館の主人(あるじ)


「君はいつになったら私の女になるのだ」

そういいながらこの屋敷の主人は今日も、深いソファーに腰掛け長い脚を組んでため息をついた。

そう言われても私はただの侍女なので、貴方の妻になる気はない。この屋敷や貴方にはもっとふさわしい女性がいるから。と遠慮する気持ちはそっと隠して「そんな風に言われましても私は貴方が幼い時からずっと侍女の娘、そして今は貴方の侍女ですので」と返した。
この人は、なんでも知っているようで恋という感情には疎い。私の恋心に全く気づかないところは昔から変わらない天然だと思う。

「共に湯に浸かっていたあの頃に無理矢理でも君を奪えば良かった」
「幾つの時の話ですか。十にもならない子供たちが身体を預け合うなんて怖すぎます」
「付き合いが長い。君は侍女というより家族だ」
「ふつう家族に手は出さないでしょう」
「私より口が上手いのが気に食わない」
「貴方がいつまでも坊ちゃんなんですよ」

そう話しながら、彼の長い髪を高い位置で結える。今日は仮装パーティーらしい。
退屈だ、つまらない、と言いながら定期的に人を招く彼は、富の象徴というよりは、ただの寂しがりで、人好きなのだろう。

ふわふわの羽のついたコートを羽織り、長い髪はリボンで留めたいという主人は幾つになってもお洒落だ。自分でやらずに甘えるところはいかにも貴族様で、私はこの身分差に少し安心している。
彼のような人間こそが上流階級であるべきと思うからだ。こうして華を添える仕事をまかせていただけているだけ、私は幸せ者なのだと思う。

けれどこの見た目と性格ともなると、彼を狙う女性も一人や二人ではなかった。何人もの貴族の女性が泣いて去っていくのを私は常に見届けていた。妬いていないと言えば嘘になるけれど、彼の身分はそういうものだと受け入れてきたので特段辛くはない。
しかしながら、この節操なしに今さら抱かれるのもしゃくではないかと思うのは、私が彼への思いのせいで未だ処女であることが理由だし、長年隣にいた主人は主人らしくそれはもうしょうもない手練れに成長している。

こんな男に抱かれたら、きっと妻になりたくなってしまう。一度触れられたら私が独占欲に支配されてしまう。もう私以外、誰にも触らないでと願ってしまう。
彼のためにも、それは許されない。

「時に、なまえ」
「みょうじとお呼びください」
「私のものをどう呼ぼうが私の勝手だ」
「貴方の世話をする機械であって人ではございません」
「君も昔はたっちゃんと呼んでいた」
「さて、そうでしたか」
「なまえ、いい加減諦めたまえ」

髪を梳く私の指に指を絡める私の主人。
いつものことだけれど、ドキドキしないわけではない、から、平常心を取り繕うことで頭がいっぱいだ。

「君を抱きたい」
「まだ朝ですよ」
「一日中君の身体をまさぐり穿つ事ばかり考えている」
「口説き文句が露骨です。これからいらっしゃる淑女にそういうのは言わないでくださいね」
「私がこれほど言葉を選ばずに話すのは君だけだ」
「他にもいますよ」
「現に今まであらわれなかった」
「きっと次です」
「なまえ、私は気づいたのだ」


君を超える女などいない。


そう言って腕を引かれ、指先に唇をあてられた。形のいい唇が、水仕事でささくれだった
私の指に優しく触れる。
表情は見えないけれど、どうせこの人のやる事だ、ニヤニヤ笑っているに違いない。
パッと手を振り払い、結えた髪をぎゅっと締めてその場を離れる。

「本当に、可愛らしかったたっちゃんも、小慣れたご主人様になられました」
「君のために覚えたのだ」
「そのまま既成事実でも出来てしまえば、跡取りも産まれた事でしょうに。貴方の子ならきっと可愛いでしょう。早くこの手に抱きたいものです」
「ああ、君に似て可愛らしいに違いない」

