最愛の裏切り者


 弟からその知らせ・・・・・を聞いたのは、カヌレが万国を出た翌日のことだった。

 完全に頭に血が上っている弟から話を聞きながら、ペロスペローは己の耳がおかしくなったのかと思った。信じられるだろうか。美しく、優しく、賢く、“シャーロット家の誇り”と称えられる自慢の姉が、あろうことか町の男と恋仲になっているなど。
 質の悪い冗談だと、笑い飛ばしてやりたかった。だが、弟の話を聞けば聞くほど、それが事実であると認めざるを得なくなった。

 弟からの通信を切った後、部下を呼びつけて件のジャム屋について調べるように命じ、一人になった部屋の中で、ペロスペローは考えた。

 常に母に従順なカヌレが、こうも堂々と母の意向に背くことをするだろうか。

 カヌレは知らないことではあるが、母はカヌレを餌に裏社会の大物を吊り上げて、富を集めることに執心している。今回行われる茶会でカヌレを披露するのも、ビッグ・マム海賊団の威信を見せつけるのと同時に、ヴィーラの血を引く麗しい長女を使って、私腹を肥やすのが目的なのだ。すなわち、カヌレは独身でなければならない。
 そうでなくとも、元々子供達の結婚は全て母が決めるのだ。もしも母がこのことを知れば、相手の男は当然として、カヌレも粛清されるかもしれない。母はカヌレを気に入っているが、彼女は我が子であっても自分に逆ら者は徹底的に排除する質だ。ヴィーラのハーフであると説いたところで、カヌレの父親、つまり純血のヴィーラをコレクションにしようとしている母にとって、貴重とは言えハーフでしかないカヌレは必要はない。ますます、母がカヌレを生かしておく理由はどこにもなかった。

「全く…なんてことをしてくれたんだ、姉さん…」


 あなたは、ただ、そこに在るだけでよかったのに。
 ずっと家族の傍で、家族だけに、大輪の花より美しく、木漏れ日のように温かい笑みを見せてくれるだけでよかったのに。

 なぜ、姉の目は他所へ向いてしまったのだろう。赤の他人に心を砕く暇があったのなら、弟妹をもっと愛してくれればよかったのに。無論、姉は心から家族を愛してくれているのだろうが、カヌレに弟妹は41人もいるのだ。みんな、もっと愛してほしいと思っている。でも、姉に愛されたいと思うのと同じくらい、他の兄弟姉妹のことも愛しているし、姉が絶対に誰か一人を特別扱いしないこともわかっているから、誰も何も言わないのだ。だと言うのに…

 しかし、起きてしまったことは仕方がない。今更どうこう言ったところで、何も変わりはしない。あらゆる意味で、事態は最悪なのだ。唯一救いがあるとすれば、母がまだ何も知らないということだけ。今のうちならば、子供達だけで対処することができる。幸い、カヌレは万国にいない。男を守る者はなにもない。…まぁ、例えカヌレが傍にいたとしても、やることは変わらない。寧ろ傍にいた方が、見せしめとしてもっと残酷な手段を用いていただろうが。
 男には死を。ほんの一時、遊びだったかもしれない相手とは言え、家族以外に姉に想われる存在はいらないのだから。だって、家族がいればそれでいいではないか。母がいて、兄弟姉妹合わせて42人。そして、今後も増えつづけるだろう弟妹達。それだけいれば十分だ。自分にとっても、他の兄弟にとっても、母にとってもそうなのだから、姉にとってもそうに決まっている。そうでなくてはならない。


 だが、やがて部下がもたらした情報を手にした時、ペロスペローは、自分達にとってはそうであっても、姉にとっては違ったのだと、思い知らされることになる。



 カヌレが万国を出て、3日目。何の問題も起こっていなければ、今頃“クイーン・ママ・シャンテ号”は目的の島に到着しているはずだ。

 姉にとって、航海は約2年ぶり。生まれたときから船の上だったから、きっと波の音と潮の香りに心踊らせたに違いない。なにせ、隣には愛する恋人がいて、煩わしい存在はいないのだから。
 

 夜の帳がおりつつある空と海の青に、姉の瞳の色を重ねながら、ペロスペローは舐めていたキャンディを噛み砕いた。今日一日ですでに5回目だ。常ならば、有り得ないことである。揃って短気な三つ子だけならばまだしも、余裕綽々とした態度を崩すことのないペロスペローまでもが苛立っているとあって、船上の空気は凍りついていた。更に、時折船室から妹達の悲痛な嘆き悲しむ声が聞こえてくるものだから、地獄の様相である。

 あぁ、また誰かが泣いている。可哀想に。兄として慰めてやりたいけれど、残念ながらそんな余裕は自分にはまだない。勝手に溢れ落ちたため息が、張り詰めた空気の中に溶け込んだ。


