甘露の揺籃
目が覚めた瞬間に理解した。身体が妙に軽い。頭の中もやけに冴えていて、普段なら気になるはずの不安や緊張が、綺麗に削ぎ落とされている。代わりに胸の奥には、理由のわからない高揚感だけが静かに満ちていた。
今回のループでの役割を理解するには、それだけで十分だった。
「今回はナマエとグノーシアか……。うん、心強いよ」
ループの始点でセツと会えたのは、きっと運命だ。光を孕んだ金色の髪、その隙間から覗く赤い瞳は、普段と同じ色をしているはずなのに、どこか熱を帯びて見えた。
しかし、胸の奥に微かな高揚を抱えている以外、思考は普段と何も変わらなかった。既にこのループの私は人間ではないはずなのに、今まで通り「人間」のように振る舞うことは、驚くほど容易かった。やはりループの記憶を保持していることが大きいのだろうか。
この段階で彼女と会えたということは、情報共有をするにはうってつけだ。暗黙の了解みたいに、私たちは言葉を交わすことなく、お互いの『鍵』をかざした。
「随分ループを経験してきたみたいだね」
「本当だ。セツと回数が近い」
「ふふっ。私が前のループで会ったナマエは、まだ二十回目だったんだよ」
セツは喉の奥で小さく笑った。金色の髪がさらりと揺れ、その奥の真朱の瞳が面白がるみたいに細められる。
それはグノーシアとしての笑みではなく、いつものセツの表情だった。
もし私一人だけがループしていたなら、その理由に辿り着くこともないまま、果てのない宇宙を孤独に彷徨い、いつか心が折れていたのかもしれない。本当に、セツがいてくれて良かった。
そう思って微笑み返すと、彼女は『鍵』を静かに仕舞った。
「情報を得るためにもできる限り勝利は目指そう。……誰も消えないのが一番だけどね」
セツの『銀の鍵』に記録された情報を見る限り、このループの彼女は、私たちが同じ時間を繰り返しているのではなく、別の平行宇宙へ移動していることまで把握しているらしい。つまり、一度消えてしまった存在は二度と戻らない。だからこそ、誰一人消えないことが理想だった。たとえ私たちが、グノーシアであったとしても。
けれど、これまでグノーシアとして生き残ったからこそ得られた情報も確かに存在した。既に見知った乗員たちを、この手で消すのは気が進まない。それでも、今は割り切るしかなかった。
「ナマエの今までの記録を見たところ、エンジニアを騙ったことはないだろう? 経験のためにも今回はエンジニアとして名乗り出るといいよ」
セツもまた、私の『鍵』に記された記録を見たのだろう。彼女の言う通り、今までグノーシアになった際、エンジニアやドクターを騙る役目は他の仲間に任せきりだった。
「上手くできるかな……」
経験した方がいい――その言葉はもっともだ。しかし、もし途中で綻びが出たら。嘘を見抜かれたら。真っ先にコールドスリープへ送られてしまったら。せっかくセツと同じ陣営になれたのに、私が足を引っ張ることになるかもしれない。
胸の内に滲んだ不安をそのまま零すと、セツはふっと目を細めた。
「大丈夫。今のナマエは演技力もかなり高いみたいだからね。それに今までのループの経験だってあるだろう?」
セツはまるで言い聞かせるみたいに穏やかな声でそう言って、私の『鍵』へ軽く視線を落とした。そこには、今まで繰り返してきた無数のループの記録が刻まれている。乗員たちの癖、今までの失敗――積み重ねてきた経験も全部だ。
ただの慰めではないのだと、その眼差しだけでわかった。私も、セツの役に立ちたい。真朱の瞳を見つめ返しながら小さく頷くと、彼女も満足そうに目を細める。
「私もできる限りフォローはするつもりだよ」
「……ありがとう、頼りになるよ。頑張ろうね」
そうして私たちは連れ立って部屋を後にした。
静かな通路を並んで歩きながら、私は無意識に小さく息を吐く。まだ不安は消えない。それでも、隣にセツがいるだけで、ほんの少しだけ心強かった。
⊕⊕⊕
