02


研究室を出た廊下は、さっきまでの怒鳴り声が嘘みたいに静かだった。白衣のポケットの中、スマホが汗ばんだ指にじっとりと馴染んでいる。
どうしよう……と、私はとぼとぼと廊下を歩いていた。ありえない約束をしてしまった。父にそんなことを訊けるはずがない。結末を教えてほしいなんて、まともな頼みじゃない。
ふと、レジデント室の前を通りかかると、中から青木の声が聞こえた。

「おっ、宮間。生きて帰ってきたな」

ひょいっと顔を出してきた彼は、軽口を叩いて笑った。その笑顔の奥に、ちょっとだけ“期待してたのに”みたいな気配が見えたのは…気のせいじゃなかったと思う。

「どうだった?教授、やっぱブチ切れてた?」
「…まあ、ちょっとね」

私は苦笑いを返しながら、扉の縁に軽く背中を預ける。

「で?呼び出された理由は?なんか言われた?」

一瞬、喉の奥で言葉が止まった。
…彼に、なんて言えばいい?父親が描いてる漫画のネタバレを聞き出せたら、手術ができる?そんな話、笑われる以前に、面倒なことになるに決まってる。
青木は悪い人じゃない。でも、もしこれを知られたら――きっと複雑な思いをさせてしまうだろう。彼も私と同じように、頑張っているのは同じだ。私の特別扱いに、よく思わないかもしれない。

「…うん、まあ、ちょっと雑用みたいなやつ。たいしたことじゃないよ」
「へーなんか拍子抜け」
「うん…こっちもある意味ね…」

言葉を濁しながら、曖昧に笑う。
でも胸の奥では、ずっと何かがざわざわしていた。教授に渡されたその“チャンス”が、ふざけた条件付きだったとしても。そんなのおかしいとわかっていながらも…どこかで私は、心を決めていたのだと思う。
青木には何も言えないまま、私は手を振ってその場を離れる。廊下の突き当たりの椅子に腰を下ろし、スマホを取り出した。
──とにかく、まずは…天沢くんに。父にいきなり電話しても、無駄に終わる可能性が高い。だから、まずはアシスタントの彼に。自分に言い聞かせるように息を吐き、私は画面に指を滑らせた。
覚悟を決めて着信ボタンをタップする。耳元で、コール音が始まった。
1回、2回、3回――。繋がらなければ、仕方ない。そう思いかけた、そのとき。

『……もしもし?』
「あ…天沢くん?」

懐かしい声に、ほんの少しだけ胸がふるえた。
彼の声を最後に聞いたのは、去年の年末だったはずだ。今は春先。数ヶ月が経ったけれど、あまり変わっていない気がする。

「…久しぶり。ごめんね、急に。ちょっと、どうしても聞きたいことがあって――忙しいのは分かってるんだけど、ほんの数分でも――」
『あ、りかさんですか……!』

思ったよりも食い気味に、しかもどこか慌ただしい口調で返ってきた声に、私は一瞬たじろいだ。

「う、うん。いきなりでごめんね。今ちょっと、お願いしたいことがあって――締め切り直前だってわかってるから、手が空いたときにでも……」

遠慮がちに切り出すと、天沢くんの返事は予想よりずっと焦っていた。

『い、いえ、ちょうどよかったです!僕のほうこそ、連絡しようか迷ってたんです…!実は、先生が……』

──先生?
唐突な父の名前に、少しだけ胸がざわめく。

「…お父さんがどうかしたの?」
『いなくなってしまったんです。昨夜から、姿が見えなくて……』
「――え?」

思わず口をついて出た驚きの声に、自分でも少し戸惑う。
いなくなった?父が?……締切当日に?確かに変わっているところはある。でも、仕事にだけは異常なほどの集中力を発揮する人だ。何があっても机にかじりついていたはずだし、何も言わずに姿を消すなんて、聞いたことがない。