 一昨日、ペロスペローの命令を受けた優秀な部下は、主が望む情報をもたらした。

 曰く、マーガリン島でジャム屋を経営している件の男は、約2年前に万国に移住してきた。歳は22。ジャム作りの腕前は申し分なく、今やマーガリン島で一番人気の店だという。元々少しずつ人気を集めていたところ、マーガリン島のアイドルであるカヌレが、男のジャムを屋敷に直接卸すようになったことで、一躍有名になったのだとか。それがだいたい1年半前。二人の関係は、その頃から始まったのだろう。


 そこまで聞いて、ペロスペローはやはり男には死あるのみだと確信した。1年以上も、姉の心に家族以外が住んでいたのだ。例え二人が既に終わった関係だったとしても、きっと自分は許せなかっただろう。

 そして、その後に続いた部下の言葉で、自分の気持ちが固まるのを感じた。

 曰く、ここ数日件のジャム屋は閉まっていて、店主の男も見かけられていないとのこと。最後に男が目撃されたのは、ちょうどカヌレが出港した日の早朝。偶然出会った住人が言うには、「数日出掛けるので、しばらくお店をお休みします」と、申し訳なさそうに言っていたそうだ。それ以降、誰も男を見ていない。今現在もだ。

 ペロスペローの部下は優秀だった。男の現在地を把握できないとわかると、住人達に男の容姿について尋ねた。容姿がわかれば、ホールケーキアイランドなり、他の島なりで似た男が目撃されていないか、調べられると思ったのだろう。
 住民達は、男の容姿について様々なことを言ったそうだ。「優しそう」だの、「あっさりした顔立ち」だの、「結構ハンサム」だの。だが、全員が口を揃えて言ったのが、「とても背が高い」ということ。カヌレを見慣れているマーガリン島の住民が言うのだから、男はカヌレと同じか、より高いのだろう。住民達の話を聞いた部下は、しばらくして思い出した。…そう言えば、カヌレが引き連れていた部下の中に、際立って背の高い男が紛れていなかっただろうか、と──


「ペロス兄さん」

 いつもより、鼻にかかった妹の声が、ペロスペローを現実に引き戻した。返事をするよりも前に、コンポートはペロスペローの隣に並ぶと、手すりにもたれ掛かる。

「もうすぐ、例の島がブリュレの能力圏内に入るわ」
「…そうか」


 “鏡の世界”で行き来できれば、船の到着を待たず、姉の元へ行ける。とにかく姉を捕まえて、母に知られる前に男を殺し、全てなかったことにしなければ。もし二人に逃げられてしまったら、母に全て知られてしまう。自分の思い通りにならない存在を、母が許しておくことはない。カヌレも男も殺せと言うだろう。それも、ペロスペロー達に。そして一度母から命令されれば、子供達には逆らう術がない。つまり、彼らは最愛の姉を殺さなければならなくなるのだ。己を愛し、限りない優しさを注いでくれた唯一無二の人を、この手にかけなければならなくなる。そんな地獄は御免だ。
 それならば、カヌレの大切な人間を殺して、カヌレに恨まれる一生の方がずっといい。どうせカヌレは、弟妹を憎み続けることなどできないのだから。


「どうしてあの人には、何も伝わらないのだろうな…」

 その呟きに、コンポートはすぐには答えなかった。ペロスペローと同じように、遠くの海を眺めてから、小さな声で答えた。

「あの人が、ママはもちろん、私達の誰にも似てないからよ」

 その通りだと思う。カヌレは、シャーロット家の誰にも似ていない。容姿は別として、何よりも似ていないのは、その“心”。

 姉には、他の兄弟にとってカヌレのような、何に置いても自分を愛してくれる存在がいない。だと言うのに、カヌレは誰よりも優しさに溢れている。そしてそれは、家族、部下、マーガリン島の住人、万国の国民、見ず知らずの人間にさえ及ぶ。大小差はあれ、基本的には誰に対しても優しさの雨を降らせる。それゆえに、誰からも愛される。誰しも、自分に優しさを注いでくれる人間を嫌いになることなどできないから。

 でも、だからこそ、姉には絶対にわからないのだ。

 カヌレはとても美しく、優しく、誰からも愛されるから。きっと、自分を取り巻く人間が己を嫌って離れていったとしても、それを惜しんだり悲しんだりしないだろう。だってその穴は直ぐに、別の誰かが埋めてくれるから。

 だが、ペロスペロー達は違う。姉のように、誰からも愛されたりしない。自分達には、血の繋がった家族しかいない。家族が欠ければ、それを埋めてくれる人はいない。特に姉は、誰が代わりを努めることもできない。失えば、二度と戻っては来ないのだ。カヌレ以外に、見返りを求めない愛で包み込んでくれる人はいないから。