一日目を当然のように生き残ることができたのは、恐らくこれまでのループで身につけた演技力のおかげだろう。しかし、真のエンジニアとして名乗り出たのがジナだったのは幸運だった。彼女は嘘をつくのが致命的に下手だ。だからこそ、ボロが出ない限り「本物」であると判断されやすい。――もっとも、その性質を知っているのは、現時点ではループを繰り返している私とセツだけだ。この騒動でほとんど初めて関わる他の乗員たちからすれば、どちらが本当のエンジニアなのかなど判別できるはずもなかった。
さて、空間転移までの時間で、どうにか味方を増やしておきたい。夕里子あたりがこちらについてくれれば心強いが、彼女の性格を考えると、誰かへ露骨に肩入れすることはないだろう。
せめてステラと会えれば――そう思いながら、彼女が育てているらしいジャスミンの蕾が壁一面に連なる部屋、LABの扉を開けた。すると、そこにいたのはステラではなく、よく見慣れた彼だった。
「ああ、ナマエか」
どこか安心感を覚える声が、部屋へ入ってすぐ、壁際から聞こえてくる。いつかのループでステラと紅茶を飲んだ、簡素な丸いサイドテーブル。その向こうで、ラキオはいくつもの情報パネルを展開していた。ティーカップの代わりに青白いホログラムが並ぶ光景は、いかにも彼らしい。
どうやら、このループでも相変わらず研究に没頭しているらしい。変わらないその姿に、思わず笑みが零れた。そんな私を見て、ラキオは片手でパネルを操作したまま、気怠げに頬杖をつく。
「暇そうだね。――そうだな、僕の研究の手伝いでもしてもらおうか」
「こんな状況でも研究してるんだ」
「このグノーシア騒動でLeViの機能が制限されているから、できることは限られているけどね」
彼の研究の手伝い――今までのループの経験からして、ほぼ間違いなく例の「雑用」だろう。躊躇うことなく彼の向かいへ腰を下ろすと、案の定、彼の指示は以前受けたものとまったく同じだった。
視界の端でふわふわ揺れる色鮮やかな羽根を眺めながら、以前と同じように不必要なデータを選んでは消去していく。するとラキオは、そんな私の手元を眺めるように薄天色の瞳を細めた。
「随分手馴れているね?」
「そうかな。ふふ」
「君のような凡愚にしては、という意味さ。勘違いしないでもらえるかな」
相変わらず人を馬鹿にしたような態度だ、と小さく息をついた。
しかし今の状況は、ラキオからの好感度が低いループではまずありえないことだった。彼は私を嫌っていると、自分の研究を手伝わせるどころか、即座に部屋から追い出す。つまり、このループの彼なら、こちら側へ引き込める可能性も十分あるということだ。そんなことをぼんやり考えながらも、手元の作業を止めることはない。
ラキオは伏せていた睫毛をゆるく持ち上げると、観察するみたいにこちらへ目を向けた。
「ところで今夜、誰を調べるつもりなンだい?」
このループで、私はエンジニアを騙っている。今晩、乗員のうち誰かを調べたふりをして、明日の会議で結果を報告しなければならない。グノーシアとして誰を消すかすらまだ決めかねているのに、誰を調べるかまで考える余裕はなかった。
もちろん、それを表情に出すつもりはない。私はわざと考え込むように視線を上へ向け、数秒だけ間を置いた。
「迷ってるよ。今のところ、誰が怪しいのかわからないから」
そう答えると、ラキオは興味を失ったように視線をパネルへ戻した。
「ラキオを調べようか?」
「僕を? 別に調べたって構わないよ。僕は人間で間違いないからね。ただ貴重な一晩を人間である僕に使うのは良い選択とは言えないね」
私なりの探りだった。もし私が本当に人間なら、この返答だけではラキオが人間なのか、あるいはグノーシアなのか判断はつかないだろう。大抵のグノーシアは堂々と「自分は人間だ」と口にするものだから。
けれど、今の私はグノーシアだ。だからこそわかる。ラキオは、本当に自分が人間であることを隠していない。つまりそれは、このループの彼が、少なくとも現時点では私を強く警戒していないということだった。
