────ふとした時に、わたしは一体何のために生まれてきたのだろう、と考えることがある。
 それは朝に目が覚めて二度寝をしたい自分と戦っている時や、雨の降りしきる音を聞いている時だったり、はたまたぼんやりとシャワーを浴びている時、そして月のない夜に一人きりのベッドで膝を抱えシーツに包まっている時に、答えの出ないその謎を考え込んでしまう。
 そして今まさに、ぐるりと取り囲む少年たちを前にしてわたしの意識は思考の海にどっぷりと沈んでいた。

「おい、聞いてんのか?」
「俺たちの言ってることがわかんないんじゃねえ?」
「バカだもんなーお前」

 ゲラゲラと下品な笑いが耳に入り込んで、ようやくわたしは我に返った。目の前には同い年の少年三人、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら低レベルな罵詈雑言を投げかけている。いつも通りの日常、何ら差し支えない光景を前に特筆すべきリアクションもせず手元の分厚い本へと目を落とした。そうすると彼らは無視されたことに腹を立て、だんだんと声量が上がり半ば叫ぶように罵倒を寄越す。

「おい!無視してんじゃねえよ!」
「ウスノロのくせに生意気だぞ!」
「このっ、」

 その耳障りな声も無反応に徹してしまえばうるさいBGM程度にしかならない。そうして再び活字を追い始めて数秒後、決して口が達者とは言えない少年たちは強制的にわたしの意識を向けさせることにしたらしく手元の本をバッと取り上げた。一瞬の間を空けて、本の行方を追うように視線をあげる。得意げな顔でこちらを見下ろす彼らはどこからどう見ても頭の悪い餓鬼でしかなく、漏れ出そうになったため息を無理に飲み込んだ。

「わたしに何か用?」
「うるせえ、いつもいつも平気な顔しやがって」
「バケモノのくせに」
「気持ち悪いんだよ!」

 呆れを含ませた声を初めて発せばその三倍の罵倒で返ってくる。彼らはこうやって時折わざわざわたしのところへやってきては幼稚な罵倒を吐き出し、しばらくすると満足して去っていくのだ。子供達の中でも一際浮いていて孤立状態にあるわたしは憂さ晴らしにちょうどいいのだろうということは理解できる。が、納得はできない。黙って無視するのが一番いいのはわかっているけれど腹が立ってしまうものは仕方がないと思う。
 積もりに積もった苛つきが頂点に達し、今度こそ実際にはあ、と溜息を一つ。三人のうちリーダー格である男子を見上げ、これ見よがしに吐いた溜息を聞いてヒートアップしかけた罵倒を遮るようにして重い口を開いた。

「そんなにわたしのことが好きなら花の一つでも持って来てもらえる?」
「な、はあっ!?」

 ピクリとも表情を変えず、静かに煽りを含ませてそう返す。リーダーの彼は瞬時に顔を真っ赤にさせたかと思えば、わなわなと全身を震わせ、バッカじゃねえの、と大声で怒鳴った。怒鳴ると言うよりも絶叫といった方が正しい程の声量に思わず耳を塞ぐ。何やらわけのわからないことをぎゃあぎゃあと喚き散らし、うるさいと言えば更に声量と勢いが強くなる。頭に血が上りすぎたのか、彼はついに実力行使に躍り出た。突然思い切り髪を引っ張られ、その鋭い痛みに思わず上げそうになった悲鳴を無理に咬み殺す。彼の両隣でリーダーの剣幕にぽかんとしていた男子二人もすぐに我に返り同じようにわたしの髪をぐいぐい引っ張り始めた。力の加減を知らない男子三人がかりで引っ張られ、流石に漏れ出てしまった悲鳴をこれ以上聞かせてなるものかと唇を噛んで押し留める。悲鳴なんて彼らをさらに調子付かせるだけだ、何よりわたしのプライドが許さない。やめてと言ったところでやめるはずもなく、笑い声とともにむしろ更に力が強くなり、ぶちぶちと何本か髪が抜ける音が聞こえてついにわたしの堪忍袋の緒も切れた。必殺の一撃、金的をお見舞いさせてやろうと力の限り振り上げた足は、突如聞こえたわたしのものではない悲鳴とともに空を切る。
 蹴りが炸裂する寸前に髪から手を離した彼らは何故か大きな悲鳴をあげながら一目散にどこかへと走り去っていく。不安定な体制のまま足を蹴り上げたせいでわたしはぐらりと体勢を崩し、その場に勢いよく尻餅をついてしまった。

