03
……
……
いつの間にか、眠っていたらしい。どこから意識が途切れたのかも思い出せないくらい、きれいに落ちてしまっていた。
ズキン、と鈍い痛みが頭の奥で鳴る。こめかみを押さえながらゆっくりと瞼を開けると、飛び込んできた光景に私は目を見開いた。
「……え?」
一気に視界が冴える。周囲は薄暗く、冷たい夜風が吹き抜ける。
足元には、白く擦れたヘリポートのマーク。近くでは鉄製の換気扇が、軋む音を立てながら夜風に晒されていた。
「……ここ……どこ……?」
心の奥に、じわじわと得体の知れない不安が広がっていく。
どうして、自分がこんな場所に…?さっきまで昼だったのに…。思い出せるのは、最後父の家にいたということ。そのあとの記憶が、ごっそり抜け落ちている。
足元が覚束なくて、私はふらつきながら立ち上がった。視界に広がったのは見たことのない街並み。その合間に流れる車のライトと、かすかに届くクラクションやエンジン音――ここは、どこかのビルの屋上だろうか?
困惑で頭がいっぱいになる。恐る恐る一歩を踏み出した、その瞬間だった。
トンッ。
靴の先が、なにか硬いものにぶつかった。
反射的に視線を下ろす。
「…っ、きゃ…っ!!」
一瞬で血の気が引いて、喉から勝手に悲鳴が漏れた。
そこに倒れていたのは――血まみれの男性。冷たいコンクリートに仰向けに崩れ、白いシャツは赤に染まりきっている。
「だ、大丈夫ですか…!?聞こえますか!?しっかりしてください…!」
膝から力が抜けそうになりながらも、体は勝手に動いていた。駆け寄り柔く彼の肩を揺さぶる。けれど、返事はない。
胸元と腹部に、刃物かなにかで抉られたような傷跡。出血量の多さに、全身が凍りつきそうになる。
震える指で首筋に触れ、脈をとった。
……生きてる。浅いけれど、確かに息がある。
その事実に胸がわずかに緩む一方で、止血も気道確保も、このままでは何ひとつできない現実が突き刺さる。
「きゅ、救急車……っ!」
慌ててポケットに手を突っ込む。だが、スマホがない。
――どうして?いつもなら肌身離さず持っているはずなのに。一瞬、頭の中が真っ白になった。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。救急要請が最優先だ。
「誰か……!助けを!!」
我を忘れて叫び、近くの鉄扉に駆け寄る。重い扉を開けると、薄暗い非常階段が続いていた。
手すりを掴んで駆け下りると、下の方に先に蛍光灯の白い明かりがぼんやりと差し込む。光に吸い寄せられるように飛び込むと――そこはレストランの厨房だった。熱気と、スパイスの匂いが鼻を刺す。
「すみません、誰か…!救急車を呼んで下さい…っ!」
必死に叫ぶ自分の声が震えていた。
白い服のスタッフたちが一斉に振り返る。その視線に怯む暇もなく、私はさらに声を張り上げた。
「私は医者です!屋上に刃物で刺された人が……!意識がありません!早く!お願いです…!」
数人が慌てて電話機に手を伸ばすのを確認すると、私は壁際に積まれた調理器具に目を走らせ、銀色のハサミを掴んだ。
彼の服を切り開いて、早く止血をしなければ――。
「お願いします!!」
叫ぶように言い残し、私は再び階段を駆け上がった。
屋上に戻った瞬間、夜風が肌を切るように冷たく感じた。
足元にはさっきの男性が、まだ同じ姿勢で倒れている。白いシャツはすでに赤黒く変色し、出血は止まる気配を見せない。
「大丈夫です、大丈夫ですから……!」
自分に言い聞かせるように呟きながら、私はハサミで彼のシャツを切り開いた。
露わになった胸と腹部には、複数の刺し傷。血があふれ、皮膚が冷たくなっている。
私は反射的にさっき切り裂いたシャツを押し当て、強く圧迫した。その時。
「…っ、う……」
彼の喉から低いうめき声が漏れる。
びくりと体が跳ね、薄く閉じていた瞼が微かに痙攣しはじめた。
「えっ…?」
次第に胸の動きが激しくなり、息を吸うたびに喉が擦れるような音を立てている。
しかも、目を凝らすと右胸の鎖骨下あたりに青黒い腫れが広がっていた。皮膚の下で空気が溜まっているように、触れなくても異様な膨らみがわかる。
「これは……」
気胸だ。
喉の奥が凍りついた。痣の位置、この苦しみ方、間違いない。肺が傷つき、空気が胸腔に漏れ出している。
こんな状況で――。出血だけじゃない。呼吸のたびに肺が圧迫され、このままではあっという間に呼吸困難に陥ってしまう。命が持たない。
「……お、落ち着いて……な、なにか、尖ったもの……!」
ほとんどパニックだった。
頭の中で、救急の講義や実習で学んだ断片が一気に蘇る。まず、気胸にはドレナージが必要だ。空気を抜かなければならない。
けれど――。
「どうすれば……っ」
