曇天



 ただぼんやりと、窓際に置いた硬い木の椅子の上で両足を抱えながら代わり映えしない曇天模様の空を見上げていた。本を読む気にもなれず、もうだいぶ長い時間同じ体制で空を見ている。暇だな、と口から零れた小さな独り言に返事は返ってこない。しかし背後から時たま聞こえるページをめくる音がそこにこの部屋の主がいることを証明していた。

 少し重心を後ろにズラすだけでギィ、と椅子が悲鳴を上げる。冷たい窓ガラスに額をこつりと当て視線を空から下へと下ろすと、全体的に灰色がかった視界に派手な紫色が飛び込んできた。
 それは濃紫色の背広だった。長い鳶色の顎髭と髪を靡かせた男は目立つ服をさも当然のように着込み、悠々と歩いてくる。男がここの鉄の門を通ったのを見て、あの派手な男がこんな寂れた孤児院に何の用だろうと疑問を浮かべる。派手好きのお貴族様が慈善活動にでもきたのだろうか。それならば事前に大人たちが大騒ぎするはずだけど、と考えながら目で追っていると、ふと男が顔を上げこちらを見上げた。バッチリ真正面から目が合ってしまい、逸らすこともできずに男をじっと見つめていると男はややあって会釈をして見せた。そして玄関へと消えていく。

「どうかしたのか」
「んー…なんか派手な紫のおじさんが来た」
「…貴族か何かか?」
「さあ。何にしろわたしたちには関係ないでしょう」

 時々、子供に恵まれない夫婦や慈善活動家、物好きな金持ちが子供を引き取りたいと言ってここにやってくる。トムなんかはその見目の良さからよく引き取りの声がかかるものの、本人は何を思ってか断ってしまうし、その前にわたしたちを嫌悪している子供達が有る事無い事を大人に吹き込み話が無かったことになる。トムもこんなところから早く出たいと言っているのだからさっさと取り入るなりして出ればいいのに。頭のいいやつの考えることはよくわからない。

 トムの意識が読書に戻ったことで再び静寂が舞い戻ってくる。窓枠の剥げかけているペンキをカリカリと爪で剥がしながら暇を潰していると、扉の向こう、階段の方から微かに足音が聞こえて来た。遅れて一人のものではない話し声も聞こえる。それはだんだんこちらの部屋へと向かっていて、思わずトムと顔を見合わせた時、ノックが二回聞こえ古い扉が音を立てて開かれた。

「トム、お客様ですよ…ああシャロン、あなたもいたの。ちょうどいいわ。こちらはダンバートンさん───失礼、ダンダーボアさん。この方はあなたたちに…まあ、ご本人からお話ししていただきましょう」

 院長のミセス・コールが背後に向かって僅かに会釈をすると、一人の男が姿を現した。派手な紫の背広は間違いなく先ほど窓から見た男だろう。男はキラキラと輝く青の瞳でわたしたち二人の姿を視認し、ニコリと笑った。バタン、と扉が閉められて、わたしが座っている椅子に視線を向けられたことに気づきぴょんと降りる。そのままベッドの上で長い足を投げ出しているトムの横に座ると男は礼を言いながらギイギイ軋む椅子に腰掛けた。

「初めまして、トム。シャロン」

 差し出された手を見て、一瞬の間を開けそっと取る。躊躇するトムも恐る恐る握手し、男は微笑んだ。男の異様な姿に警戒しているトムは目を細め、一瞬の沈黙が流れる。

「私はダンブルドア教授だ」
「『教授』?」

 その名乗りだけでトムの警戒心を膨れ上がらせるには十分だった。ああまたかとわたしも内心温度が下がる。これまでも、トムが引き起こす事件やわたしの瞳の目撃証言から医者が来ることが何回かあった。その大体がカウンセラーや精神科医の類で、彼らのこちらを見る冷めた目が心底嫌いだった。

「『ドクター』と同じようなものですか?何をしに来たんですか?あの女が僕らを看るように言ったんですか?」

 トムは今しがたミセス・コールが去っていった扉を指差す。ここの院長であるミセス・コールがわたしたちを忌み嫌っているのはよく知っている。子供達だけでなく大人たちも皆厄介な問題児であるわたしたちを嫌っていたが、その中でもミセス・コールは特に嫌悪感を示していて、さっさとここから出ていくことを望んでいるのも知っていた。
 ダンブルドア教授は朗らかに笑い、いやいやと否定する。嘘だろうと思ったのはもちろんわたしだけでなく、トムは大きな声で信じないぞと言い張った。