 …そうだ。シャーロット家の誰にも似ていないカヌレには、一生かかっても理解できまい。生みの母親からでさえ、まともな愛を向けられたことのない者の気持ちなど。愛してほしいと、その背に手を伸ばすことしかできない者の気持ちなど。


「コンポート、おれの電伝虫を取ってきてくれるか?」
「えぇ」

 妹が離れて行くのを見送ってから、ペロスペローは船首の遥か先へ目線を投げた。


 これからやろうとすることで、カヌレは深く傷つき、悲しむだろう。口をきくことも、顔を合わせることも嫌がられるかもしれない。でも、少なくともカヌレと最も長い時間を共有してきたペロスペローは知っている。
 優しい姉は、家族を心底嫌い、憎むことはできない。柔らかく微笑むことがなくても、温かい指先が触れることがなくても、愛を求めて伸ばされる腕を振り払うことができない。


 だから、二人を捕まえて男を殺し、カヌレを連れ戻せば万事上手くいく。カヌレさえいればいい。姉がいてくれるなら、嫌われても憎まれても、ペロスペロー達は手を伸ばし続ける。カヌレがいつか、罪悪感に呑まれて否応なしに振り向く日まで、ずっと。…いいや、一生振り向いてくれなくても構わないのだ。

 ただ、カヌレがそこにいる。己にとっての“唯一無二”が、他の誰かのモノになることがなければ、己の目の届かない所にいかなければ、それで──


 船室から出てきた妹がこっちに近づいてきているのに気付き、ペロスペローは思考を止めた。そのことについては、今考えても仕方がない。大事なのは、二人を捕まえることだ。そうでないと何も始まらない。その為にはまず、カヌレの身柄を押さえなければ。

 ペロスペローはコンポートから電伝虫を受け取ると、腹を括るように息を吐き出した。



 “鏡の世界”を通り、島に到着したペロスペロー達を待ち受けていたのは、“カヌレの姿がない”と騒ぐ部下と、深々と頭を下げるカヌレの侍女──その内の一人は、ペロスペローが事前に“クイーン・ママ・シャンテ号”に連絡を入れた際、応答した女だった──の姿だった。

 曰く、彼女達は宴に参加中のカヌレを連れ戻そうと酒場に赴いたが、入れ違いになってしまったとのこと。船に戻るとシュトロイゼンに告げたカヌレは、付き添いの部下に能力を使って姿を眩ましたという。同時に、カヌレが今回の遠征に連れてきた、ずば抜けて背の高い・・・・・・・・・部下の行方もわからなくなっているようだ。

 涙を流して謝罪する三人を横目に、ペロスペローは島の中心部へ目をやった。激怒した弟から燃え上がった火柱が空を焦がしたおかげで、灯りがなくてもよく見える。
 ここへ来る前に、島の地図には目を通した。二人がどうやって島から脱出するつもりかは知らないが、逃げ場所として選ぶのは、間違いなく島の西方の山のはず。現に、カヌレが行方不明になったと聞き、瞬く間に酔いの覚めたシュトロイゼンが、部下を率いて山狩りを行っている最中らしい。

「おれ達は向こう側を探す。お前達はそれ以外の場所を探せ」

 途端に部下が散って行った後、ペロスペローは未だ泣きじゃくる妹に、他の兄弟と共に“鏡の世界”からカヌレを探すよう言いつけた。鏡を通じてカヌレの足止めを図る為だ。そのために、ブリュレ達幼い弟妹──とは言え10歳以上だが──を連れてきたのだ。幼い彼らに呼び掛けられたなら、きっと姉の脚は止まるはずだ。…カヌレが鏡を持っているかは賭けでしかないが。

「さぁ、兄弟達よ。おれ達の大切な姉さんを迎えに行くぞ」


 ペロスペロー達が追い付いた時、姉はどんな顔をするだろうか。戸惑いか、恐怖か、絶望か。あぁ、もういずれであっても構わない。今ペロスペロー達が感じているものは、それら全ての感情で、もっとずっと大きいのだ。比較にはならないだろうが、少しくらい恐れを抱いてくれればいい。

 唯一無二の大切な人を失うことが、どれだけ恐ろしいのか。そうして知ってくれればいい。あなたなしには生きられない家族のことを。

 そう思い、ペロスペローは弟妹を連れて歩き始めた。夜空を焦がした火柱を見て、ほんの少しでも家族のことを思い出してくれはしないかと、踏み止まってくれはしないかと期待をかけたのだ。だが。



「ペロス兄!」

 手にしていた“鏡”から声をかけてきたクラッカーは、ペロスペローの予想と正反対のことを告げた。

 カヌレの足止めは成功しなった。泣き狂い姉を求める弟妹を振り切り、カヌレは鏡を叩き壊したというのだ。それは明確な“拒絶”だった。“もうお前達の元には戻らない”という、姉の叫びだった。

