。でもせめて他の誰かがいてくれたら良かったのに、なんて心のどこかでひそかに思っていたりもすのだ。

「なあ飢野! 飢野!!」

 良い言い方をすれば、無邪気。きっと平腹さんだって物事を深く考えていないから、実際無邪気なのだろう。思わず首の向きを変えて、その純粋で熱い視線から逃れようとする。まだ任務の真っ最中だというのにこうも詰め寄られているのは、つい数分前までに交わしていた雑談に原因があった。

 ☓☓☓

 少し曲がって歪な形をした、柄の部分がささくれているシャベルを構えた平腹さんの横に並ぶように、少し早足で歩く。こういうときに男女の差だか身長の差だかは生まれるものだな、と思いながら、着いていこうと緩やかに歩く平腹さんよりも狭い歩幅で、横に並ぶ。横と言うより、いつものようにやや後ろというのが正しいのだろう。

「なあ飢野ってさー」
「? はい」
「元は人間なんだよな?」

 私の方を見ることはなく、ただただ前進する。今日は亡者の捕捉ではなく脆くなった壁の近くで現世に邪魔をしようとしている怪異の退治という任務だから、そういう人間関連の質問が投げかけられると思わなくて、一瞬だけ口を開けて固まってしまった。でもまあ、平腹さんのことだし、思考が行ったり来たりしているのだろう。つい三十秒前まで今日のお昼ご飯の唐揚げの話をしていたとは到底思いにくいところだ。

「はい。人間、でした。死んでしまって、今はここに……」
「ふーん」

 私はどうやらイレギュラーらしい。それはここに入ってきたときにとうにわかっていることだった。そんな私の、平腹さんの確認ともとれる問いに対する解には、一気に飽きたように冷めたように、はたまた何も考えていないかのような相槌を打ったのだ。
 やっぱり気分屋さんだな、と思いながらもどうして下級の怪異を倒しただけでこんなに制服が泥だらけになるのかということも同時に頭によぎる。もうこの話題は良いだろう、と思いながら、けれど自分から話題作りをするのは苦手なので平腹さんから紡がれる言葉を待っていると、バッといきなりこちらを振り向いたかと思いきや、気味が悪いくらいに口角をぐっと上げた。

「えっ、な、なん――」
「ちょっと齧らせてくんね?」

 こうして、冒頭に戻るのだ。

 ☓☓☓

 じりじりというより、ぐいぐいと詰め寄ってくる平腹さんのおかげで、私はこの闇の領域の端にまで追いやられてしまった。まだ奥にまで追いやられそうであるが、この果てしなく見える闇の中にはどうやら壁があるらしい。とん、と背がついたのと同時に平腹さんの動きも止まったのだ。

「なあ、ちょっとでいいからさ!」
「いや、でも任務……あと、多分私美味しくないですし、」
「オレ人間の味って気になっててさー、でも危害加えたらダメだから食べたことねぇんだよな〜」

 話を聞く気はないらしい。ギザギザと尖った歯が顕になると、途端に足がすくんだ。私は人間だったからか、こんなとても人間とはいえない、鮫のような凶暴な歯は持ち合わせていない。不意に私と同じ鬼でも私とは違う者だ、ということを再確認するのだ。
 この平腹さんならではの距離感も、もし相手が人間の男の人だったものならたまったものではなかっただろう。けれど相手は、悪意がなく人間でもない、ましてや平腹さんだ。その点に関して怯える要素はないに等しい。

「いや、で、でも……あっ! 平腹さん! 怪異!」
「お? おお? ……ほんとだああ! とっととやっつけて帰ろうぜ!!」

 ふよふよとその場をさまよう、今回の本命の怪異だろう。目がなくて黒い塊、けれどその怪異もまた鋭い牙を持っており、それを剥き出しに、赤黒くどろっとした液体を口から滴らせていた。尻尾は、大体五メートルくらいだろう。下級怪異は退治するに越したことはないが、壁を破られる可能性はゼロに等しい。けれどこの怪異だと、そのうち現世に影響を及ぼすだろうから、今のうちだった。
 それに、感謝してはいけないが、怪異にこんなにも感謝したのは今日が初めてだ。こうして平腹さんの意識を逸らすことに成功してしまったのだから。平腹さんは経験上、一度離れた興味に戻ることはない。だから、私が齧られるリスクも格段に減ったのだ。

「なー! 早くやっちまおうぜ飢野!」
「はい!」

 平腹さんの目が、今さっき私を見ていたときのように光っていて、獲物を狩る獣の目に無邪気さやら純粋さをプラスしたような眸をしていた。平腹さんは田噛さんと違って、結構任務を楽しんでいるような気がする。この道は長いだろうに、未だにこうして少し変わった怪異なんかに遭遇したときは子供のようにきらきらと目を輝かせる。稀に目が死んでるときもあるけど、あれはまあまあ怖い。

 この無邪気ともとれる、ある種はサイコパスにも見える平腹さんに乗っかるように銃口を尾の方に向ける。一発、二発とサイレンサーによる音の控えめな弾丸を撃撃ち込んだところで、怪異のないはずの目がこちらに向く。どこが弱点かと目を凝らして探している間もなく、平腹さんが歪んだシャベルを思いきり投げつけた。右腕を振る速さと腕力に、思わず二度見する。
 それによって怪異はわずかばかり動きが鈍くなったように見えるが、それでも構わないとこちらに向かってきた。平腹さんは、良くも悪くも後先を考えない。あの刺さったままのシャベルをどうするというのだろう。今回の任務は少しばかり私たちには相性が悪かったかもしれない。ああいう大型怪異は、田噛さんの鎖があれば幾分か楽になるのだ。

