季色のメメントモリ

※シリーズにしようかと
※死ねたではないです




所謂失神というものを、初めてした。

全校集会で倒れる人はよくいたけれど、まさか自分がそうなるなんて思っていなかった。
ああなんかチカチカするなぁと思ったらふっと視界が暗くなって。

気付いた時には私は、保健室のベッドににいた。


カーテンの隙間から、保険医の先生が真っ白な長い髪を軽く束ねた後ろ姿が見える。

「目は覚めたかね」背を向けたままそう言われて、はい、と答えてから、どうして気付いたんだろうと思った。

今は何時なんだろう。午後のような日差しを眺めていたら、カーテンを腕で押しながらマグカップを二つ持った澁澤先生がカーテンで仕切られた半個室の中へ入ってきた。
カップをベッドの脇の椅子の上に置いて、保健室の先生は、当たり前のように私の足元へ腰掛ける。

あまり話したことはないから、距離が近くて少し驚いた。
ここの保健室自体、たまに怪我で来たことがあるくらいで、澁澤先生がどんな先生なのかも、よく知らない。
こわい、かっこいい、性格悪い、そんな噂はたくさん聞いていたけれど、人と仲がいい話は聞かないし、見たこともない。大抵はいつもひとりでいる人だと、そういう認識でいた。

先生は自分のカップを口に運ぶけれど、まだ熱そうに、飲めないでいる。
意外に人間らしいところがあるんだなと思っていたら、真っ赤な目が私を見て、言葉をかけた。
この赤い目は、突然変異、アルビノだと、その話だけは知っている。

「君は貧血とは呼べないほど眠っていたな。寝不足か」
「あ…テスト勉強、で、ちょっと」

そんなに寝ていたのか。全校集会はテストの前の朝礼だったから、四時間とか、もっと?
ベッドを占領していた申し訳なさに動こうとしたら、先生が手のひらを向けて私の動きを制した。

「『ちょっと、昨晩は2時間しか寝ていない』だろう?」

「看ればわかる」そう言われた私は、相当驚いた顔をしていたのだろう。

「飲みたまえ。昼は過ぎた。身体が飢えている」
「…あ、ありがとうございます」

私に用意されていたのは、温かいココアだった。多分ミルクで溶かしてある。給食のあまりの牛乳だろうか。
先生の方は、真っ黒なコーヒー。砂糖があるかないかは、まだ鼻が未熟な私にはわからない。

ふう、ふう、と息をふいて、熱を冷ますと湯気が空気を泳いだ。
保健室は、いつも少し涼しい。あまり来ないから冷房が効いた寒い場所、というイメージがあったけれど、体にかけられた軽い羽毛布団があると、その理由がわかった。
とても眠りやすいように、空調を整えてあるんだ。

「あの、今は」
「さあ、何時だろうな。いずれにせよ君は帰って眠りたまえ。あんな寝言を言うほど疲れている」
「え!」

くっく、と笑う先生が、「安心したまえ、今日のお客人は君だけだ」と言う。そ、そういうもんだいじゃあない。私、先生に何を聞かれたんだろうか。
飄々とした態度で意図がつかめないまま、けれど先生は先生らしく、「これを飲んだら帰りなさい」と優しい命令口調で、私を諭す。

「保険医が帰れと言ったら絶対だ。君に拒否権は無い」
「でも、テスト…」
「しっかり休めば、追試に向けて勉強が出来る。いい点がとれるじゃないか」
「追試はいやです」
「そういう無理がこうなる。ここにいるのが私でなければ救急車を呼んでいた」
「え…」
「君らが思うほど肉体というものは強くはないのだよ。これは只の、魂の入れ物だ」

そう言って、澁澤先生が立ち上がり、私の頭をくしゃりと撫でた。
大きなてのひらが、とても男の人で、どきりと心臓が跳ねた。人に頭を撫でられたこと自体、初めてて、あと、澁澤先生は真っ白で綺麗だから、潔癖そうで、人に触ったりしないと思っていたから。
あっ、とか、えっ、とか戸惑っていたら、「撫でて寝かしつけなければ眠れないか?それとも隣で寝て欲しいか」とまた笑う。

「ち、ちがい!ます!」
「まぁ私も昼寝したい時間だ。いつもなら鍵をかけて寝ている」
「あ、もしかして午後、保健室の外出中の時間って」
「いや?本当にいない日もある。勿論寝ている日もある。そして一人とも限らない」

カップから口を離し、唇を舐める先生。
『澁澤先生は生徒を食っている』なんて噂を思い出して、思わず布団を引き寄せた。
い、いや、べつに、私みたいなちんちくりんをとって食うとは思わないけれど、咄嗟の防御、で。