ラキオが会議の後半まで生き残ると厄介なのは知っている。しかし、味方につけてしまえばこれほど心強い存在もない。余計な矛盾さえ生まなければ、疑われる可能性もかなり減るはずだ。ならば、明日からはラキオを擁護する方向で動くべきだろう。
そんなことを考えながらも、私はラキオに指示されたデータの整理を続けていた。
「まあ、明日の報告を楽しみにしているよ――って」
不意に言葉を切ったラキオが、すっとこちらを見る。――と、次の瞬間、彼は勢いよく私の腕を掴んだ。突然のことで心臓が激しく音を立てる。一体何事かと宝石みたいな海色の瞳を見返せば、ラキオは露骨に嫌そうに眉をひそめていた
「余計なことをしないでくれないか。僕はそのデータは消していいなんて一言も言ってないンだけど?」
「あ、ごめ――」
謝るより先に、彼は盛大な溜息をついた。それから呆れたみたいに頬杖をついたまま、ただLABの扉を指さした。
⊕⊕⊕
二日目の会議も無事に終わり、私とセツは大きく目立つことなく三日目を迎えられそうだった。
そして今日、新たに二人のドクター候補が名乗り出る。ククルシカと夕里子。恐らく、どちらかはAC主義者だろう。
今夜は無難に沙明やオトメを消してしまってもいい。けれど、できることなら本物のドクターを早いうちに処理しておきたかった。
しかし、二人ともまだ綻びを見せていない。AC主義者を生かすためにも、現時点では判断材料が足りなかった。
今日は誰と親交を深めようかと、メインコンソール室へ残る乗員たちを見回していると、不意に青い瞳と視線がぶつかった。――それから数秒、無言のまま視線が交わされる。
やがて彼は気怠げに立ち上がると、私、それから出入口へと順番に目を向けた。来い、ということだろう。私は小さく瞬きをしてから、その背中を追って廊下へ出た。
ラキオはいつも通り早足で、置いていかれないよう自然とこちらも歩幅が速くなる。すれ違いざまにふわりと漂った、どこか煌びやかな香りが廊下に尾を引いた。
そのまま辿り着いた先は、見慣れつつある彼の自室だった。扉はすぐには閉まられない。入れ、ということらしい。
遠慮なく室内へ踏み込むと、ラキオは以前と同じようにベッドへ腰掛け、長い脚を組んでいた。ただ、こちらを一瞥したあと、その視線が椅子へ落ちる。指示に従って向かいへ腰を下ろせば、彼は後ろへ手をつき、くつろぐみたいに体勢を崩した。
今までのループでは、ラキオの方から私を呼び出すことなどなかった。だからこそ、胸の奥に小さな警戒が走る。もしかすると、疑われているのかもしれない。
しかし、ラキオはそんなこちらの緊張など気づいていないみたいに、気怠げに脚を組み替えただけだった。追及するような鋭さも、探るような圧もない。ただ退屈しのぎに会話でも始めるみたいな顔で、ターコイズブルーの瞳をこちらへ向ける。
「ナマエは誰がグノーシアだと思う? せっかくの機会だから君の考えを聞いてあげるよ」
ラキオは頬杖をついたまま、静かに視線だけをこちらへ向ける。淡い照明を受けた長い睫毛がゆるく影を落とし、その視線だけが静かに私を射抜いていた。探るような鋭さはない。ただ純粋に、私の返答を観察して楽しもうとしているような目だった。
私は一度だけ視線を伏せ、考えるふりをしながら小さく息をつく。
「うーん……ジナ、かな。やっぱり私の立場だと疑わざるを得ないし」
これ以上ない、無難な答えだった。もし私が真エンジニアだと仮定すれば、ジナは偽エンジニアで確定するのだから。私の返答を聞いたラキオは、つまらなさそうに後ろ手へ体重を預けた。
「ふぅん。なんの面白みもない答えだね」
やはりその程度の答えは予想済みだったのだろう。小さく息を吐くと、つまらなそうに長い睫毛を伏せた。けれど次の瞬間、彼はふっと口角を吊り上げると、こちらを見据えたまま静かに脚を組み替えた。
「僕はセツが怪しいと睨んでいるンだ。ナマエ、今晩はセツを調べるといいよ。ほぼ間違いなく――セツはグノーシアさ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