「なにかあったの?」
『わからないんです。昨夜、突然いなくなってしまって…今日の16時が締切なのに、何の指示も来なくて…僕、どうしたらいいのか……!』

電話越しに聞こえる紙のめくれる音と、天沢くんの焦りが混ざり合って、胸のどこかに小さな棘が刺さる。

「…とりあえず、近くの喫茶店とか、よく行く店は探してみた?」
『何軒か回ったんですけど、どこにも……連絡もつかないままで……』

一瞬、ほんの一瞬だけ、嫌な予感が胸の奥をかすめた。でもそれを膨らませるのはまだ早い。まずは顔を見て話を聞いて、それからだ。

「……わかった。私も今からそっちに向かうよ。病院出たらすぐタクシー拾うから。15分以内には着けると思う」
『ほんとですか……!助かります……!』

電話を切ると同時に、私はレジデント室に戻り、さっと身支度を整えた。
心の中には、まだ「何か起きた」なんて確信はない。ただ、あの父が締切を放り出すなんて、やっぱりどう考えてもおかしい。
──念のために、様子を見に行こう。それだけのつもりだった。
けれどタクシーの窓から流れていく街並みをぼんやり見ていると、だんだんと胸の中で別の感情がじわじわと広がっていく。
――もし、父がいない理由が、“いつもの気まぐれ”じゃなかったとしたら。ほんのかすかな、その可能性が、降り出しそうな空の色と重なって、静かに心を濡らしはじめていた。










「天沢くん!」

父の一軒家の玄関前に立っていた彼が、ぱっとこちらを振り返る。その顔に浮かんだのは、安堵よりも戸惑いに近い色だった。

「りかさん……!来てくださって、本当にありがとうございます……」

早足で駆け寄ってきた天沢くんは、ややうつむき加減にメガネを押し上げる。疲労と混乱が入り混じったような表情だった。彼の薄い肩が小刻みに揺れているのがわかる。けれど、泣きそうとか、取り乱しているというよりも、ただ現実についていけていないというふうに見えた。
私は小さくうなずき、靴を脱いで家の中へと足を踏み入れる。どこか緊張した空気が漂っていた。

「ごめんね、急に」
「いえ……とにかく、中へ……」

案内された作業部屋は、見慣れた光景だった。雑然と積み上げられた資料、机の上に広げられたストーリーボード。照明の加減も、空気の匂いも、数週間前に来たときと変わらない。
でも──どこか、おかしい。机の上のマグカップは中身が乾きかけていて、液晶タブレットは電源がついたまま、止まった画面が沈黙している。まるで時間だけが、ここで止まってしまったようだった。

「……先生、昨日の夜まで、確かにここにいたんです。作業してました」
「そうなの?」

天沢くんは、口元に手を当てながら少しだけ視線を落とした。

「…はい。僕が夜の9時頃に、コーヒー淹れますかって声をかけたんです。そしたら『10時頃にお願い』って、いつも通りの返事でした。でも、10時にまた部屋を覗いたら……先生が、もういなかったんです」
「え……?」
「玄関はちゃんと鍵がかかってて、靴もそのまま、財布も携帯も机の上に置いたままで…。僕がいたリビングを通らなきゃ、外には出られないはずなんです。なのに、気づかないうちに、いなくなってて…」

私は思わず机の周囲を見渡した。椅子の角度、机の上に置かれた眼鏡、すべてが「途中で止まった」ままだ。食事の痕跡もない。まるで、誰かに連れ去られたような、そんな不自然さだけが残されている。

「こっそり出かけて、どこかで寝てるだけじゃ……」
「だったらいいんですけど。先生がお気に入りの飲み屋も何軒か回りました。顔馴染みの店主に聞いても、『今日は来てない』って」
「……そっか」

確かにそれはおかしい。どこにも痕跡が残っていない。私は軽く息を吐いてから、天沢くんに目を向ける。

「ねえ、昨日、お父さん何か言ってなかった? 誰かと会う予定があるとか、変わった様子だったとか」
「予定はなかったと思います。でも、ひとつだけ、ずっと繰り返してた言葉があって」

言い淀んでから、天沢くんはゆっくりと言葉を継いだ。

「『今回は本当に重要な回だから、絶対に間違えられない』って……ずっと、自分に言い聞かせるみたいに、何度も」

――重要な回。
門川教授の言葉が頭をよぎる。黒幕が明かされる、大きな転機になる章。そういえば、父も最近、以前に増してピリピリしていたような気がする。

「りかさん……警察に連絡したほうがいいんじゃ……」
「まだ24時間経ってないし、もう少しだけ待とう。本人が意図的に連絡を絶ってるだけかもしれないし。…ほら、終わりが近いと、気持ちが昂って、誰にも会いたくなくなるときってあるし」

自分でも、根拠があるわけじゃないとわかっていた。けれど、そう言うしかなかった。自分を、そして天沢くんを落ち着かせるために。
私は、父の無事を信じたかったのだ。物心ついた時からずっと、父が漫画と向き合う背中を見て育ってきた。4年前に母が亡くなったあの年でさえ、父は一日も休まず原稿と向き合い続けた。
そんな父にとって、漫画の“重要な回”はただの締切や仕事じゃない。人生そのものと向き合うような、大きな意味をもつはずだ。
だけど──

