暗がりのあけぼの

廃校での総出の任務以来、あの綺麗で宝石のような翠をした目を落としやすいのか、それとも怪異に狙われやすいのか、今日もそれがない状態で、おぼつかない足取りで私の近くを歩いていた。落としやすいというのも不思議な話である。獄卒は死ぬことなく、神経はもちろん、少しの切り傷やかすり傷でさえも完璧に治ってしまうのだから。
 ここに来てから長い年月を経たとは言え、私は元が人間だ。本来眼球が入っているはずのそこから血が溢れている様は、B級ホラーの広告で見たようなそれで、しかし人工的に作られていないという怖さがあった。

「木舌さ〜ん、そっちは危ないですよ……」
「おっと、こっちはあの地面が脆いところかな」

 どこかで目を落とす前の記憶による判断だろう。目さえ見つけられれば、あとは神経のみを再生するだけだから、木舌さんも自由に動くことができるのだが、重要なその眼球が見つからない。小さく唸りながら、目を皿のようにして、瓦礫だらけの、今まで歩いてきた地面を辿るものの、もしかすると潰れてしまっているのかもしれない。とても、見つからない。

「いいよ飢野、ありがとう」
「でも……」
「落としたのはおれだから、そんなに飢野が気にすることはないさ」

 それに今日の任務はもう達成したからね、と言うと、今にも崩れ落ちそうな地面から踵を返して、私の声を頼りにしたのであろう、こちら側に目のない大きな人が近寄ってきた。怖い。
 確かに任務は終わったので、回復を待てばいいのだが、同行しているのは私だし、なんなら私しかいないので、もちろん放っておくわけにもいかず、とりあえず目を探しているところである。

「見えないって、大変でしょう?」
「それはね。廃校のときは床を這っていたけど、最近ではすっかり慣れてしまったよ」
「慣れるのもどうなんですか……」

 時折今日のような木舌さんが任務から帰ってくるのは見ていたが、まさか慣れるほどだとは思わなかった。一度探すのをやめて、どうやって帰ろうかと考える。確か前見たときは、再生しかけの、目がないよりも気味が悪い状態で一人で帰ってきたことがある。推測するに、田噛さんなんかが同じ任務だったのだろうか。あとは斬島さんの日本刀に引かれているところだとか。しかしまあ、回復まで待つのが妥当だろうか。すると私の前にいた大きな気味の悪い外見をした人から、ぎゅる、と音が鳴った。

「もう夜明けかな? 腹が減ってしまってね」
「……早めに帰りましょうか」

 普段は持ち前の緑色をした眸で捉えているであろう、窓の外には朝焼けが広がっていた。お腹の具合で時間を判断しているだなんて、さらにその予測は的中しているところを見ると、どうやら腹時計は正確らしい。そう考えていると、私のお腹からも、小さく、相手に聞こえるかどうかの音が鳴ったので、思っているよりも私たち獄卒は規則正しい生活を送っているようだった。きっと、私が人間だった頃よりも。

 ☓☓☓

「目のない木舌さんって、どうやって扱うんだろう……」

 目の前に広がる夜明けの綺麗な色と、それを背景にした目のない木舌さんがアンバランスだ。しかし私自身も目を持たない木舌さんに慣れてしまって、先程よりは怖さもなかった。ここに来てから、未だに新たな発見だとか経験を得られるので、この慣れもその一つだと思うと、 変な感じもしなかった。
 木舌さんは、顎に指を添えて考え込む素振りを見せる。普段と何ら変わりない仕草だ。目がないことを除けば。

「飢野が手を引いて連れ帰ってくれるかい?」
「う、責任重大……」

 私がそう呟いた原因は、今日もまた、廃ビルでの任務だったからだ。いつか瓦礫の下敷きになりそうだったときは、もちろん目の見える田噛さんに助けてもらったのだが、今日はそれがないのだ。けれど、下敷きになったら下敷きになったでそのとき考えよう。
 それと同時にもう一つ、頭によぎったのは、ここは現世だ。目のない男を連れ回しているだなんて、現世の人間を怖がらせざるを得ない。ただでさえこの格好をしているのに。うーん、と悩んでいると、木舌さんが、今夜が明けたばかりだからきっと大丈夫、と言ったので、それを信じては了承した。