「あいつは僕らを診察させたいのだろう?真実を言え!」

 その強い口調、最後の言葉には衝撃的な力が込められていた。トムは言葉に力を混ぜこみ、強く発することで命令し人を操ることに長けている。これまで引き起こされた事件が噂程度にとどまっていたことや、やって来た医者たちを追い返せたのもこのトムの力によるものが大きい。
 その力を真正面から受けたはずの彼は何も言わなかった。それどころか心地よく微笑み続けてさえいる。今の強い力が効かなかったことに驚いて目を見開くわたしとは対照的に、トムは見開いていた目を観察するように細めた。わたしたちの警戒心は膨れ上がる。

「…あなたは誰ですか?」
「君たちに言った通りだよ。私はダンブルドア教授で、ホグワーツという学校に勤めている。私の学校への入学を勧めに来たのだが───君たちが来たいのなら、そこが君たちの新しい学校になる」

 そこで初めて口を開いたわたしへと彼は視線を向け、人好きのする笑みを深めた。優しげな表情、だというのに本能的に抱いた懐疑心を感じているとその言葉に対しトムは激情した様子でベッドから飛び降りた。そのまま怒りに染め上げた顔でダンブルドア教授から遠ざかる。

「騙されないぞ!精神病院だろう、そこから来たんだろう?『教授』、ああ、そうだろうさ。僕は行かないぞ、あの老いぼれが精神病院に入るべきなんだ。僕はエイミー・ベンソンとかデニス・ビショップ達に何もしてない。聞いてみろよ、あいつらもそう言うから!」

 トムが言っているのは今月の頭に行った遠足の話だろう。年に一度、夏になると大人が子供達を連れて遠出をすることになっている。その時出かけた先でトムが子供二人と共に洞窟に入り、それから二人は様子がおかしくなってしまった。トムは何もしていないと言い張ったが、遠足中に退屈だから何か愉快なことをしてやろうと言って、自身の足を汚したエイミーとデニスを観察していたのをわたしは知っている。

「私は精神病院から来たのではない。私は医者ではなく教師だ。君が落ち着いてくれればホグワーツについて話をしよう。もちろん、君が嫌だと言うのならば無理強いはしない」

 忍耐強く、トムを説得するようにダンブルドア教授はあくまで穏やかに言った。しかしトムは嘲笑うような口調でやってみろよと冷笑を浮かべる。教授はその自分へと向けた明らかな嘲笑を受け流し言葉を続けた。

「ホグワーツは、特殊な能力を持つ人のための学校だ」
「僕は狂っちゃいない!」
「トム」

 叫ぶトムを宥めようと名前を呼ぶが、興奮しきった彼には届いていなかった。まるで威嚇するように肩を上下させ、綺麗な顔を歪ませ睨みつけている。

「君が狂っていないのはよくわかっている。ホグワーツは、気が狂った人のための学校ではない」

 静かに口にしたダンブルドア教授はそこで一拍おいて、そしてどこかゆっくりと、勿体振るように言った。

「ホグワーツは、───魔法の学校だ」

 思わず、ひゅ、と息を飲んで、思考が停止する。沈黙が流れ、今まさに耳にした単語を脳内で反芻する動揺を隠しきれないわたしとは違い、トムは無表情ながらも僅かでも嘘が隠されていないかを見抜こうとダンブルドア教授の目を片目ずつ見つめていた。

「───魔法?」

 囁くように口から零れだした疑問を、教授は肯定する。まほう、と口の中で転がしてみると、今までほんの少し抱いていた違和感が消え去り、何だかぴったりと型に嵌ったような気がした。

「僕が…僕ができることって、魔法?」
「君は、何ができるのかな」
「いろんなことを」

 そう囁いた声色は興奮が抑えきれないと主張するように震え、トムの白くて細い首から頬まで赤みが増していく。熱があるのではと思うほどに赤く染まった顔で、トムは戦慄かせる唇を開く。

「僕は、触らなくても物を動かせる。動物を訓練しなくても思い通りに操ることができる。僕を困らせた奴らに、嫌なことが起きるようにできる。やろうと思えば傷つけることだってできるんだ」

