蜘蛛の巣

糸を紡ぐ。骨と皮だけの細い指で、決して失敗しないように丁寧に糸を染めて、伸ばし、増やしていく。一度の失敗も許されないこの作業に精神力は奪われていくばかりだが、止めたいとは思わなかった。
紡いだ糸が床に敷いたブルーシートの上に積み重なっていく。赤かった糸は乾燥し、少し暗い色合いになっている。そろ、充分か。ちらりと見やった床には山のように糸が積み重なり、貧乏揺すりをしていた己の足の踝まで埋まっていた。

「これくらいでいいか……」

呟いた声は予想よりも乾き、嗄れていたが、気にせずにこくんと唾を飲んだ。積み上がった糸を手に、至るところに刺したピンと机に広げた図を見比べる。一筆書きパズルは得意ではない為、何度も図面を確認し、スタート地点にあたるピンに糸の小さな輪っかを引っ掛けた。

「右足、三十四番のピンからスタート。次点は頭部、五十九番のピン」

確認も兼ねて小さく呟きながら、糸を張り巡らせていく。図面を見て、間違わぬよう丁寧に。制限時間まであるものだから、ゆっくり丁寧ではなく手早く丁寧にやらなければならないのも大変だ。
五十九番から四十二番、十五番、八番、六十番、二番……。
ピンに糸を引っ掛け、赤い線を引いていく。縦に斜め、縦横無尽に線を引く。赤い糸は蝋燭の火に照らされ暗闇に浮かび上がり、繊細で緻密な図を未完成ながら浮かび上がらせていた。

何十どころではない、恐らくは何百も行ったピンに糸を引っ掛ける作業は外が明るくなり始めてから終わった。あまりに細かい図面を選んだために、数時間も掛かってしまったことを少しだけ後悔している。しかし、出来上がった図はそれだけ時間を掛けた事はある、と思える程美しく、至高の出来だと顔が緩んだ。
図だけで終わりならば良かったが、残念ながらこの図は背景だ。メインとなるそれを入れなければこの図も意味が無く、例え図だけが美しかろうと未完成の作品では彼らは喜ばない。
…もしするとメインに飾るそれを床に置いておくだけでも満足かもしれないが、そんな事では他の者に頼むのと変わらない。自分に頼まれたものだ。ならば自分にしか出来ないように飾り立てるべきだと、ちっぽけなプライドが喚いていた。

ちっぽけなプライドが言う通り、メインは背景の中央に、美しく目立つように配置する。真っ白な表面にコーティングを済ませたそれを天井梁に仕掛けた滑車もどきで吊り上げ、細いワイヤーで固定していく。八本の細い手足は図面の頑丈な部分に釣り糸でくっつけ、胴体はワイヤーの他目立たぬようにロープ等で宙に上げた。大きな図の横に小さく作った図にも、同じ様にコーティング済みのそれを設置していく。此方は手足のない餌をイメージしている為、赤に染めた布で大部分を包んで設置した。まるで蓑虫のような見た目は少し笑えたが、作品全体を通して見れば美しく変わるのだから多少の滑稽さは許そうと残りも順調に飾り立てていった。

そうして、太陽が空を照らす頃、作品は完成した。これをずっと見ていることが出来ないのは残念だが、さっさと立ち去らなくては彼らに怒られてしまう。怒られるのはあまり好きではないので、パシリと写真を一枚撮ってから、ささっと手早く使った道具を一纏めにして部屋を出た。
廊下で待っていた三人の同僚に、出来上がった旨を伝え道具を渡す。床に敷いた小さなシートの上でお菓子を食べたり珈琲を飲んでいた三人は漸くかと疲れた顔を隠さずに立ち上がり、外に出た際おかしく見えないように各々の鞄の中にそれらを隠していった。
自分も身に着けていたエプロン、使い捨ての靴カバー、頭巾、手袋を外して鞄に放る。道具類は三人が持つため自分は自分の荷物のみを持ち、身嗜みを整えて顔に対して大きめなマスクを付けた。
黒髪の上に茶色のウィッグを被り、目元は簡単にメイクをして誰だか見分けがつかぬようにする。用意してあった可愛らしい制服を着て、スカートを短めに、ボタンを一つ外してしまえばどこにでも居るような少女が出来上がった。三人も簡単にメイクをして、スーツ姿の中年男性、派手めな服を着た中年女性、少し皺のあるスーツを身に付けた青年に扮装している。上司に見せられた写真に映る者達と変わらないその背格好は常日頃見ている互いの姿からは程遠く、皆が皆似合わないと笑ってその家を出た。