「先生が、本当に気持ちが高ぶってたなら、あんなもの描けませんよ……」
「……え?」
「先生、昨日の夕方、こう言ったんです。『次の回で、安室透を殺す』って」

心臓が、嫌な音を立てて脈打った。言葉の意味をすぐには受け止めきれず、まばたきが自然と増えていく。

「……う、嘘だよね?」
「本当です。嘘だったらどれだけよかったか……。でも……」

天沢くんは震える指で、目の前の液晶タブレットを操作し始めた。そして、“コナン原稿”のファイルを開く。

「……りかさんも、見たほうがいいです」

そう言って液晶に映し出されたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。

「っ……!」

思わず息を呑み、手で口元を覆った。
画面の中で、安室透が倒れていた。白いYシャツは血に染まり、腹部には複数の刺し傷。頬にまで血が飛び散っていて、床に広がる赤黒い血溜まりが、まるで現実の写真のように生々しい。

「な、なに……これ……」

あまりに無残な姿に、私は息が詰まった。

「これ……本当に?」
「編集部には、まだ見せてません。……僕だって止めようとしました。『こんなの絶対読者が受け入れない』って。……でも先生、聞く耳持たなくて……」

目の奥が熱くなる。
受け入れられるわけがない。父が、安室透をこんなふうに描くなんて。私だって、一読者として、こんな結末、望んでなんかいない。
恐る恐るページをめくると、そこには犯人らしき黒い影が描かれていた。

「……この影が?」
「はい、たぶん。でも、誰なのかは僕にもわかりません。このページを描いたあと、先生はいなくなりました」

沈黙が重く落ちる。
まさか父が、主要キャラを殺してしまうなんて。今まで一度だって、そんなことしてこなかったのに。
その時、胸の奥で、なにかが冷たく鳴った。まさか……この展開を外部の誰かが知って、怒り狂った読者が父に危害を与えたんじゃ……?

「……ねえ、このネームを見た誰かが、逆上して父を……誘拐したとか、考えすぎかな……?」
「……え、それってまさか……あの映画の中の話みたいな……」
「異常なファンって、現実にもいるじゃない。ましてやあの安室透を殺すなんて、こんな描写、怒られて当然……!」
「りかさん……やっぱり僕、警察に連絡します!」

天沢くんが勢いよく部屋を飛び出す。
私はひとり、静まり返ったアトリエの中で、作業机へと足を向けた。
父のパソコン。画面はロックされていたが、緊急用のパスワードは覚えている。入力するとログインが解除され、無数のファイルが並ぶ画面が現れた。
その中に――ひときわ異質な名前があった。

『Final_Secret』

クリックした指先が、じんわりと汗ばむ。
表示されたのは、テキストファイルと数枚の画像。テキストには、こう記されていた。

『喰われるぐらいなら
 むしろ
 喰ってやる』

理解が追いつかないまま、私は画像の一枚目を開いた。床に広がる鮮血。見慣れた光の粒や影の描き方で、それが“現実の血”ではなく“描かれた血”であることはすぐにわかったのに、なぜか、胸の奥がざわめく。
次の一枚。さらにもう一枚。その時、目が何かを見つけてしまう前に、身体が反応した。

「……っ…え?」

背後から、何かが私の手首を“掠めた”気がした。
風?…いや、違う。皮膚の表面に、確かに感触があった。生温かくて、“意志”のある触れ方。風なわけがない。
脈が跳ね、恐る恐るその手を視線の高さまで持ってくる。そして息を呑んだ。
……赤い。指先から手のひらまで、べっとりと、血がついている。

「……なに、これ……」

声に出した瞬間、世界の密度が変わった気がした。室内の空気が歪み、呼吸がどんどんしにくくなる。そして――

「……っ!」

今度は反対の手の袖口が、ぐいと引かれた。思わず身体がよろめく。だ、誰?なに?どこに?恐る恐る振り返ろうとしたその時だった。

「あっ……!」

叫ぶ間もなく、身体が吸い寄せられた。
重力の向きが変わるような、地面が傾くような奇妙な感覚とともに、意識が一気に遠のいていく――
最後に見えたのは、液晶に映る”血まみれの腕”と、その傍らに立つ”黒い影”。画面の内側――そこから、その腕が伸びていた。
なに…?そう思ったが最後、何かに引きずり込まれるような感覚に、私は完全に意識を手放した。



前へ   次へ


目次へ戻る

Back to top

total - 103359 hit