セツは今日、何か綻びを見せていただろうか。ラキオの直感は、乗員の中でも特別鋭いわけではない。けれど、根拠もなく適当を口にする性格でもなかった。だからこそ厄介だ。彼は何かしらの違和感を拾い上げて、セツへ疑いの目を向けている。
胸の奥を冷たいものがじわりと這う。しかし、それを悟られるわけにはいかなかった。
私はわざと驚いたみたいに目を瞬かせると、小さく首を傾げる。すると、揺れた髪をラキオの視線が静かに追った。
「セツが、グノーシア?」
「ああ。君はセツを庇っていたようだけれどね。それとも他に疑わしい奴でもいるのかい?」
の言葉に、私はただ小さく首を横へ振った。
するとラキオは満足そうに口角を吊り上げ、小さく「決まりだ」と呟く。
まだ誰かをグノーシアだと断定するには早い。本来なら、明日のジナの報告に合わせて動きたかった。もしセツがグノーシア判定を受けたなら、そのときは庇うつもりでいたのだ。
しかし、今日こうしてラキオと話してしまった以上、私はもう簡単にセツを庇えない。
明日の会議で別の乗員を調べたと報告したり、セツを「人間」だと断言したりすれば、不自然さが生まれる。最悪の場合、私とセツがまとめてコールドスリープされてしまう可能性だって十分ありえた。
ならば、今夜ラキオを消してしまおうか。せっかく信頼を得られたが、私が出せる最善の選択はこれしかなかった。
静かな葛藤を誤魔化すみたいに、私は椅子の上で膝を抱えた。そうして視線を上げれば、淡い照明の下にいるラキオの端整な顔が目に映る。長い睫毛の影、白い肌。その姿を眺めながら、私はぽつりと口を開いた。
「……ラキオはグリーゼ移動船団の生まれなんでしょ? もし私がグリーゼに生まれてたら、ラキオとはこんな風に話せなかったのかな」
もし今夜ラキオを消してしまうのなら、このループで彼について知れることも、そこで終わってしまう。だからせめて、聞き出せることは聞いておきたかった。
ラキオは私の言葉を聞くと、呆れたみたいに鼻で笑った。造り物のように綺麗な瞳が細められ、さらりと流れた髪が頬へかかる。
「自明だね。君のような人間がグリーゼに生まれていたら……そうだね。良くて肉塊市民だろう」
あまりにも容赦のない言葉に、思わず苦笑が漏れる。しかしラキオの口調には、馬鹿にする以上の感情は含まれていなかった。その淡々とした声音は、ただ事実を述べていた。
私は膝を抱えたまま、小さく肩をすくめる。
「じゃあ、こうしてラキオと話せることって幸運なのかもしれないね」
一瞬だけ、ラキオが黙り込んだ。長い睫毛がゆっくり伏せられ、彼は何かを思案するみたいに視線を横へ流した。
いつものように即座に皮肉が返ってくると思っていたせいか、その僅かな沈黙が妙に気になった。
やがてラキオは小さく息を吐くと、再びこちらへ視線を戻す。
「……ああ。君は……君たちは運が良かったンだ」
そのラキオの言葉が、妙に胸へ残った。
⊕⊕⊕
「ナマエ、ジナ。報告なさい」
三日目の会議が始まった。今回のループの守護天使は、どうやらあまり良い成果を残せていないらしい。昨晩、私とセツは、順当にまた一人、この宇宙から消滅させた。
夕里子がエンジニア報告を待つように、かすかな光だけを宿した黒い瞳がこちらを見ている。早くしろ、と言わんばかりに。
先に手を挙げたのは、私だった。
「……私はセツを調べた」
昨夜向けられた青色の瞳と、今まで幾度となく隣を歩いてきたセツの姿が脳裏で重なる。真朱の瞳。穏やかな声。繰り返した静かな廊下。その全部を思い出した瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。
私は卓上の見えない位置で指先を握り込み、それからようやく真正面を見据えた。
「セツは――グノーシアだったよ」
視線の先では、セツが静かな顔のままこちらを見返している。責めるでもなく、驚くでもなく――まるで、最初からこうなることを理解していたみたいな目だった。