*暗転*


パトカーのサイレンと、救急車のサイレンが近付いてくる。発見者の通報から約十分遅れのその到着に、溜息を吐きながら男は煙草の煙を燻らせた。

キィっと音を立てて止まった灰色の公用車から、ヨレヨレの灰色のスーツを着た青年が出てくる。タレ目に八の字眉。THE優男、といった風貌の青年は壁に寄り掛かり煙草を吸う男に気付くと、犬の様に顔を明るくさせ男に駆け寄った。

「栄部(えいぶ)刑事〜!」
「うるさい。ちょっとは静かにできねーのか貴島(きしま)」

男―栄部は駆け寄ってくる青年―貴島に煙を吹きかけると、煙草を地面に落として壁から背を離した。わんわんと犬の様に吠える貴島の頭を叩きながら、栄部はボロボロと泣く中年女性に近付いていく。貴島はその女性が誰なのかわからず首を傾げたが、そのあまりにも悲痛な泣き声と青ざめた顔に第一発見者だろうとアタリをつけてジャケットの内側から手帳を取り出した。
貴島の想像通り、その女性は通報をした第一発見者であった。足音が近付いてくるのに気付いて頭を上げた女性は、通報して一番にやって来た警察の人間である栄部を見て目を細め、その後ろでジャケットに手を入れた貴島を見てヒッと引きつった声を上げた。

「いや!いや!やめて!殺されるわ!」
「あっ、ちょ、貴島お前なァ!」
「えっ!?何かマズりました!?すいませんどうすれば!?!?」

錯乱し始めた女性に驚き栄部が振り返り、ジャケットに手を入れた貴島を見てあーあーと頭を抱える。見知らぬ人間が警察の後ろで懐に手を入れているのは、女性には凶器を取り出そうとしているように見えたのだろう。慌てて両手を見えるように掲げた貴島を見ても錯乱したままの女性に溜息を吐いた栄部は、仕方なく近くにいた救急隊員に声を掛けて女性を託した。

話を聞くことも出来ないと舌打ちをした栄部は、落ち込んだ貴島を引っ張り今度は家へ足を向けた。鑑識がやってくるのを話を聴きながら待つつもりであったが、錯乱した女性を宥めるので時間を使って鑑識はもう現場を保存し始めている。ただ、異様な程に皆が皆顔を青ざめさせ、数人は塀に寄り掛かりゲェゲェと下呂を吐いているようだった。
ブルーシートを潜り、栄部は成程、と顔を顰めた。玄関先であるというのに、酷い臭いが辺りに充満していた。後から入ってきた貴島も口を抑え、涙目になりながら栄部のコートを掴む。ふるふると首を振りながら無理だと示す貴島に呆れながらも、栄部は近くにいた鑑識から渡された靴カバーやマスクを装着し、そのまま玄関の中へ入っていった。

むわ、と夏の熱気が足下から栄部を襲う。熱気と共に腐臭が漂っていたが、栄部は眉根を寄せたのみで犯行現場であるリビングへ入った。
リビングはカーテンが閉められ、蛍光灯が付けられていた。といっても蛍光灯は何故か赤く、部屋を不気味に照らしている。お化け屋敷よりも恐ろしいその部屋は換気がされていないのかどこか篭った臭いがして、マスク越しだというのに栄部は咳き込んだ。
つい、と目をやると、無残な姿の遺体と格闘する数人の鑑識がいる。臭いは夏ゆえの熱気で遺体が腐ったためか、それともこの地獄のような現場から勝手に脳が錯覚して匂いを作り出したのか。わからぬほどにその遺体は無残で、悲痛で、痛々しく、そして、どこか退廃的な美を纏っていた。
貴島がぐっと呻き、外へ駆けていく。栄部はそれを横目に溜息を吐き、遺体へ一歩近づいた。