 私の前の差し出された、大きな手を取ると、着いてきてくださいね、と言ってはゆっくり歩き出した。慣れたとは言え、転んでしまっては大変だから、ゆっくり、ゆっくり。

「飢野の手は小さくて柔らかいね」
「し、仕方ないですよ。……これでも手のひらは硬くなったはず、なんですけど」

 木舌さんの心地よい低音と、男女を意識せざるを得ない言葉に少しだけ、少しだけ胸を高鳴らせて、首を横に振る。それに、ここに来る前よりは、手のひらの皮も厚くなったかと思ったが、日々の鍛錬の成果はあれど、私は刀だとか斧だとか、そういった武器ではないので、厚くなったというのは誤差であろう。もしかすると思い込みかもしれない。けれど多少は、硬くなっているはずだ。

「階段です。もう少し右に寄って……」
「ありがとう、飢野」

 一度手を離して、木舌さんの右手を壁に沿わせるようにしようかと思ったけれど、柔く握られていると思ったそれは、存外力が込められているようで、すぐに離れられるものではなかったため、繋がった木舌さんの左手と私の右手はそのままに、私だけ一段下りると、木舌さんの右手を壁につかせた。
 場所が悪いのもあって、ここまで来るのに一苦労だ。それから、一段ずつ、決して長くはないはずの階段を、通常の二倍、もしかすると三倍、ゆっくりと下りていく。木舌さんと、私が怪我をしないように慎重に。
 ふう、と息をついたのは、踊り場に二人とも無事に着地したときであった。双方とも強く握っている手から、そのまま視線を上に滑らせると、未だ回復していない目と、口元だけで微笑みを浮かべる木舌さんがいた。慣れてしまったとは言え、多少の覚悟を持って、頭の中で目のない木舌さんを思い浮かべてからでないと、この姿を受け入れるのにはまだ時間を要する。

「余裕そうですね……」
「頑張ってくれている飢野が可愛くてね」

 また、言葉に詰まって、これに対する言葉を選ぶ作業が頭の中でひとりでに始まる。きっと妹に向けるような感情だとか、ペットだとか、そういう意味での言葉にはもちろん変わりないのだが、木舌さんも何気なく私を翻弄するのが上手い。災藤さんと違って、確信犯なのかどうなのかわからないところはあるのだが。今、木舌さんに目がなくて良かった。もし見えていれば、私の間抜けで反応に困っている表情が見られてしまっただろうから。

「か、階段、あと半分ですから」
「うん。頼りにしてるよ」

 ぎゅ、と手に力を込めると、木舌さんは少し驚いたように口を開いてから、私に倣って手を握った。

 ☓☓☓

 無事に階段を下りて、そのまま、特に何事もなく廃ビルを出ると、重苦しい空気が一気に澄んだ空気へと変わった。天気が良いのと、時間帯も相まった空気感。小学生のときに朝早く起きて、ラジオ体操に向かったあの空気に少し近い。それよりはもう少しだけ、冷たさを含んでいた。

「外だね、ありがとう飢野」
「いえ、……少しだけ回復してそうですね」
「おかげさまで。まだ全然見えないけどね」

 出血はとうに止まり、白目の部分が少しだけ再生してきたのを見て安堵する。所謂中途半端でグロテスクな状態なのだが。私が人間だったら、年齢制限が入りそうなこの姿には気絶していたかもしれない。と言うものの、何故だかいつもより回復が早いようにも見受けられた。
 辺りを見渡すと、どうやら廃ビルだけあって元々人通りが少なそうな場所だったため、安心して獄都へと繋がる壁へと向かう。ここに来たときはビルの隣にあった壁だが、怪異があまりにも多いためにその壁が制限されてしまったようだ。その方が人間としては助かるが、今の私たちにとっては不便極まりない。壁へと向かう間も、もちろん、木舌さんの手は握ったままだ。

「こんなに良くしてくれたの飢野が初めてだなあ。田噛なんて放置だし、平腹もおれの目で遊ぶ始末さ」
「ふ、ふふ、想像つきます」
「お礼に帰ったら酒でも飲もうか」
「それは……いつものことですよね」

 というか、木舌さんはここのところお酒を飲みすぎて佐疫さんに禁酒を命じられていた気がするけれど、まあ、隠れて飲んでいるのだろう。私も念を押すように、禁酒ですよ、と言うけれど、ものともせずに言葉を続ける。こうやって丸め込まれてしまうから、佐疫さんには、木舌の飲みすぎの原因は飢野にもある、なんて言われてしまうのだ。