「…そんな……どうして、…」

 アマンドが呟く。それに答える者はいなかった。


 共に育った、血の繋がった家族。それ以上に大切なモノなんて、この世にあるはずがないのに。どうして家族ではなく、赤の他人を選ぶのか。…わからない。わかりたくもない。最愛の姉が、“家族よりも、恋人を愛しているから”など……

「兄さんっ!…これを……!」

 ぐらぐら揺れる思考をかき消して、妹が指差す先を見下ろす。足跡だ。二人分。並んで走っている。…間違いない。
 示し合わせた訳でもないのに、一斉に走り出す。険しい道もなんなく飛び越えて、どんどん強くなる磯の香りを感じながら、ただひたすら走った。そして──


「カヌレ姉!!」

 視界を阻む樹海を抜けた先。断崖に向かって開けた場所で、ペロスペロー達は探し求めていた姿を見つけた。カヌレは、断崖の岩場に立っていた。それを見た瞬間、ペロスペロー達は姉が何をする気なのかを悟った。

 カヌレは死ぬつもりなのだ。隣に寄り添う男と一緒になる為に。

「カヌレ姉!」
「カヌレ姉さん……っ!」

 誰もが競って手を伸ばす。いつものように、姉が応えてくれることを望んで。「どうしたの?」と、優しく微笑んで、温かい指先に触れてほしくて。それなのに。

「私の、可愛い兄弟達」

 残酷なほど美しい眼差しが、ペロスペロー達に一人ずつ向けられる。そこに宿った覚悟が、脳髄を震わせた。


 …ダメだ。そんな、そんなの絶対にダメだ。何の為にこうして追いかけてきたと思っている。全て、あなたを母に殺させないためだ。男を殺して、何もかも無かったことにして、あなたを守るためだ。死なせたくないから、愛しているから、家族だから、こうして、兄弟達全員が必死に、あなたを…──


「大好きよ」

 カヌレが笑った。それは、優しくて、温かくて、子供の頃から大好きな笑みだった。

 あぁ、なんて狡い人だ。よりにもよって、その笑顔を浮かべるのか。姉に拒絶されたことに嘆き、あるいは激怒している弟妹に向かって、いつもの言葉と笑顔を送って。心の底から、大好きだと告げて。そうすれば、弟妹の足を止められるとわかっているくせに。

「姉さん!!」

 迸った己の声は、最後に届いただろうか。姉は、泣き叫ぶ妹と怒り狂う弟に背を向け、崖から飛び降りた。片手に、カヌレにとって唯一無二の、大切な恋人の手を握って。誰よりもカヌレを必要としている、ペロスペロー達の手を振り払って…

 
 体から力が抜けていく。キャンディケインが転がって、ペロスペローは地面に膝をついた。胸が苦しいのは、走り続けたせいで息が上がっているのか、たった今目の前でカヌレを失くしたからなのか、己が能力者であることも構わずに海に飛び込もうとする弟達や、我を忘れて姉を追いかけようとする妹達を能力で押さえ込んでいるからなのか。



『ペロスペロー』

 耳元で蘇る、ペロスペローの望む言葉を紡ぐ声。どんな言葉も甘美なモノへ変えてしまう、魔法のような声だ。

『みんながいないときは、もっといっぱいあまえていいんだよ』

 幼き日々に交わし、ずっと胸に抱き続けてきた約束。それを覚えていたのは、自分だけだったのか。カヌレはとっくに、忘れていたのか。 カヌレ以外に、ペロスペローが寄りかかることのできる存在はないのに。

『ペロスペローは、わたしだけの弟なんだから!』

 そうだ。ペロスペローを“弟”と呼ぶのは、家族の中でカヌレだけ。ペロスペローにとっても、“姉”や“上の兄弟”はカヌレだけ。互いにとっての唯一のはずだった。特別なはずだった。思っていたのは自分だけだったのか。 “ペロスペローの姉である”ことさえ、カヌレは捨ててしまったのか。簡単に捨てられる程度のことだったのか。


 
 眼下の海は荒れ狂っている。岩場に叩きつける波のように、胸の内に容赦なく“絶望”が押し寄せてくる。それを打ち消す術を、ペロスペローは知らなかった。今の自分には、“絶望”しかない。
 世界でたった一人の、最愛の人に裏切られたのだ。無償の愛と優しさを注ぎ、時には叱り、全てを包み込んでくれる人に拒まれたのだ。胸に開けられた穴を、どうやって埋めればいい?姉の代わりなど、どこにもいない。カヌレがいなければ、自分はこの先、どうやって…──

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