真っ白な肌が赤い光に晒され、柔らかな肉感を表している。白く大きな蜘蛛が二匹、巨大で緻密な蜘蛛の巣に脚を絡め、餌を貪りくっている。そんな、“作品”がそこにはあった。
一つ、栄部は目を凝らし見た。蜘蛛の一匹、糸を口から吐いているそれは、生まれたままの姿の、男だった。中肉中背、この家の住人であろう男は美しく飾り立てられ、腹から余分に手脚を生やして蜘蛛の真似事をしていた。赤い糸で柔くまろやかな手脚を脇腹に縫い付けられ、その手脚は酷く大きな蜘蛛の巣に巻か取られている。
もう一匹の蜘蛛は中肉中背の女だった。パーマのかかった茶髪を結い上げて男と同じように蜘蛛の格好をしていた。しかし、脇腹に縫い合わせているのは節くれだった、異性のモノであろう手脚である。この手脚はどこから持ってきたのか。その疑問は簡単に解かれる。
男女の横、或いは下に、蓑虫のような男女が蜘蛛の糸に絡められ死んでいた。蜘蛛の格好をした男女よりも幾ばくか若い二人は手足が無く、赤い布でくるくると胴を包まれている。達磨のようだとも、蓑虫のようだとも、栄部はその二人を見て思った。
四人の、人間だったモノは日本人とは思えないほど白く滑らかな肌をしていた。こんなにも酷い目にあっているのにその顔は穏やかで、薄く微笑んでいるようにすら見えた。

「綺麗な顔だろ。コイツら麻酔が使われてたかもしれんぞ」
「……オッさんか、驚かせないでくれ」
「何だ、ビビったのかぁ栄部?」

ケッケケッケと蛙の鳴き声のような笑い声を上げて、一人の男が栄部の背後から現れた。オッさん、と栄部が肩を竦めると、オッさんと呼ばれた男はまたケッケケッケと特徴的な笑い声を上げた。

栄部が現場に入るようになった頃からいる鑑識の一人であるオッさんこと乙郎は、どうやらこの酷い現場でも参っていない一人であるようだった。他の鑑識たちがゲェゲェ吐いている中でケロリと普通の顔をして、乙郎はせっせと手を動かして現場を保存した上、遺体の小さな傷や違和感を見て簡単に状況を纏めている。頼りになるが恐ろしい奴、と思いながら、栄部は乙郎の手元を見た。

真っ白な紙に長々と何かが書かれている。遺体の簡単な図と線がくねくねと書かれたそれは、どこかで見たことがあると栄部に思わせる。その様子を見て、乙郎はケッケと笑ってほらよ、と別の紙を差し出した。その紙は少し古いもののようだったが、書かれているものは先ほどのものと随分と似通っている。栄部が顔を上げて乙郎を見ると、乙郎はアレだアレ、とペンを持ったまま指を一本立てた。

「見覚えねーか?このやり口によ」
「やり口…?」
「ああ、苦しみを与えず、穏やかな顔で殺してやって、その体を得体の知れないナニカに変えちまう。そんなサイコ野郎に覚えがよ」
「……まさか、だが、あれはもう死んでしまったはずだ」

乙郎が言わんとしている事に気付いた栄部は、顔を顰めて頭を振った。もしも乙郎の言う通りならば、これは警察にとってかなりの醜態となり、ひどい冤罪を一つ生んでしまったということになるのだ。しかし、乙郎は栄部の考えを見透かしたように頷いた。

「シリアル…ちげぇな、サイコキラーか?何処ぞの外人にゃあ第二のエズラ・コブと呼ばれてやがったあのボケ野郎が、本当は生きてるってこったろーよ」
「模倣犯の可能性は」
「ねぇよ。これまで幾らか模倣犯はいたが、それとは一回りも二回りも違う。あの蜘蛛の巣といい死体の作りこみといい、こいつは本人以外ありえねぇ。そもそも俺ァ死んだあの男は偽モンだと思ってんだからよ」

ケッ、と乙郎が息を吐く。その様子を横目に、栄部はくそ、と呻いた。

二年前。様々な人種、様々な人間が定期的に死んでいった。一人はあやつり人形のように糸でビルの合間に下げられ、一人はまるで元からそこになかったかのように臓器を抜き取られ死んだ。様々な手法で殺されていく人々に、日本人だけでなく外国人まで手は広がり、国中が震え上がった事件。エズラ・コブというのは、数人の女性の皮を剥ぎ、服と家具を作ってあったことから、それに似た事件を過去に起こしている殺人犯の名でそう呼ばれていた。
しかし、その事件は収束している。犯人だとされた芸術家である男が、大衆の目の前で警察に追い詰められ自殺しているのだ。だから、もしも乙郎が予想する通りにこの事件が模倣犯でなく、二年前の犯人が起こしたものであるならば。栄部は小さく身震いし、喉の奥でぐうっと呻いた。


そして。サイコキラー、猟奇殺人鬼、芸術家。エズラ・コブとまで呼ばれた人を解体し作り替える殺人鬼は乙郎の予想する通り、この日以来、再びその手を振るい始めたのだった。