そんな私の自意識過剰に対して興味もなさそうに、カーテンを揺らし向こうへ歩きながら、「そういえば」と澁澤先生が話題を変える。
少しぬるくなってきたココアに口をつけたら、甘さが身体中に広がる。

「失神というものは、一種のエクスタシーだと聞いたことがあるが、君はどうだった」
「!?」

いきなり信じられない話題を振られて派手に咽せていると、ははは、と乾いた笑いが聞こえてきた。
ああ、もしかしてこれは、からかわれている。とてもSだからよく生徒を莫迦にしすぎて嫌われている、なんて聞いたこともたしかにあったけれど、私は今、間違いなくからかわれて遊ばれているのをとても感じる。

「べ、べつに!ふらっと!しただけですが!」
「そうか、それは残念だ。己の身体から一瞬でも意識が乖離したのなら、それは最小限の死に等しい。死の瞬間は、肉体で感じられるエクスタシーの数倍の快感が得られるそうでね」

淡々と語り始める先生。
話の内容はとても卑猥で物騒なのに、どうしてか、とても美しい。

「勿論私は、死んだことがないから判らない。それに男はオーガズムに、女ほどのエクスタシーを感じない。つまり女性が感じたものの方がより、快感の数値が高いのだ」

話に聞き入ったまま、私は甘いココアをもう一度、ごくりと飲み下す。
砂糖が喉を通って胃に落ちて、四肢に広がっていくのを感じる。
この身体は今とても、乾いているみたいだ。

「眠る瞬間を心地いいと感じたことはあるかね?人間はいつでもこの肉袋を捨て思考から離れ、あるがままの姿になりたいと願っているのだよ」

ことん、とマグカップを置く音が聴こえて、澁澤先生がカーテンの向こう側で白衣を抜いでいる影が揺れる。
布の擦れる音と、ひとつかみ、パサリと解かれる長い髪。


「死というオーガズムを経験してみたいと思わないか?私はね、命の絶頂を見てみたいのだ」


カーテンの隙間から、真っ赤な瞳がこちらを見て、たれ目がにやりと釣り上がる。
袖をまくりながら振り返る仕草は、黒いシャツに、ほどいい筋肉が浮いていて。



あぶない。

そう、思った。



「……ご、ご、ごちそうさまでした!!」

私は、急いで保健室のドアへ走った。
おやおや、と笑う声に、心臓がどくんどくんと波打っている。
倒れる前みたいに頭がクラクラするけれど、いま、倒れたらきっと、それは、その原因は、先生に、他ならないじゃないか。

扉を開けようとしたら、鍵がガチャガチャ鳴った。
「昼寝の時間だ、君以外のお客人はいないと言っただろう」と、背後から声が近づく。

「体調を崩したら、またおいで。次はちゃんと相手をしてやろう」

背後から覆いかぶさる、一つ分大きい身体。
頭上から耳元でそう囁いて、大きな手、黒い爪が、私の手の甲を撫でる。

かちゃり、と鍵が開けられた。



「さ、さ、さようなら!ありがとうございました!!」
「ああ。気をつけて帰りたまえ」

先生が扉を閉める音も待たずに、足が絡まるくらい全力で、私は保健室から逃げた。


ばくばくばく、心臓がうるさい。けれどそれは殺されるんじゃないかなんていう恐怖じゃないことはよくわかっていた。

先生が、あまりにも、あまりにも性的で、身体を委ねてしまう自分が見えた。呑まれてしまいそうだった。
濃い霧に覆われていくように、磁石が狂って目の前の先生しか見えなくなるような、幻想的な世界に酔ってしまいそうな自分が、とても、とても怖かった。

こんなにはっきりと、性を感じたのが初めてだった。
いままでクラスメイトや先輩を好きだと思った時のドキドキと、全然違っていた。
身体の奥が、どくんどくんと熱くて、腕が、脚が、何もかもが、いうことを聞かなくなりそうだった。真っ白な蛇の赤い瞳で、羞恥心を教えられたイヴのように、自分の身体を女だと、初めて意識した。
澁澤先生にそうされてしまったのだと、自覚せずには、いられなかった。



それから私は見事に熱を出して、テストはまるまる追試になった。
たまに通りがかる澁澤先生を見ると、思わず避けてしまうから、言葉は交わさなかったけれど、こんなの意識しているのがばればれだ。
もう、男子は誰もカッコよく見えない。肩を組んでも顔が近くても全然何も感じなくなっていた。

澁澤先生のことが気になって仕方がなかったけれど、そんなの信じたくなくて、一生懸命気づかないふりをした。



つづく