 あまりの興奮に足が震え、前かがみになるトムは這うようにしてベッドに上がった。彼の情緒の不安定さが怖い。祈りを捧げるような格好で自身の両手を見下ろすトムの目は爛々と輝き、それは獣を思わせる。

「僕は、自分が人と違っているのがわかっていた。僕は特別だと、何かあるとわかっていた」
「その考えは正しい。君は、魔法使いだ」

 自分に向かって言うように囁く声は震え、歓喜の色を含ませていた。そんなトムをじっと見つめるダンブルドア教授は真顔で、もう微笑んではいなかった。注意深く、観察するような目をしている。
 魔法使いだと言われたトムは顔を激しい喜びでいっぱいにさせた。しかしそれは精巧な顔が歪んで見え、整った顔立ちが粗暴になり、表情も凶暴な印象を抱かせる。

「あんたも魔法使い?」
「そうだ」
「証明しろ」

間髪入れずにトムが発した命令は先ほどと同じ力が込められていた。それを聞いた教授は眉をあげる。大人が子供を叱る前によくする表情だ。

「私はそうするだろうと確信しているが、君がもし、ホグワーツへの入学を受け入れるつもりなら───」
「もちろんだ!」
「それなら、私を『先生』と呼びなさい」

 ほんの一瞬、トムの表情が硬くなる。それから人が変わったように礼儀正しい声で言い直した。

「すみません、先生。あの───どうか僕に、見せてはいただけませんか───*?」

 ダンブルドア教授は黙りこくったままのわたしをちらりと見て、背広の内ポケットから木の棒を取り出した。その棒に疑問を抱くより先に、部屋の隅にあるオンボロの洋箪笥に向けて軽く一振りする。そして箪笥が燃え上がった。

 突然のことにわたしたちは飛び上がった。怒りとショックで吠えるトムの隣で、轟々と燃え盛る箪笥に目を奪われる。床や壁に燃え移って火事になってしまわないだろうかと場違いなことを頭の隅で思った瞬間、唐突に火が消えた。一秒前には炎上していたはずの箪笥は全くの無傷で静かに鎮座している。不思議な現象に唖然としているとトムは箪笥とダンブルドア教授を交互に見つめ、物欲しそうな顔で教授の持つ木の棒を指差した。

「そういうものはどこで手に入りますか?」
「いずれ時がくれば───」教授はそこで箪笥に目をやった。「何か君の箪笥から出たがっているものがあるようだ」

 そう言われて耳を澄ますと確かに箪笥の中からカタカタとかすかな音が聞こえてくる。トムは珍しく怯えたような表情を浮かべ身体を硬くする。
 扉を開けなさい、と教授は命令する。それはトムの命令よりずっと穏やかであるが、今のトムには何よりも効き目があるように見えた。少し躊躇したトムは大人しく箪笥の前まで近づき扉を開ける。中の自身の背よりも高いところを見上げたトムはそれを出しなさいと再度命じられて箱を下ろした。ダンボールの箱はネズミでも囚われているかのように音を立てて揺れている。普通に怖い。ホラー案件じゃないか。トムも怯えているように見える。

「その箱の中には、君が持っていてはいけないものが入っているのかね」

 トムは顔をあげ、魂胆を見抜こうとするような目でダンブルドア教授を長い間じっと見つめる。

「はい、そうだと思います」
「開けなさい」

 ようやく絞り出した声は全ての感情を削ぎ落としたようなものだった。従順に箱の蓋を開け、中身を見ずにベッドの上にぶちまけた。ヨーヨーや銀の指貫といった小さなガラクタが薄い毛布の上を転がり、黙り込む。これは、トムの『戦利品』だ。

「それぞれの持ち主に返して謝りなさい」

 ダンブルドア教授は全てを見通したように言った。木の棒を上着に戻し、静かに言い聞かせる。

「きちんと返したか、私にはわかるから。注意しておくが、ホグワーツでは盗みは許されない」

 そう言われてもトムは一切反省した素振りを見せない。冷たい目で値踏みするように教授を見つめ、やがて平坦な声で返事をした。

「ホグワーツでは、魔法を使うことだけでなく、それを制御する方法も教える」

 とつとつと、我慢強く言い聞かせるようにしてダンブルドア教授は言葉を並べる。それをじっと黙って聞く私たちの目を交互に見つめながら。

「君は───きっと意図せずだと思うが───我々の学校では許されない方法で自分の力を使ってきた。魔法の力を感情に任せて使ってしまう者は君が初めてでもなければ最後でもない。しかし、覚えておきなさい。ホグワーツでは生徒を退学させることができるし、魔法省は───そう、魔法省というものがあるのだが───法を破る者を最も厳しく罰する。新たに魔法使いとなる者は、魔法界に入るにあたって我らの法律に従うことを受け入れねばならない」
「はい、先生」

