送り梅雨

雨、雨、雨。



大豪雨。放課後。
ふと見たらまた、傘を盗まれていた。よくある。私は傘を盗られやすい。もう4本目くらいだろうか。運が悪いのだろうけど。

これは多分通り雨なのだけど、私は学校が嫌いだから一刻も早くここから出たかった。ずぶ濡れになって電車の中でくすくす笑われるか、ここで雨上がりを待って陰鬱な気分を増すはめになるか、悩んでいても相変わらず雨の強さは変わらない。

はぁ、と息をついて空を見上げる。大きな雨粒を睨みつけながら、覚悟を決める。
まぁ、風邪なんかひかないだろう。

水の張ったアスファルトに一歩、片脚を踏み出してみた。自ずと進んだ肩に冷たい雨粒がじわっとシャツに滲みる。
でも、キャミソールを着ているし、透けない、きっと、大丈夫。


「せーの」


大きく息を吸って、息を止める。
それから、身体ごと大きく屋根の外へ踏み出した。


「ーーーーーー」


ボツボツボツ
布を叩く雨音が弾ける。



「…………?」


私は、雨に濡れていなかった。

背後から「馬鹿者」と声がして、私の頭上だけ、雨が止んでいることに、気づく。


「……澁澤…せんせい」
「君は己に与えられた器の脆弱さを理解できていない。女の身体は冷えに弱い。死にたいのなら止めはしないが中途半端に私の仕事を増やすな」


後ろに立っていたのは、この学校の保険医だった。保健室の外でも白衣を着た保険医と、真っ黒な傘の下。
大きな傘だけれど、澁澤先生の毛先は濡れていた。私を入れた分、先生がはみ出ていたから。


「…いりません」
「私には車があるが、君を送り届ける義理はない」
「この傘、高そうだし」
「ああ、君からすれば高価いだろうな。私には端金だ」


澁澤先生は、割と嫌味な人だった。
怪我をしても熱があっても家に帰るか教室に戻るかを強いられる。だから、保険医だけれどあまり好かれていない。
処置は完璧で診断は間違わない。それが保護者にうけるらしいけれど、生徒からは、「顔はいいけど性格が悪い」「女生徒も女教師も食ってる」なんて噂もあり、男女ともに、先生たちにも、あまり、受け入れられていなかった。

だから今、私に傘を差し出したのも言葉通り業務を増やさないためだなと、わかった。
きっとこの人には、私が明日授業中に発熱を訴える光景が、みえたのだろう。


「返さなくていい。人が触れたものに興味はない」
「気に入ってるなら尚更、受け取れません」


面倒な人に絡まれたな。
そう思いながら、傘の下から一歩踏み出そうとしたら、ぐいっと腕を掴まれる。


「女生徒も女性教師も食っている」そんな噂を思い出し、不意にどきりと心臓が跳ねる。
先生をそんな風に感じた自分にも、動揺した。目の前にいる「嫌味な教師」が一瞬「男性」に見えてしまったから。


「君は雨をどう思う」


私にかまわず、先生は問いかけてきた。
驚いた。この人は、雑談なんかしない人だと思っていたから。


「えっ……嫌いです」
「何故」


先生に腕を掴まれたまま、言葉を交える。
そんなに掴んでいなくても逃げたりしない、と言いたいけれど、逃げてしまいたくてたまらなかった。
「あの赫い眼を見てはいけない」そんな話も、皆が知っている。だから、顔を上げられなかった。早く会話を終わらせて、この場から去りたかった。


「…空が暗いし、頭も痛むし、濡れるし、湿度も不愉快だし、雨は嫌い」
「君は雨空の魅力を理解できないのか。嘆かわしいな、感受性が死に絶えている」
「濡れて帰るのも、初めてじゃないし平気です。先生が風邪引くっていうなら、明日は朝から休みますから」
「そうか。ならば尚更この傘が必要だな」
「どうして」


「不快な雨が降る度に、私を思い出すからだ」


そう言うと、強い力で引き寄せられた。
思わず顔を上げてしまった。赫い目が私を覗き込んでいるのを、至近距離で受け止めた。
人ならざる色はとても異質で、燃えるように、真っ赤で、射抜かれて、動けない。
どくんどくんと、心音だけが傘の下で響いている。


「私のお気に入りだよ。大切にしたまえ」


雨音にかき消される小さな声で、先生は、耳元でそう囁き、私を突き飛ばす。

私は持たされた傘と一緒に雨の中。先生が時計を見る仕草で、電車の時刻を思い出す。
急がないと、間に合わない。

けれど体が動かず、呆然と立ち尽くす私の横を、ぴしゃりぴしゃりと濡れながら通り抜けた先生は、あっという間に車で校門を出て行った。







「…………どういう、意味…」



気づいた頃には、大雨が通り過ぎて、晴れ間がさしていた。
下校していく人たちが、傘をさしたままの私をくすくす笑っていたけれど、もう、どうでもよかった。

雨粒が消した言葉を、忘れられずに傘が畳めない。

嫌な思い出は、私の初恋になった。
雨の記憶。きっと雨が降るたびに、雨音が掻き消したはずの言葉を思い出す。



「君は私のお気に入りだよ。身体は大切にしたまえ」