夢路に沈む天の灯火
軽く息を吸い込むと、まだ匂いになりきらない青い香りがする。背後でかすかに笑う声がほどけた。
「まだあまり匂いはなさらないでしょう?」
「うん。葉っぱの匂いがする」
「花が咲いたら、とてもチャーミングですよ。綺麗で、素晴らしい香りで……」
彼女は翡翠のような瞳を細めると、静かに笑みを浮かべた。細長く上品な指先が、白い蕾の柔らかな輪郭をそっとなぞる。
以前のループでセツと情報交換をした後、乗員データを『鍵』が記録するようになった。このD.Q.O.の乗員たちの性格や趣味……なんでも知る度に『鍵』は満たされていくという。今回のループでは、一日目にしていつも通りコールドスリープしてしまったラキオを横目に、空間転移までをどのように過ごそうかと考えた結果――
「殿方が嗅いだら、クラクラするような……ふふっ、素敵でしょう?」
ステラについての情報を得ることに決定したのだ。ステラはしなやかな睫毛を伏せると、うっとりと目を細めた。彼女はどうやらこのLABで自身が品種改良をした花を育てているらしい。さりげなく『鍵』を後ろ手に出せば、その情報によってか、ほんのわずかだけ『鍵』が満たされていた。
白馬の王子様を夢見るような表情で花に水をやる彼女に、私は少し前から思うところがある。彼女は、もしかしたら甘やかなものに惹かれる気質があるのではないか、と。あくまで私の憶測に過ぎないけれど、この船内でも性別によって態度の差が、ほんの少しだけ、しかし顕著だったのだ。
「ねえ。ステラは好きな人がいるの?」
ステラと深く関わるループは、今回が初めてだった。セツより遥かに少ない回数であるが、セツとの情報交換を経てループごとにすべき動きが見えてきたのだ。このループでは、『鍵』がいうにはステラからの好感度が高い。次のループでリセットされる前に、彼女についてのデータをなるだけ集めておきたいのだ。
言葉を選ぶことなく率直に問う私に、ステラは眉を下げて行き場を失った視線を揺らした。
「好きな人……ですか? いえ、今はおりませんが……」
「恋愛に興味はある?」
「えっと……」
どうも彼女の好感度は高いが、私に心を閉ざしているようだった。彼女は私と目を合わせることなく、言葉を探して口を閉ざした。
無理に聞き出すほど強引な性格ではない。私は一度腕を組んで、何か良い案はないかとあれこれ思考を彷徨わせたとき――初めの方のループでのLeViの言葉を思い出した。
『展望ラウンジでは映画もご覧いただくことができます。アクション映画からホラー映画。おすすめは……そうですね。恋愛映画なんていかがでしょう?』
LeViは、映画の中でも特に恋愛映画を推した。擬知体なるものが意志をもっていることは、そもそもの知識が少ない私からすれば不思議なことではあるが、この船を知り尽くしているLeViが言うならば間違いないのだろう。
この手でいこう。そう考えた私は困ったように目を逸らすステラに微笑みかけて、やや首を傾げた。
「LeViが展望ラウンジで映画を見れるって言ってたんだ。ステラに付き合ってもらいたくて」
今までのループを加味しても、彼女が誘いを断ることは滅多になかった。むしろ彼女はお茶に誘ってくれたりと友好的な部分があるから、私の誘いも喜んでくれるだろう。
しかし、ステラはちらちらとこちらに視線を寄越したり外したりを繰り返して、きゅっと眉根を寄せた。
「わたし……その……」
どうやら私の考えは誤っていたようだ。ステラが献身的で親切な女性だから、と彼女に甘えてしまっていたようだ。距離の取り方を間違ってしまったらしい。
未だに薄い唇をわずかに開き、こちらに度々視線を送るステラから一歩退くと、彼女に笑顔を向けた。
「困らせちゃったかな。ごめんね」
傷ついていないと言えば嘘になるけれど、こればかりは私の落ち度だ。ステラとの距離の図り方をまた考えなければ、と彼女に背を向けると、LABの扉へと手をかけた。
⊕⊕⊕
今回は誰がグノーシアであるのか、まるで見当がつかなかった。それも、恒例行事のようでもあるが、ラキオが一日目にコールドスリープしてしまったからである。『鍵』を見る限りもやはりロジックのステータスが飛び出ているラキオなしでは、一筋縄ではいかない。
無事に二日目の会議が終わり、ぐぐっと伸びをする私の背に、鈴が鳴るように澄んだ声が背に届いた。
「ナマエ様。少しお話があるのですが……」
その呼びかけに少し身体が強ばった。今日は誰の情報を集めにいこうと考えた矢先だった。皆がメインコンソール室から出ていった後、この場に残っていたのは私と彼女だけであった。
「ステラ」
声を振り返ると、彼女は身体の前で手を組みながら、目尻を下げて私をじっと見る。すると間もなく、彼女はその場で深々と頭を下げた。柔らかそうな髪がふわ、と揺れ、紫色のピアスが光を反射している。
「昨日はあのような態度をとってしまい大変申し訳ありません」
予想外。しかし彼女の性格を考えれば想定内の出来事に思わず目を見開いた。つい彼女の頭を見たままで固まっていると、彼女はどうも頭を上げる気配がない。真面目なステラのことだ。私が言葉をかけるまで頭を上げてくれない気かもしれない。