 大人しく応じるトムの横で小さく頷き、ベッドに散らばった盗品をダンボールに放り込む。それに倣うトムと二人で片付け、最後に色褪せたハーモニカを入れたところでわたしは顔をあげ教授の目を見た。

「わたしたちはお金を持っていないのですが、どうすれば?」
「それはすぐに解決できる」

 そう言うと彼は懐から革の巾着を二つ取り出した。

「ホグワーツには教科書や制服を買うのに援助を必要とする者のための資金がある。君たちは呪文の本なんかを中古で買わなくてはいけないかもしれない。それでも───」
「呪文の本をどこで買うのですか?」

 ずっしりとした巾着を受け取ったトムは中の見たこともない金貨を調べながら、教授の言葉を途中で遮った。分厚い金貨はとても古めかしい。魔法界では貨幣ではなく、未だ硬貨のみが流通しているようだ。

「ダイアゴン横丁で。ここに君たちの教科書や教材のリストがある。どこで何があるのかを、私が手伝おう」
「一緒に来るんですか?」
「もちろん。君がもし───」
「あなたは必要ない」

トムはぴしゃりと拒絶した。あまりに失礼な物言いだがトムならば当然そう言うだろうと思っていた。わたしはそれを止めず、ただ無言で教授の様子を観察し続ける。

「一人でやるのには慣れている。僕らはいつも大人なしでロンドンを歩いているんだ。それで、そのダイアゴン横丁とやらにはどう行くんだ───先生?」

 ダンブルドア教授の目を見た途端、取ってつけたように先生、と付け加えた。彼は何を言うでもなく封筒を私たちに手渡し、ここから『漏れ鍋』という店までの行き方を説明する。

「周りのマグル───魔法族ではない者のことだが───その者たちには見えなくとも、君たちには見えるはずだ。バーテンのトムを尋ねなさい、君と同じ名前だから覚えやすいだろう」

 あっと思った瞬間、トムは苛立たしげに顔を引きつらせた。その表情を見て、ダンブルドア教授は碧眼を細める。

「『トム』という名前は嫌いなのかね?」
「同じ名前の人は沢山いる」

 トムは自分の名前を嫌っている。特別なはずの自分の名前がありふれた平凡なものなのだということを忌々しく思っていた。トムの吐き捨てるように言った言葉を聞いて教授は細めた瞳をこちらに向け、その後続いたトムの声に反応しそちらに向けられた。

「僕の父さんは、魔法使いだったの?その人もトム・リドルだったってみんなが教えてくれた」
「残念ながら、私は知らない」
「母さんは魔法を使えたはずがない。使えたのなら死ななかったはずだ」

 そう言った言葉は教授にではなく、自分に向けて言っているように聞こえた。トムの母親はこの孤児院でトムを生んですぐに死んだらしいと聞いたことがある。わたしの親については何も知らない。名前や顔どころか、わたしは自分の誕生日すら知らないのだから。

「父さんの方に違いない。それで───これらを全て揃えたら───そのホグワーツとやらに、いつ行くんですか?」
「細かいことは、封筒の中の羊皮紙の二枚目に書いてある。君たちは、九月一日にキングズ・クロス駅から汽車に乗って出発する。切符も同封されている」

 頷けば、ダンブルドア教授は立ち上がって、また手を差し出した。その手をトムが取り、徐ろに口を開く。

「僕は蛇と話ができる。遠足で田舎に行った時にわかったんだ……向こうから僕を見つけて囁きかけてきたんだ。魔法使いにとっては当たり前なの?」

 きっとトムは、このとっておきの話を最後まで伏せておき圧倒させてやると考えたのだろう。それを聞いた教授は一瞬、迷うように閉ざした口を再度開く。

「稀ではある。が、例がないわけではない」

 嘘だな、と直感でそう思った。軽い口調で言った教授の目が興味深そうにトムの顔を眺め回す。トムもきっとわかったのだろう、ずっと無表情を貫いていた口角を上げた。そして二人の手が離れる。
 トムとの握手を終え、次いでこちらへと身体を向けたダンブルドア教授は同じようにその手を差し出して来る。柔和に差し出された手を無言で取り、握手を交わす。そこで初めて、教授はわたしに対して口を開いた。