「いったあ……」
「酷い有様だな」
「─────トム」

 しこたま打ち付けた腰を摩り呻くわたしに声をかけたのは、地面の草を踏みしめて木陰から姿を現した少年。漆黒に濡れた髪と同じ色をした瞳を持つ彼はその酷く作り物めいた美貌に呆れたような表情を浮かべていた。しゅる、と音を立てわたしの足元から滑るように彼の元へと向かったのは一匹の蛇。先ほどの彼らの悲鳴はこの蛇によるものだろう。蛇を自身の腕に巻きつかせた少年は愛でるようにその頭を指先で撫でているが、大半の子供は突然蛇が現れたら悲鳴を上げ逃げるに決まっている。
 彼は一切気にすることなくその蛇が巻き付いた方の腕をわたしに差し伸べる。すっかり蛇に慣れてしまったわたしは蛇の黄色い目に見つめられながら、その手を取った。ありがとう、とお礼を口にすると彼は不機嫌そうに薄い唇を歪める。

「いつも言ってるだろ、なんでやり返さないんだ」
「いつも言ってるでしょ、めんどくさいの」

 パンパンとお尻についてしまった汚れを払い落とし、男子三人組のせいで乱れに乱れ切った髪を手櫛で整えながら言い返せば彼の唇は更に歪み、整った眉根には盛大にシワが寄せられる。その形相を横目に落ちてしまった本を地面から拾い上げた。どうやら男子たちが逃げ去る時に踏まれてしまったらしく表紙には大きな靴跡がくっきりと残されていた。どうにか土を落とせないかと払ってみるもうまくいかない。あとで布か何かで拭くしかないなと考えていると、聞いているのか、と文句が聞こえてくる。

「全然聞いてなかった」
「そんなことだろうとは思ったよ」

 はあ、と盛大にため息を吐いた彼は腕を組み、コツコツと靴先を規則的に鳴らし始め、いいか、と少しばかり低い声を出す。ああ、また始まった。

「だいたいおまえはいつも*********────」

 こうなると彼の『お話』はとんでもなく長くなる。この説教癖には困ったものだ。わたしが八割方聞き流していることに気づいているはずなのに、それは一切止まらず文句と説教と嫌味がマシンガンの如く繰り出される。なまじ頭がいいだけによく回る口は彼が満足するまで聞いてやるか、横槍を入れて話題を変えるしかない。後者の成功率は五分五分なうえ失敗した時説教が長くなるという諸刃の刃だが、今は彼の長い説教を聞く気分ではない。今回は成功しますようにと祈りつつ口を開き、そして目の前が唐突に眩むと同時に世界が止まった。

 ─────降りしきる雨の中、慌てた様子の黒髪の子供二人が手を取り合い走り、やがて見えた『ウール孤児院』と看板がかかっている古い建物の中へと玄関扉を潜る。少し濡れたねと少年に振り返った少女は、まるで太陽を極限まで煮詰めて閉じ込めたような、もしくは星をとろりと溶かして流し込んだかのように光を纏い輝く金の瞳を瞬かせた─────

「……トム、中へ入ろう」
「人の話はちゃんと聞け」
「雨が降るよ」

 開いた口が静止したのは一瞬の間、コンマの世界。止まった口を動かす前に僅かに息を吸い、彼の名を呼べば、垂れ流されていた彼の言葉はわたしの瞳に移った視線とともに止まった。

「早く行こう、本も持ってるし濡れたら大変」

 そう口にしたのと同時に、鼻先に雫が垂れた。反射的に空を仰ぐとロンドンの今にも泣き出しそうな曇天からポツポツと糸のように雨粒が落ちてくるのが見え、言わんこっちゃないとつられるように空を仰ぎ見ていたトムの手を掴んだ。
 さほど大きくない庭とはいえ、誰にも会わないように端の端、出入り口から最も遠いところに陣取っていたのがまずかった。窓は中から出るならともかく外からでは窓枠が高すぎるし脱走しないよう鍵がかかっているはずだ。小雨程度に降り始めた中、本を小脇に抱え玄関へと走り出した後ろからトムの声がかかる。

