銀海に零れる
「――さて。あとはナマエ、ジナ、夕里子、ククルシカの中に一体グノーシアが残っていることになる」
ラキオはベッドへ背中を預けたまま、淡々とそう言った。薄暗い室内にはホログラムの淡い青白い光だけが漂っていて、その光が白い横顔を静かに照らしていた。
今日は昨日と違い、向かい合って話しているわけではない。私たちは同じベッドへ腰掛けたまま、並ぶような距離で情報を整理していた。
肩が触れるほど近いわけではない。それでも、隣から微かに漂う香りや、光に透けるような細い髪が妙に意識へ引っかかる。
「でも私の報告が嘘の場合、その中にグノーシアは二体いるかもしれない」
わざと軽い調子でそう返すと、ラキオはただ鼻で笑った。それから長い脚を組み替えると、こちらを横目で見やる。
「その通り。しかし二体しかいないグノーシアがどちらも役職を騙るのはリスクが高い。うち一人がグノーシア、一人がAC主義者でほぼ間違いないだろう」
その口調には一切の迷いがない。まるで盤面の答えが既に見えているみたいだった。私は小さく息を吐きながら、膝の上へ視線を落とす。
彼の言う通り、その中には一体グノーシアがいる。そして、それは私だ。この事実を知っているのは、この船の中で私だけだ。
しかし隣にいるラキオは、そんなこと微塵も疑っていないのだろう。昨日よりずっと自然に距離を詰めてくる態度が、それを物語っていた。信頼されている。そう実感するたび、胸の奥が鈍く重たくなる。
「君は三人のうちの誰かを調べればいいンじゃない? 君と対抗しているジナはグノーシアかもしれないし、人間かもしれない」
「……うん、そうだね。そうする」
「君は僕の言う通りにすればいいよ。そうすれば人間側の勝利は確実だからね」
その言葉に、胸の奥が小さく軋んだ。ラキオと初めてグノーシアになったループで、彼は確かに言っていた。人間だろうがグノーシアだろうが、誰も信用しない、と。
そんな彼が今、疑うことなく私へ勝利を託している。隣から漂うかすかな香りが、やけに苦しい。
⊕⊕⊕
ラキオはベッドへ浅く腰掛けたまま、淡々と盤面を整理していく。宝石の瞳には既に確信が宿っていた。
「ジナがコールドスリープしても終わらなかった――つまり、残りのグノーシアはククルシカで間違いないだろうね」
今日――四日目の会議で、ジナはコールドスリープされた。それでも騒動は終わらなかった。それも当然だ。まだ私が残っているのだから。
しかし、ラキオの視点ではきっとこう見えているのだろう。ジナがAC主義者。昨晩消滅した夕里子が真ドクター。そして、残ったククルシカがグノーシア。私はククルシカがAC主義者だと信じて、昨晩、夕里子を消した。
けれど、それは誤りだった。本来なら終わっていたはずの会議が、まだ続いている。その時点で、自分が選択を間違えたことには気づいていた。
「今夜沙明が消えるか、僕が消えるか、君が消えるか……まあ、どれにせよ人間側の勝利は確実だ」
その言葉に、胸の奥が鈍く軋む。彼は、完全に私を信じ切っていた。
セツに「今のナマエは演技力が高い」とは言われたものの、まさかここまでラキオを欺けるとは思わなかった。それとも――この宇宙のラキオが、今までと少し違っているのだろうか。
私は隣へ寄りかかるみたいに肩を預けながら、ぼんやりと彼の横顔を見つめる。照明に照らされた白い肌。伏せられた長い睫毛。気怠げに組まれた脚。そのどれもが、妙に静かだった。私は彼を騙しているのに。こうして隣にいる時間だけは、不思議なくらい心が静かだった。
「離れてくれない? 動きづらいンだけど」
ただ、呆れたみたいな声が落ちてきた。しかし本気で嫌がっているわけではないのだろう。ラキオは肩を軽くすくめただけで、私を押し退けたりはしなかった。
「……ラキオは、このグノーシア騒動が終わったらどうするの?」
なんとなく零れた問いだった。深い意味なんてないふりをして、私は彼の肩へ額を預けたまま視線を揺らす。
「僕の今後の動向が気になるのかい? 君にしては殊勝じゃないか。まあ、特に決めてないよ。ああ、そうだ。せっかくならグリーゼに戻らずこの宇宙を謳歌してもいいね。旅に出たっていい」
ラキオは深く考える様子もなく、さらりとそう答えた。彼の未来は、この先も続いていくのだ。グリーゼへ帰るのかもしれない。あるいは本当に、気まぐれに宇宙を旅するのかもしれない。
この騒動が終わっても、ラキオという存在は、この宇宙で生き続けていく。けれど、私にはその先がない。たとえ今夜を生き延びても、ループが始まれば、私はまた別の宇宙へ移動する。この宇宙から、ナマエという存在だけが静かに零れ落ちていく。置き去りにされることもなく、忘れられることさえなく。――ラキオが、羨ましかった。