「シャロン、君は何やら不思議な目をしていると聞いたが、本当かな」

 ミセス・コールめ。別段隠しておこうとは思っていなかったが勝手にベラベラ話されると腹は立つ。穏やかに微笑むダンブルドア教授は人畜無害を絵に描いたような紳士で、初めて遭遇したトム以外の同類だ。わたしの眼のことについて何か知っているかもしれないし、そもそも魔法使いの間では特に珍しいことではないかもしれない。──────だけど。

「よく言われますが、目の錯覚だと思います。特に変わったことはありません」

 キラキラと輝く水色の瞳をまっすぐに見つめてそう言うと、ダンブルドア教授はトムの時と同じように瞳を細め、わたしに興味を向けた。そしてスッと手が離れ永遠にも感じた握手が終わり、そうかとまたあの笑みを浮かべる。そのまま自然な動作でドアに向かい、ノブを掴んで再度こちらへと振り返った、

「さようなら、トム。シャロン。ホグワーツで会おう」

 最後に微笑みを残して青い瞳の魔法使いは去って行った。バタンと大きな音を立て扉が閉まり、足音が遠ざかる。完全に音が聞こえなくなってから、わたしたちは同時に手元の封筒に目を落とした。
 黄味がかった封筒は分厚くて重いもので、宛名はエメラルド色のインクで書かれていた。裏返すと紋章入りの紫色の封蝋が施されている。真ん中に大きくHと書かれ、周りを獅子、鷲、穴熊、蛇が取り囲んでいた。
 トムを見ると、すでに封を破り中の羊皮紙を広げているところだった。几帳面な彼には珍しくビリビリに破られている。かく言うわたしもペーパーナイフを取る手間が惜しく、その場で封を切った。
 封筒と同じ厚手の羊皮紙は二枚入っており、はやる気持ちを抑えながら一番上の文字に目を通す。

 《ホグワーツ魔法魔術学校 校長 アーマンド・ディペット》

 どうやらダンブルドア教授は校長ではないらしい。それもそうか、校長自らわざわざ子供のもとに向かうはずもない。

《───*親愛なるランドール殿

 この度ホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。
 新学期は九月一日より始まります。七月三十一日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております》

 最後に副校長の署名でその手紙は終わった。二枚目の羊皮紙には、制服と何種類もの教科書、そして魔法の杖などの学用品がずらりと並び、最後は非魔法族の保護者宛らしいホグワーツについての説明や注意事項が載っていた。

「こんなものが、本当に全部ロンドンで揃うの?」

 呪文の教科書やドラゴン製の革手袋なんて存在自体が信じられないのに、それがここロンドンで全て揃うとは到底思えなかった。ずっしりと重い金貨はとても精巧で偽物には見えない。先ほど見せられた炎もあの教授が言っていたことも、その全てが真実で現実なのだと信じるしかなかった。
 
「ねえ、いつダイアゴン横丁に行く?ミセス・コールに許可をもらわないと」
「明日だ」
「明日?」
「明日行こう。なるべく早く出発する」

 わたしの呼びかけにも顔を上げず、舐めるように羊皮紙に目を滑らせているトムはきっぱりと断言した。有無を言わせない口調にわかったと言うしかない。鈍く輝く彼の目は宝の地図を見つけたような無邪気さの中に歪な狂気が見え隠れしている。
 もう一度目を通そうと視線を落とすと、扉が二度叩かれた。返事を返す前に扉は開かれ女が顔を見せる。

「ダンダーボアさんからお話を聞きました。二人はその学校に通うそうですね?」
「はい」

 わたしが肯定すると、彼女の疲れ切ったような顔にパッと喜色が宿った。無意識のうちに眉根を寄せるも全く気づかないようで、上ずった声色でまあ、と零す。

「それで───いつから?」
「九月一日に新学期が始まるそうです。全寮制だそうで、毎年夏の間は帰ってきてしまいますが」

 そうですか、と頷いたミセス・コールは言葉に含められた皮肉に全く気づいてないらしい。ハ、という隠そうともしない嘲笑が隣から聞こえてくる。

「明日必要なものを買いに出たいのですが───?」
「ええ、行ってきて構いませんよ。お金は問題ないそうで」
「支援機構があるらしいので大丈夫です」

 わかりました、と再度頷いた彼女は本当に嬉しそうだった。今夜はローストビーフですよと行って去って行ったがこの足音のリズムから察するに、もしかしなくてもスキップしてないか?