「玄関より近い裏口の方が早いんじゃないか?」
「だめ、多分入れない」

 本来ならここから真反対の玄関を目指すよりもだいぶ近い裏口に向かうべきなのだろう。現に、建物に近いところで遊んでいたらしい何人かの子供はわあわあと声を上げながらわたしたちとは真反対の方向へと駆けていく。だけど、裏口に向かってはならない。玄関から中に入るのが最善なのだと、わたしは『知っている』。
 そう断言したわたしの言葉にトムはそれ以上何も言ってこなかった。彼もまた、こういう時のわたしの判断は正解なのがと知っているからだ。
 わたしよりも足が速く、その上足の長さでも勝っているトムがいつのまにか横に並び、手を引かれる側に逆転した頃にようやく玄関から中へと滑り込んだ。脱走対策とはいえ出入り口が二つしかないのは如何なものか。先に中へと入ったわたしは重い扉を閉めたトムへと振り返り、息をつく。

「少し濡れたね」
「ああ。……本は?」
「これくらいなら平気。乾かせる」

抱えていた本は湿ってしまったけどこれなら天日干しか、最悪ドライヤーでなんとかなるだろう。トムは僅かながらも濡れてしまったらしい蛇を自身の袖で拭ってやっていた。お前まだいたのかとその様子を眺めていると、やがて小雨から本腰を入れて土砂降りになったのがよくわかるほどにザアザアと雨粒が地面に叩きつける音が外から響く。バケツをひっくり返したような、という表現がしっくりくるほどの激しい雨音に紛れ、数人の悲鳴と足音が聞こえてきたかと思えばやがて玄関扉が開かれ先ほどすれ違った子供達がずぶ濡れになって転がり込んできた。
 裏口に向かったはずの彼らが時間差でわざわざ玄関までやってきたのは、やはり裏口からは入れなかったからなのだろう。床が雨水や泥で踏み荒らされ汚くなったのを見て顔を顰めたトムの横で濡れ鼠と化した子供達をなんとなしに眺めていると彼らはその場に先客がいたことに気がついたようだった。子供たちの中でも一等幼い、確かつい先日ここにやってきた新人の女の子がわたしを見上げる。こうやって面と向かって会うのは初めてだなと名前も知らない(正確には覚えていない)子の顔を眺めていると彼女の綺麗な碧眼がわたしの目を捉え、溢れんばかりに見開いたかと思えば、ひっ、とか細い悲鳴を小さな唇から絞り出した。
 あ、しまった、とその子の幼い顔が恐怖に染まっていくのを見つつ内心舌打ちを零し、唐突に視界が闇に染まる。顔がぬるい温度で覆われていると感じ取るのよりも先に見えない力で思い切り後ろに引き寄せられ、驚いてたたらを踏んだのと同時に背中が何かにあたり、転ぶのを防がれた。

「────何の用だ」
「え、あ、」
「見世物じゃあないぞ。僕らに近づくな、新入りならよく覚えておけ」
「ひっ……」

 機嫌の悪い、脅すようなトムの声が頭上、というよりは斜め上程度のところから聞こえ、顔を覆っていた何かが離れ視界が戻ってくる。一瞬、目に涙を溜めこちらを見上げている少女と、その背後で恐怖か嫌悪感からか顔を青白くさせた子供達が見えた。しかしすぐさま強引に身体を180°回転させられたかと思えば、恐ろしく冷えた無表情のトムが映り、手を引かれてその場から足早に離れた。
 トムの子供嫌いの餌食となったあの子には悪いことをしたなあと思っていると、冷たい怒気が掴まれた手から伝わってくる。これは顔を見なくてもわかる。確実に、怒っている。説教どころの話ではないなとこれから起こるであろう事実に意識が遠くなる。しかしトム・リドルと簡素な札がかかっている古ぼけた部屋の扉が荒々しく開かれた音で我に返り、そして軽く絶望した。

「……ご、ごめん」
「…………

 先手必勝とばかりに口をついて出た謝罪はゆっくりと振り返ったトムの無表情に打ち砕かれた。美人の真顔は恐ろしい。だいぶ、いやものすごく怒っている。しどろもどろになったわたしが口ごもっているとトムは肺の空気を全て吐き出したような大きな大きなため息を吐いて自身のベッドに腰掛ける。それに倣い隣に腰を下ろしトムの様子を伺ってみる。