彼女の前に屈むと、顔を覗き込んだ。睫毛が影を落としたままで、しっかりと目を閉じきってしまっていた。
「ステラ、顔を上げて。全然気にしてない……むしろ私の方こそ急にたくさん質問しちゃってごめんね」
私の声が届いたのか、ゆっくりと瞼が持ち上げられると、ステラの碧色をした瞳がこちらを見た。
未だに申し訳なさそうにしているステラの前によいしょと立ち上がると、それに合わせるように彼女が体勢を整えた。さて、お互い昨日のことは水に流れたとして、今からどうするべきか。顎に手を置いて口端を動かしていると、ステラが恐る恐るといったかたちで薄く色づいた唇を開いた。
「それで……もしよろしければ今から映画をご一緒したいと思いまして」
自信なさげに提案されたそれに躊躇なく頷くと、しなやかな手首を掴んでメインコンソール室を飛び出した。ステラは驚いて目を瞬かせたあと、ほんの少しだけ頬を緩めた。
食堂のフードプリンターでひと粒が小さすぎるポップコーンを用意すると、その間にもステラは二人分のハーブティーを淹れる。ポップコーンとハーブティー。なかなかない組み合わせに笑みを零すと、彼女も顔を綻ばせた。
さて、展望ラウンジの扉を開けると、運良く誰も利用していないらしい。ホログラムの施されていない室内の真ん中でステラを手招きすれば、彼女は柔らかく微笑んでは、静かな足取りでこちらに足を運んだ。
「LeVi、おすすめの恋愛映画を見せて」
辺り一面の宇宙を臨みながら、私にこの船内を案内してくれた彼女にそう言うと、間もなくこの展望ラウンジにはいくつもの椅子とスクリーンが設置された。どうやら、映画館と呼ばれる空間のホログラムが投影されたらしかった。
私とステラが用意された椅子に腰掛けると、LeViがかつての地球で見られたらしい映画の候補をいくつかスクリーンへと挙げていく。どれを選ぶべきだろう、とステラと話し合った結果、空間転移までの時間を考慮し、短いながらも評価の高い映画を選択した。
ねちょ、と崩れる妙なポップコーンを口に運びながら、それとは不釣り合いの林檎にも似たカモミールティーを口に含んだ。ちらりとステラを横目で見ると、彼女の瞳はただ真っ直ぐ、スクリーンを映していた。
『お願い。お願いだから……』
風が止んでいた。さっきまで揺れていたカーテンも、今は静まり返っている。主人公は、目の前の彼の手を掴んだ。
彼は何も言わない。ただ視線だけが、わずかに揺れる。主人公は、指先に力を込めた。逃がさないように。ククルシカのようなふわふわとした髪の奥で、ひと粒の涙が光る。落ちるまでの時間が、やけに長い。
彼女は唇を結び、ゆっくりと顔を上げた。
『私のこと、好きになって』
震える声で、彼女はそう言った。それでも、目は逸らさなかった。
⊕⊕⊕
エンドロールが途切れても、しばらく席を立つ気にはなれなかった。黒く沈んだスクリーンに、さっきまでの光景がまだ焼きついている気がする。胸の奥だけが、取り残されたみたいに騒がしい。上映し終えた今でも、その高鳴りはなかなか引かなかった。
手元に目を落とす。せっかく用意したポップコーンは、ほとんど手がつけられていない。触れることも忘れていたせいで、バケットの中で軽く潰れている。塩の匂いだけが、やけに現実的に残っていた。
「面白かったね」
まだ熱の残る声をそのまま乗せて、隣へ向ける。言葉にした途端、さっきまで抱えていたものが少しだけ輪郭を持った気がした。
ステラは、未だ黒に戻ったスクリーンから視線を外さない。長い睫毛がわずかに震え、それから、ゆっくりと唇が開いた。
「ええ。……やはり愛とは素晴らしいものですね」
静かな声だった。しかしその響きは、先ほどまでの物語の余韻をなぞるように胸に落ちてきた。
映画館を模したホログラムは、間もなく解けた。まだ物語に浸っていたい気持ちを抑えながら席から立つと、ステラは陶然とした面持ちで、口角をゆっくりと上げた。
「ナマエ様。あなたのおっしゃる通りわたしは恋愛に夢見ているのです。今はまだ、わたしの前に映画のような殿方は現れてくれませんが……」
柔らかな声音だった。なのにどこか現実から少しだけ遠かった。
彼女はそう言うと、目を伏せ、届かないものを想うようにかすかに頬を緩めた。何を思っているのか――憧れを抱えたまま、そっと手放すような表情をした。
「ナマエ様は、好きな方はいらっしゃるのですか?」
それからステラは私の方を向き直すと、小首を傾げてそう問いかけた。私の、好きな人。
「私は……」
考えるより前に、ほんの一瞬だけ、脳裏を駆けた人物がいた。柔らかそうな羽根がふわふわと揺れている。長い睫毛が瞬いては、碧青がこちらを見た。私の額を小突く感覚が残っていた。
しかし、それを「好き」と呼ぶにはあまりにも曖昧で、理由なんてとても見当たらず、口を閉ざした。
「私も、今はまだいないかな」
「ふふ。きっとナマエ様の前には素晴らしい殿方が現れますよ」
ステラは、そう言って柔らかく微笑んだ。その穏やかな表情が、静かに胸の奥へと落ちていった。