「本当に笑っちゃうくらい嫌われてるね」
「孤児院きっての問題児二人がまとめていなくなるんだ、今夜はパーティーかもな」
「ローストビーフなんて十年間で初めて」

 お金を貯め外で一度だけ食べたことがあるローストビーフに思いを馳せる。あの調子だともしかしたらケーキすら出してくるかもしれない。

「トムはともかく、わたしは大して問題起こしてないはずなんだけど」
「その眼は十分問題だろ」
「自分じゃわからないからなあ……」

 しらばっくれているトムが自分の引き起こした問題にわたしを巻き込んでいるのはもちろん知っている。彼の性格の悪さは一級品だ。硬いベッドに身を投げ出したわたしに、ところで、と声が降ってきた。その格好のまま視線だけそちらに向けるとトムは手紙に目を落としたまま、その薄い口を開く。

「どうしてあの人に眼のことを言わなかった?」
「どうして、と言われても……」

 トムの顔から薄汚れた天井へと視線を移す。雨漏りの影響でところどころに変色した染みが生まれ、隅の方では蜘蛛がせっせと糸を張っていた。視界は良好、特に変化はない。

「何となく、言わない方が良いような気がしたから」
「……おまえの勘は当たるからな」
「トムも言わなければ良かったのに。絶対目を付けられるよ」

 そう嫌味を言ってやると数秒置いてギシ、とまともに効かなくなって久しいスプリングが軋む音が鳴り、同時に視界いっぱいにトムの整った顔が現れる。1ミリの歪みもないその相貌は、例え逆さまであろうとも美しさが損なわれることはないらしい。お互い無言で見つめ合いそんなことを思っていると、突然トムがふわりと微笑んだ。ギリシャ神話のナルキッソスもかくやというほどの麗しさ、しかしわたしの肌はその笑みを認識した途端反射的に総毛立ちぞわりと悪寒が走る。

「な、何、どうしたの」
「どうもしないさ。青い顔をしているけれど大丈夫かい?」
「ヒッ」

 にこやかな笑みのまま、妙に優しげな声が耳に入り思わず声にならない悲鳴をあげる。すると瞬時にトムの顔から表情が削ぎ落とされ、いつも通りの無表情が現れる。ほっと息をつくわたしに苦々しげな視線を送るトムはどっかりとベッドに座り込み、安堵しつつわたしも身体を起こした。

「おまえ、頬を染めるとか女らしい反応の一つや二つできないのか?」
「絶対無理。………もしかして、学校で猫かぶりするつもり?」
「当然。面倒ではあるが周囲の人間の好感度は高い方が良い。この顔と頭があるんだ、あとは優等生の皮でも被っておけば馬鹿共はすぐ騙せるさ」

 ふ、と再度微笑んでみせたトムは確かに品行方正な優等生、という雰囲気が漂っている。根が真面目な完璧主義者だから成績面では容易いし唯一にして最大の欠点である性格は猫被りによって覆い隠される。今までも孤児院以外で接する大人に対しては演技で愛想良くしていたが、わたしはあの状態のトムがとても苦手だ。普段の振る舞いを知っているからこそ違和感が尋常じゃないし気味が悪い。脳が勝手に拒否反応を示し、それが鳥肌や悪寒となって身体に現れるのだ。

「そう………わたしには話しかけないでね」
「言われずともそうするよ。おまえといても何のメリットもないのだし」

そっけなく返された言葉に少し笑い、ひらりと封筒の紋章を視界に翳す。────わたしたちは魔法使いで、魔法学校に入学する。なんて陳腐なファンタジーだと笑いそうになるが、これは全て現実だ。絵空事でも空想の中の出来事ではない。生まれてからずっと奇妙なことしか起きてこなかったけれど、今回が一番奇妙で可笑しい。ふと見上げた窓の外に広がるのは相も変わらず曇天垂れ込む灰色だった。

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