「ごめん」
「……理由はわかってないんだろ」
「うん。でもトムが怒ってるのはわかるから」

 ごめん、ともう一度謝れば、彼は無表情を消し、いつも通りの呆れ顔を浮かべた。心臓が冷えるほどの怒気が消えたのがわかり、脳内でホッと胸を撫で下ろす。膝に肘を乗せ頬杖をついた彼の青黒い目がわたしを捉える。

「まだ戻ってない?」
「ああ」

ふうん、と相槌を打ちながら逸らさずに彼の目を見つめ返す。そこにあるのは深い闇だ。奈落の底を思わせる瞳には、少女の顔が歪曲して反射している。トムの瞳を見つめているわたしを見つめ返す黒髪の少女の瞳。それはぼやけた輪郭の中でも爛々と輝く黄金色。ありふれた造形の顔にはアンバランスなその瞳は矛盾した神々しさと不気味さを内包していた。
 例えるならば、人間の顔に無理矢理宝石を嵌め込んだような、酷く目を惹く金眼は、私が瞬きをしたことでくすみ、平凡な黒に変化する。正確に言えば黒では無いのだが、とにかくその変化を見届け残念そうな顔をしたトムは目を離し、わたしはベッドに腰掛けたまま背後に倒れこんだ。

 ────さて、遅ればせながら自己紹介を。
 わたしの名前は#シャロン#・#ランドール#。今年で十一歳のイギリス人だ、多分。………自分のことなのに曖昧な紹介しかできないのはわたしが十年間暮らしたこの場所にも関連する。

 ここはロンドンにあるウール孤児院。わたしは一歳の時にこの施設に捨てられ、以来ずっと孤児院暮らしだ。親の顔なんて知らないし、誕生日すらもわからない。だから厳密にはイギリス人ではないかもしれないのだ。自身の名前しか知らないわたしは、埃臭いベッドとくたびれた洋服、味気ない質素な食事、そして心に影を背負った子供たちと共に生きてきた。
 しかしどこか暗い部分を持つ子供の中でもわたしは特に浮いていた。自分の性格を客観的に分析するとしたら、よく言って大人っぽい、悪く言えば子供らしくない子供だと思う。いつも無表情で周りの同じような年頃の子供たちを冷めた目で見ている、なんて子供も大人も気味悪がるだろう。流石に自覚しているけど馬鹿みたいにはしゃいで大笑いしたり、仲良くお人形遊び、なんて冗談じゃない。そういうところだぞというのはちゃんとわかってるからそっとしておいてほしい。
 
 そんな気味の悪い子供は運の良いことに────悪いことにわたしの他にもう一人いた。それがこのトム・リドルである。子供ながらまるで人形の如く精巧な顔立ちをしていただけでも目立っていたが、頭脳明晰で運動神経も抜群だと昔は神童扱いされていた。しかし、天に二物どころか三つ四つも与えられたからなのか、彼は唯一にして最悪の欠点を持ち合わせて生まれてしまった。
 トム・リドルという子供は、心が酷く冷え切っている。今思い返せば、あの頃はとても冷たい氷のような目をしていたように思う。心からの笑みなんて一切見たことがなかった。

 ────彼の奥底に冷酷な心があるのだと初めて判明したのは、確か五歳の夏だった。あまりに目立つトムが気に食わなかったのだろう、一つ年上でガキ大将のように振舞っていた男子がトムにちょっかいをかけだしたのが始まりだった。日常的にすれ違いざまに肩をぶつけ、足を引っ掛け、物置に閉じ込め、食事に虫を混入させ、罵倒していた。その男子は体格だけは立派なものだったため、子供達は誰もがその嫌がらせを見て見ぬ振りをしていたし、大人は意外と気づかないものだった。
 しかし何をやっても眉ひとつ動かさない冷めた様子を見てついにキレた彼は、室内で本を読んでいたトムをカッターで脅したのだ。今までで最も過激な手段を行使した男子とそれでも表情を変えないトムの緊迫した空気にその場に偶然にも居合わせてしまったわたしは固唾を飲んだ。本来なら止めるとか大人を呼びに行くだとかしなければならないと思うが、ちょうどそこにいた唯一の観戦者であるわたしはそんなことをして目立ちたくないし、正直いつものやつか、あの男子は小心者だし大事にならないだろうと傍観を決め込んでいた。この判断は間違いだったとのちに分かることになる。昔の記憶なんて大体が忘れているか曖昧にしか覚えていないものだが、この時の記憶はとても鮮明だ。あんな衝撃的な事件、忘れもしないだろう。