「君はどうするンだい? 記憶喪失で故郷すらわからない――行く宛てなどないだろう。あははっ。まったく、哀れだね」
いつものような皮肉めいた声音だった。なのに、その何気ない問いが胸へ静かに刺さる。もし、このままラキオと生き残ったとしても、私は結局、この宇宙から消える。
それに――私はグノーシアだ。もし最後にラキオと二人きりになれば、私は彼を消さなければならない。どちらにせよ、彼の未来へ、私は存在できない。
なのに今、隣にいるこの時間が終わってほしくないと思ってしまう自分がいた。
「私は……そうだね、私も旅をするよ」
口にした瞬間、それが叶わない願いなのだと、自分が一番よくわかっていた。
「ははっ、いかにも凡愚らしい考えじゃないか」
ラキオは喉の奥で楽しそうに笑う。その声が、妙に心地良い。ついこの間まで、彼の皮肉も高慢な態度も腹立たしくて仕方なかったはずなのに。いつから私は、こんな風に彼の隣を安心できる場所みたいに感じるようになってしまったのだろう。
やがて彼は何か思いついたように肩を揺らすと、気まぐれみたいな口調で続けた。
「あるいは――そうだ。身寄りがないなら僕の旅に連れて行ってあげてもいいけど?」
一瞬だけ、呼吸が止まりそうになった。もしかすると、冗談半分の軽口なのかもしれない。それでもその言葉は、今の私にはあまりにも甘かった。
もし本当にそんな未来があったなら。知らない星を巡って、隣でラキオがいつものように皮肉を言って。私は適当に笑い返して、時折こうして寄りかかって。そんな穏やかな時間が続くのなら。
――けれど、そんな未来へ私は辿り着けない。
「ふふ、ありがとう。考えとく」
「言っておくけど、君を雑用以外に使うつもりはないよ」
相変わらずの言い草に、小さく笑みが零れる。しかし胸の奥だけは、静かに痛み続けていた。
私はもう一度、彼の肩口に頭を預けた。せめて今だけは、この温度を忘れたくなかった。
⊕⊕⊕
私は今夜、選ばなければならない。
ククルシカを消してしまえば、私は間違いなくグノーシアであることが確定する。例えラキオに肩入れしていたとしても、自ら勝利を逃すような真似はしたくなかった。
ならば、消すべきなのは沙明だ。そうして沙明の部屋へ向かおうとした瞬間、不意に、いつかのループでの彼の言葉が脳裏を掠めた。
『――どっちが残酷なんだろうな。こうやって、何も知らずヤられんのと。自分がヤられることわかってんのと、さ』
普段の沙明からは想像もつかないほど、静かな声だった。けれど、その言葉だけは妙に耳へ残っている。
何も知らないまま消えるのか、自分が消されると理解したまま、最期を待つのか。
どちらが残酷なのかなんて、私にはわからなかった。ただ、今のラキオは私を信じ切っている。――だからこそ、私は、ラキオが私に裏切られたことを知る瞬間を、見たくなかった。
気づけば私は、沙明の部屋ではなく、ラキオの自室へ足を向けていた。時間が止まり、静まり返った廊下を歩きながら、胸の奥が嫌にざわつく。
この宇宙のラキオと過ごす時間は、どうしようもなく心地良かった。彼はいつだって、皮肉ばかりで、高慢で、人を小馬鹿にしたような態度ばかり取る。なのに、いつの間にか、彼の隣は私にとって安心できる場所になっていた。
この宇宙のラキオと、別れたくない。そんなことを思ってしまった時点で、もう駄目だったのかもしれない。
「……ラキオ」
ラキオは、息もなくベッドの上に横たわっていた。この手でラキオを消すのは、初めてかもしれない。伸ばしかけた指先が、小さく震える。消さなければならない。そうしなければ、私は勝てない。ラキオだって、何も知らずに消される方が幸せのはずだ。
頭ではちゃんと理解しているのに、どうしても指が動かなかった。この指が彼の境界に触れてしまえば、私はもう二度とこの宇宙の彼と会うことができない。あの皮肉混じりの声も、気怠げに向けられる薄藍色の瞳も、隣へ寄りかかったときの、不思議なくらい心地良い静けさも。
この宇宙のラキオと過ごす時間は、もう終わる。その事実を、どうしても受け入れられなかった。
――私はきっと、この宇宙のラキオが好きだった。
「――『お願いだから……』」
彼の境界へ指先が触れる寸前、不意に、あの日の展望ラウンジの光景が胸の奥で揺れた。
塩気の強いポップコーンの匂い。薄暗いスクリーン。黒く沈んだ室内に滲む映像の光。
隣で映画を見つめていたステラの横顔まで、ひどく鮮明に蘇る。
「……『私のこと、好きになって』」
縋るみたいに零れたその言葉を、彼が聞くことはない。私がそう口にしたときには、もう、彼の姿はどこにもなかった。ベッドの上には、もう何も残っていない。彼の声も、造り物のような顔も。何一つ残さず、この宇宙から消えてしまった。泡のように、弾けてしまった。
ただ私の指先だけが、行き場を失ったみたいに宙へ取り残された。