「飢野!!」

 私を呼ぶ平腹さんの声に合わせて、破裂音に近い音を立てた。言うまでもなくその正体は、発砲音である。目がないように見えたそれには、どうやら目があったらしい。小さいけれど、確かに両サイドにぎょろぎょろ動く目があった。視野は広いようで、魚と同じだ。はっきり距離感を掴めるのは今真ん前にいる平腹さんだろう。私は武器のない平腹さんを襲う前に、その怪異の目に弾丸を撃ち込んだ。
 片目を潰したところで、怪異は音を発した。甲高い、猫と人の潰れた悲鳴の中間のような音。悲鳴に値するのだろうか。それを無慈悲にも、すかさず平腹さんはその場で飛び上がって現段階で刺さっているシャベルをぐっと足で押し込むと、血飛沫が舞って、また悲鳴のようなそれを上げるとその場から消滅した。返り血を浴びた平腹さんは、相変わらず無邪気な笑みを浮かべていて、不気味と言うに相応しかった。

 その場から完全に、破片一つ残らず消滅すると、ガシャンと音を鳴らしてシャベルがその場に落ちた。怪異の頭が強固だったのか、それに平腹さんの使い方も相まって、また歪みが増しているように見えた。

「お疲れ様です、平腹さん」
「おう! お前もな!!」

 お互いを労う言葉を軽くかけた後、早くも怪異が出現してくれたこともありいつもより早く任務が終わったことを確認すると、この次元の狭間から獄都へと帰るために、その場に穴を空けようと手を伸ばしたところだった。平腹さんの渇望するような目が、その行為を止めた。嫌な予感がする。

「なー飢野」
「は、はい……?」
「それでさ、ちょっと齧らせてくれよ」

 どうやら、忘れていなかったらしい。いつもの平腹さんなら少し別のことをすれば、それ以前にしていた行動や思考なんて忘れてしまっているのに、私は平腹さんを舐めすぎていたらしかった。大きな口からは、先程と変わり映えのない、猛獣のような歯が覗いていた。

「い、……痛いのは、嫌」
「えー。どうせ治るし、そんなに痛くしねぇって」
「それは……そうですけど」

 痛いのも嫌だし、なんか、多分齧られるって噛まれるってことなんだろうけれど、それもちょっと嫌だ。舐めるとかでは駄目なのだろうか。それも……嫌だけど。けれどこうなってしまった平腹さんの機嫌を損ねると、沈められかねない。そちらもどうせ意識は元に戻って傷もいずれ癒えるのだけれど、せっかく怪異による外傷がないので、館に戻るまでの怪我も最小限でありたかった。だから、

「ここ、なら……ちょっとなら。……多分、不味いですけど」
「お! さんきゅー飢野!!」

 丸く開いた黄色の眸の前に手を差し出す。フィクションで見るように、吸血鬼に首筋から血を吸わせるだとかじゃなくて、手の甲ならばまあ、と思ったのだ。それもなかなか頭がおかしくはあるけれど。深爪気味の指が私の右手を取ると、それを顔の前に近づけられ、これから起こることにドキドキする。期待とかによるドキドキなんかじゃなくて、単純に怖い。これから来る痛みに耐えるようにぎゅっと目を瞑ると、数秒後、身体を強ばらせたままの私の手の甲から肩にかけて、痛みが走った。

「っ、……た」

 やっぱり、舐めるとかちょっと噛むとかじゃなくて、齧るという平腹さんの表現が正しい。むしろ、“噛みちぎる”だろうか。痛くしないなんて嘘。確かに骨が砕けるほどに強く噛まれているわけではないのだけれど、薄目を開けると青白い肌に赤が滲んでいた。獄卒になってから、ある程度は痛覚なんかも鈍くなっていたのだけれど、それでも眉を顰めるくらいには、歯を食いしばるくらいには痛い。もし人間だったら、これ以上に痛くて、経験したことのない痛みが襲ってきていただろう。

 しばらくして懲りたのか味を堪能できたのか、平腹さんが私の手に立てた歯を離した。歯というより、やっぱり牙だ。私の手の甲には深く深く歯型がついており、見るからに痛々しいも、また新鮮だった。

「……味しねぇな!」
「そりゃ……今は鬼ですし」

 先程の怪異同様、牙から血を滴らせながら、さらに浴びた血飛沫で、赤い。けれど乾いたのか、私の血に塗れた口元が特段鮮やかな赤だった。それを袖で拭うと、私を齧る前と後で変わらない笑顔を浮かべていた。ああ、平腹さんの制服の汚れ方がまた、あやこさん泣かせだ。
 再生、回復すると言っても、そんなに早いわけではない。状況によっては早かったり、なときもあるのだけれど。ジンジン、ヒリヒリと痛むその患部を、ポケットに入れていた消毒液と絆創膏でひとまず手当をして、それでも絆創膏から歯型がはみ出ていた。

「……痛かったです」
「まじ? ごめんなー! でもお前あれだな、味はしねぇけどなんかいい匂いはすんな!」

 謝罪しながら私の右腕を上下に振る。いい匂い、は多分、他の獄卒たちに比べてということだろうか。匂いでいうと結構、災藤さんや佐疫さんはいい匂いなイメージがあったけれど。もうやらねぇから! と謝る平腹さんに、それでも痛かった、としつこいほどに痛いアピールをしてみるのだけれど、これもまあ、今後ないなら貴重な経験か、なんて前向きに捉えることにした。

「腹減ったー! 早く帰ろうぜ!」
「ふ、そうですね。私もお腹空きました」

 さっきまでのことなんて忘れたような平腹さんに、つい零れる笑いが抑えきれない。キリカさんの作るご飯が、早く食べたい。シャベルを両肩に乗せる平腹さんを先導するように、暗闇しか広がらない空間に穴を空けた。


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