「……それで?」

 自身に向けられたカッターを見て、トムは初めて彼に向かって声を発した。いつも通りの無表情でただ一言、鈴が転がるような声で煽られた男子は唇を噛み締め、そしてその手を振った。むき出しの刃がトムの白い頬を滑り、赤い筋が残る。やがてぷくりと血の玉が溢れ、顎へと滑り落ちた。僅かとはいえ流れた血を見て青ざめていた男子は取り繕うように無理矢理笑みを浮かべ鼻を鳴らすとカッターをトムの足元に投げた。彼は何か捨て台詞を吐き、踵を返して部屋から出ようとする。
 流石に心配になってトムを見ると、彼は俯き自身の足元に投げ捨てられたカッターを数秒見つめ、顔を上げる。彼の唇が歪んだ笑みを湛えていることに気づいた瞬間、それは起こった。

 ──────おい、という軽やかでどこか楽しげな声に振り返る少年、それに向かって勢いよくカッターが飛び込む。風を切る音とともにカッターは少年の半ズボンから覗く剥き出しの腿にいとも容易く突き立てられた。一拍遅れて上がる絶叫。ふらりと少年に近付いて刺さったままのカッターを抜き取ると、だいぶ深く刺さったのだとわかる量の血飛沫が上がる。視界を染める赤が心地よくて、もう一度、今度はより深く、と今度は自身の手にカッターを握り込み思い切り振り上げた。しかし刺さる寸前に何者かに押し留められ、反射的に背後を振り返る。見えたのは、カッターを手にした腕を思いきり引き寄せている少女の困惑しきったような顔、その瞳のうつくしいきんいろ──────

 ハッ、と自身の息を飲む音で我に返る。今、突然頭に流れ込んだ情景───否、『視た』情景に混乱をする間も無くトム・リドルが男子に音もなく近寄るのを視認し、反射的に一歩踏み込んだ。
 彼が男子に声をかけると共に床に落ちたままのカッターが宙に浮き、一直線に男子の足へと飛ぶ。それは彼の太腿にぶっすりと突き刺さり、絶叫と共に崩れ落ちる少年のそばにトム・リドルが膝をついた。何の躊躇いもなく抜かれた刃の鈍色と血の赤がパッと視界を占め、悲鳴と錆びた鉄の匂いが強くなる。そして、高く振り上げられた腕が落ちる寸前、わたしは勢いよくその白い細腕に抱きついた。
 バッとこちらを振り返った彼は昏い色の瞳を爛々とぎらつかせ、わたしの顔を視界に入れるとそれを限界まで見開かせた。数秒その体勢のまま見つめ合い、下からうめき声が耳に入ったことで我に返る。男子は血が流れ出す足を抱え、涙を流し呻いていた。無意識のうちに血が溢れ出す腿の傷口を強く抑えつけると手がぬらりと温い血に塗れ、嫌でも鉄の匂いが鼻につく。

「きみもやって」
「は、」
「早く、人が来る」

 心底意味がわからない、と言いたげな顔をした彼に怒鳴れば意図を理解したのか素直に血に濡れた足に手をやる。廊下の向こうから、数人の足音がバタバタと近づいて来るのがわかった。

「今の悲鳴は───!」
「先生、彼がカッターで怪我をしたんです。血が止まらなくて…」
「なんてこと…!ジャック、大丈夫ですか!?」
「ミセス・コール、一体何が…」

 駆けつけた大人に切羽詰まった様子で声を上げれば、顔をさっと青くした彼女たちこちらに駆け寄り、蹲る男子の容体を確認する。その騒ぎに大人たちが集まり、ジャックと呼ばれた男子は大人に抱えられ病院に行くことになった。
 そして残されたのはわたしとトム・リドル。もちろんすぐに犯人なのではと疑われたがよく回る舌で彼がカッターを振り回していたらそれがすっぽ抜けて足に刺さった、というギリギリな嘘をでっち上げた。それらしく理屈を説明し、元々男子が凶暴だったこと、二人に付着した血液は止血を試みた際のものだと説明できたこと、凶器のカッターが彼自身のものだったこと、なぜかトム・リドルの頬の傷が治っていたこと、そして何よりいくら大人びているからといって五歳の子供が人を刺すはずがないとされ、晴れて無罪放免。男子は運悪く刺さった場所が不味かったらしく、片足が動かせなくなってしまったらしい。そのまま入院し二度と戻っては来なかったために真相は闇に葬られた。