相変わらずこちらの動揺に気づかない様子でからかってくる彼に背を向け、クローゼットの中の整理をしていたけれど、心臓が飛び出しそうで眩暈がしていた。

「なまえ」

尚も気軽に私を呼ぶ彼の声が、いつもよりワントーン低くなる。
はい、と振り返ると、館の主人は立ち上がり、相応のオーラを纏いながら、「あと一年」と言った。

「私はいいだけ待ったし主人としての務めは果たした。一年後、私の妻になりたまえ」
「それは命令ですか?正妻は不可能です。私は爵位を持ちません。妾の子ではご子息が苦労なさいます」
「そうではない、私は君を愛している。君に手を出さずにいるのも君を大切にしてきたからだ。叶うものなら今すぐこの場で味わってしまいたい」
「私はそれ以上に貴方の血筋とこの家を大切に思っています」
「私を好いているかと聞いている」
「私は侍女です。旦那様に感情は持ち合わせません。ちゃんと世継ぎをお作り下さい」
「君がいれば子などいらない。世継ぎも一族にも興味はない。君とこの屋敷を滅ぼす運命を背負って構わないと思っている」

いつだったか彼は、社交界で真っ白い礼服を用意させた。古い知人と禁断の果実を嗜み知恵を交えて興じた夜。
あの日とは真反対の漆黒に身を包み、私に命じる彼はあまりにも、美しく、強かった。

「あと一年」彼は繰り返した。

「私ももう二十九だ。いい加減身を固めなければ周りが煩い、というより狙われるのが煩わしいのだ。だからね、なまえ」
「…なんでしょう」
「一年のうちに、君を私のものにする。時に君は、その身体を生涯一人の男に捧げると決めているようではないか」
「…どこからその話を」
「君の身体を見ていればわかる」
「本当にしょうもなく育ちましたね」
「つまり私が君を奪えば、君は私に決めざるを得なくなる」
「いま、襲われる話を聞かされていますか?」
「ああ、その通りだ」
「ご冗談を」
「私は本気だよ。だが」

主人は一歩、距離を詰めた。
彼は足が長いから、一歩が大きい。

「折角ここまで耐えたのだ。どうせなら君の口から強請られたい。それに、そうしたら、私は地位を利用した強姦ではなくなる。君の同意だ。そうだろう?」
「絶対に同意は致しません」
「さて、どうかな。私に口説かれて靡かなかった女はいない」
「私が貴方の 特別 なら尚更、靡くわけにはまいりません」
「君を口説き落としたいのだ、なまえ」

壁に追い詰められ、道を塞がれる。
私は彼を見慣れているから、淑女らのように戸惑ったりはしない。
けれど、ああ、やはり、なんて綺麗なお顔なのだろうか。アルビノと呼ばれる遺伝子を持つ彼は、本当に、人の美しさを超えている。とても高貴で、しょうもない少年だ。
そういうところが、昔からずっと好きなんだ。

「私は靡きません。貴方のことが大切ですから」

そう言って、にっこり笑うと、彼は私の額にキスをした。
「まず一口」そう言って次は頬にキスをする。

「今日はここでやめておこう。焦らさなければ意味がない」

舌舐めずりをして、赤い瞳が、蛇のように私をじろりと射抜いた。そうして主人は、私に背を向けて歩き出す。

カツカツ鳴る靴の音を見送りながら、彼の背中が見えなくなった頃、私は崩れるようにしゃがみこんだ。

今まで一度も肌を触れさせたことはなかった。いつかそのまま終わると思っていた軽口を、これから本当に、現実にしていこうとしているのだろうか、彼は。
ずっと届かなかった彼に手を伸ばして良いのだろうか。いいやそれは許されない。私は彼を、侍女として守らなければならない。
なんていうのは表面的な言い訳で、彼が今までつまみ食いした女性たちのように、飽きて捨てられるのが怖い。私はずっと、彼に手が届かないままでいい。一線は、超えてはいけないのだ。

嗚呼、願わくば、この心音がばれてしまう日が来ませんように。
私は貴方を、今までも、これからも、ずっと愛している。



唇を寄せた本人は、ひどく余裕なさげに赤い顔をして、招宴に赴いた友人らにからかわれていた。なんて話は、知る術もなかった。