「飢野は現世こっちのバーで酒を飲んだことがあるかい?」
「な、ないです」

 そもそも現世にいるときにお酒を飲みたくなったことはないし、獄都に戻ればいつでも飲むことだってできる。買うまでもなく、館の地下に置かれていたり、木舌さんを誘ったりで、わざわざ現世で飲む必要性だって感じないのだ。木舌さんは繋いだままの私の手の甲を指先で小さくなぞる。

「人間に入れてもらうのも悪くないんだ。獄都にはない酒も多いからね。カクテルなんかは特に良くてね。あとは、人間より悪い顔色も酔ってしまえば気にならない」
「へえ、また行ってみよ……ああ、でも私、見た目は高校生のままですし……」

 外見が変わることなく獄卒になってしまった私は、夜中こうやって現世に来るのも一人ならば補導対象だろうに、バーともなると年齢確認が必須になってしまうだろう。夜に現世に来ること自体は、他の獄卒たちと来れば何ら問題はないのだが。抹本さんは……少し幼いような気もするけれど。

「大丈夫だよ。飢野は遊びに出かけるときおめかしして出かけるじゃないか。それに今だって、立派な女性だよ」
「う……また機会があれば、お願いします……」

 人間のときも、学校に行くときは薄く、休日はしっかりめにメイクをして、髪もたまに巻いていたから、そのときの名残だか癖だかで、死んで鬼になってしまった今もその習慣が根付いていた。今だって、なんて、任務でも崩れることを前提に、軽く整えて来ているのだが、どうやらそれは木舌さんにはお見通しらしかった。
 途端に何だか恥ずかしくなって、木舌さんに強く握られて離せない手をそのままに早足になると、何もない空間だというのに、躓いてしまったのだ。

「きゃ、」
「おっと」

 靴紐が解けていたわけでも、石があったわけでも地面が隆起していたわけでもなく、ただただ躓いて、前に倒れていく。廃ビルを出てから余裕を持ってしまったのと、木舌さんの発言云々により、目のない木舌さんを無事に連れて帰るというプレッシャーがなくなってしまっていたのだ。かなり油断していた。木舌さんを少し怪我させてしまうかもしれない。
 しかし、私は倒れることなく、絡んでいた手を引き寄せられ、空いていた方の手が腰に回されると、そのまま木舌さんの胸に飛び込む形となった。

「大丈夫かい?」
「あ、ありがとうござ……あれ?」

 肋角さんのような煙の匂いでも、災藤さんのような香水の匂いでもなくて、布に染み込んでいたのはもちろんアルコールの甘ったるい匂いだったのであるが、私を支えてくれたことに疑問を思って顔を上げると、翠色の双眸と視線が絡み合った。思わず、自身の目をぱちぱちとさせてしまう。

「も、もう再生してるじゃないですか!」
「はは、ごめんよ。飢野が気がつくまで、なんて思ってたけど、飢野ったら全然おれの顔を見ないもんだから」

 それに気がついてから勢いよく縮まった距離を遠ざけてしまう。どうしてだか、手は握られたままだ。
 一体いつから。ビルを出たときはまだ再生途中だったから、その後爆速で回復したに違いない。たった今回復したのかと言えば、その言葉を聞くにもう少し前から目としての機能を取り戻していたようだった。意地悪だ。なかなかの意地悪だ! 確信犯だ!

「早く言ってくださいよ……」
「もう見えてるのにそれに気づかずおれを引っ張ってくれる飢野が可愛くてね」
「や、やめてください」

 木舌さんに翻弄されて動揺していたのも見られていたのかと思うと、やっぱり恥ずかしくなって、今すぐ木舌さんを放って館へと帰りたくなってしまったので、手を離そうとするが、これがまあ、なかなか離れない。むしろ絶対に離さない、のような意思すら感じる。恥ずかしさやらなんやらで、私の手だけが一方的に熱を持っていくのを感じて、それがまた羞恥への材料となっていった。

「も、もういいですよね?」
「ん?」
「ん? じゃなくて、見えてますよね!」
「さあ、何のことかな」

 私のことをその綺麗な翡翠のような眸でばっちり見てくるのに、当の本人は知らないふりだ。このまま思いきり嫌悪を示すか、無理やり引き剥がすかでこの手は離れるだろうが、そんなことをする気力すらも削がれてしまい、諦めて繋がれたままの手を引いた。木舌さんの表情なんて、見ている余裕もない。

 朝の冷たい空気と、暁の空の色に包まれながら、私と木舌さんの薄い影は繋がったまま、また、ゆっくりと歩き始めた。


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