 これがトム・リドルの本性が露わになった事件であり、わたしたち二人がそれまでとはまた違う意味で異質な存在であることを認識した事件でもあり、何故か仲間意識を持つきっかけにもなった事件だ。

 ────率直に言おう。わたしたち二人は不思議な超能力を使うことができる。厨二病?と思うかもしれないが真実だ。実際最初は何だか不思議なことが起きるなあとしか認識していなかった。超能力といっても大それたものではない。せいぜい手を触れずにものを動かしたりする程度、その上完全に制御できているとは言えない。ブチギレた時に室内の窓全てが割れたり、ピンチに陥った時に目を瞑ったら違う場所にいたりとそういう究極の事態では大きな力が作用する。こういうものは大体共通してできることだが、それとは別にわたしたちはお互いが真似できない能力をそれぞれ持っていることが後々判明した。

 トムは蛇と会話することができる。彼は蛇の言葉を理解し、蛇の言葉を話すのだ。わたしにはどちらもシューシュー言ってるようにしか聞こえなかった。もともと爬虫類は好きだったらしく、蛇と会話ができることが判明してからは蛇と接することが多くなった。おかげでわたしも蛇に対する感情は消え失せた。可愛いとも思わないし怖いとも思わない。ついでに言うとトムは能力のコントロールがとても上手で、度々それを利用して気に食わない相手に過激な嫌がらせをしている。中でも特にとある男子が可愛がっていたウサギを首吊りにしたのは酷いものだった。トムが意図的に吊るしたのかはわからないが彼はそう言うことを平気でやる子供だ。サイコパスといった方がいい。

 そしてわたしは、簡単に言うと未来を視ることができるのだ。これだけ聞くとすごい能力のようだが実際はそうでもない。自分の意思で視ることはできないし、視えたとしても、室内で本を読もうと考えていたら外で日向ぼっこをしてると虹が出て四葉のクローバーが見つかる、というのが視えて外に出てみるとその通りになった、くらいのしょぼいものだ。それにいいことばかりではなく悪いこともわたしの意識関係なく視てしまうのだから厄介なものには違いない。
 そして何より、何故か未来を視ると、眼の色が金色になってしまうのだ。元々は限りなく黒に近い青色なのだが『視た』のと同時に金色に光り、数秒から数十分そのままとなる。視た内容によって長さはまちまち、理由はわからない。今までで一番長かったのは最初に視た例の事件の時。一時間も戻らなくて苦労したのを覚えている。トムにはバッチリ見られていたけどそのあとは演技のためになるべく俯いていたし、大人たちはジャックのことで頭がいっぱいだったようで特に何事もなかった。
 しかし金色の状態の目はかなり異質で目を惹くらしく、なるべく人に見られないようにしている。が、自分では金眼状態の自覚はなく、どれくらいで戻るのかすらわからないため視た直後は自室に篭ったり人と目を合わせないようにしたり、今は対応策として前髪を伸ばしている。あとは唯一事情を知っているトムのそばにいるとか。
 そのトムはわたしの金眼を大層気に入っている。金眼状態になったのが見つかると元に戻るまでひたすらに見つめられる。もう今では慣れてしまったからいいものの、初期は居心地の悪さで大変だった。大変と言えば、彼はコレクターの気があるらしく、自分の気に入ったものは自分の手元だけで愛でていたいそうで金眼をトム以外の誰かに見られると不機嫌になり、タイミングが悪いと怒られる。こんなに美しいものをあんな凡骨どもに見せるなんてとんでもないとかなんとか言われた気がする。トムの顔の方がよっぽど美しいしもったいないと思うけど。

 ────黄ばんだカレンダーにつけられたバツ印が今日の日付を教えている。七月のページ、バツがつけられていないのは二十五日。ベッドに横になったまま夏らしくない雨模様だと、ザアザアと雨が吹き付ける窓の外を眺める。最近感じる妙な胸騒ぎはなんだろう。日が経つにつれ、だんだん大きくなっていく居心地の悪さは今にも破裂しそうな風船を持っているかのよう。嫌な気配ではない。が、良いものでもない。まったく見当もつかない胸騒ぎを生ぬるい空気とともに秘めて、わたしはそっと目を閉じる。

 何も知らない私たちの元に青い目の魔法使いがやって来るまで────────あと、一日。

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