ここはビルの屋上。医療器具なんてあるはずがない。咄嗟に周囲を探り、ふと彼の胸ズボンのポケットに硬い感触を覚えた。慌てて引き抜くと、出てきたのは血で汚れたスマホ、そしてボールペン。
これだ。両手で思いきりそのボールペンをへし折る。中の芯を引き抜き、簡易的なドレナージ管を即席で作り上げた。
うまくいくかなんて、わからない。訓練では模型を相手にしかやったことがない。失敗すれば、彼の命を奪うことになるかもしれない。でも――今やらなきゃ。彼は助からない。私が、やるしかない。
心臓と血管を避けるように角度を決める。
「お願い……!」
震える声とともに、私は彼の右胸に筒を押し当てた。硬い皮膚を越えた瞬間、手に生々しい抵抗が伝わる。
そして――プシューッと、肺の奥から溜まった空気が解放されるような音がした。その瞬間――。
「……っ!」
彼の血に濡れた右手が伸び、胸を押さえる私の手首を掴んだ。
思わず息を呑む。彼の胸が大きく上下し、潰されていた肺が再び息を取り込むように膨らむ。そして――ゆっくりと、碧い瞳が開いた。
「……っ」
息が止まった。
夜風も、血の匂いも、鼓動さえも遠のいて――ただ、その瞳だけが私を射抜く。夜の底に沈んだような、それでいてどこまでも澄んだブルーグレー。吸い込まれるように、目が離せない。
なぜだろう。この人の顔を、初めて見るはずなのに知っている。
その瞳と、その手の温度に――胸の奥が、強く揺さぶられた。
「あ、の……あなたは……」
唇から、熱に浮かされたように言葉が零れる。
その声が届いたのか、彼の目がゆっくり細くなる。その時だった。
ガチャッ、と鉄扉が開く乾いた音が、静まり返った屋上に響いた。
「大丈夫ですか…?!」
駆け込んできたのは、見知らぬスーツ姿の男性。息を切らしながらも、必死にこちらへ駆け寄ってくる。
「血が…っ!!大変だ!!救急車は呼びました!状況はどうですか?!」
「刺傷で大量出血しています。右胸は気胸で……今は減圧してますが、でも出血が……!タオルか布はありませんか?止血に使いたいです…!」
振り返って声を張り上げた私に、男性は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに大きく頷いた。
「わ、わかりました!すぐに!」
そのときだった。
私の手首を掴んでいた彼の力が、ふっと抜け落ちる。
「………え」
掴まれていた手首が離れ、彼の身体がぐらりと傾いた。咄嗟に腕を伸ばして支えるが、彼の瞳がゆるりと閉じられていく。
「し、しっかり……!頑張ってください……!」
必死に呼びかけるが、彼は何も応えない。
私の腕の中で、まるで深い眠りに落ちるように、静かに意識を手放してしまった。
「し、死んだんですか!?大丈夫なんですよね!?」
隣で男性の声が震える。けれど、私は何も言えなかった。喉の奥が締めつけられて、声が出ない。
だって――私は、見たのだ。彼が私のことを、まっすぐに見つめてくれたあの瞬間を。
助けたかった。この命を、どうしても、ここで終わらせたくなかった。ただ、それだけだったのに。
減圧は……間違ってた?余計に悪化させた?自分が何をしたのか、正しかったのか、わからない。頭の中が真っ白になり、ただ血に染まった自分の手だけが視界に焼き付く。
呼吸の仕方も、次に何をすべきかも、すべて忘れてしまったかのように――。私はただ、彼の胸に手を置いたまま、動けなかった。
*
目の前では、救急隊員たちが慌ただしく動いていた。ストレッチャーに横たえられた彼の身体が、心電図の機械音に包まれながら、淡々と搬送されていく。私はその様子を、屋上の片隅から静かに見守っていた。
「……よかった……」
ぽつりと、息がこぼれる。安堵と疲労が一度に押し寄せて、全身の力が抜けその場にしゃがみ込んだ。
彼が意識を失ったあの瞬間――私は、本気で思ってしまった。自分の処置が間違っていて、命を奪ってしまったのだと。けれどその直後、駆けつけた救急隊の言葉がすべてを変えた。
「あなたの処置がなければ、彼は助かりませんでした」
その一言で、張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れた。
そして私は――泣いた。声を押し殺して、子どもみたいに、しゃくりあげながら。こんなに取り乱したのはいつぶりだろう。情けないほど泣いた。
ようやく涙が止まったころ、私はふと自分の血に染まった手を見つめた。さっきまで恐ろしかったその手が、今は少し――誇らしく見える。命を、つないだんだ。たった一本のペンで。自分の判断で。
「……あの」
不意に声をかけられ、はっと顔を上げる。
立っていたのは、途中で駆け込んできた、あの中年の男性だった。スーツの裾が風で少し揺れている。
「お医者様だと……お聞きしました」
私は慌てて涙をぬぐい、立ち上がった。重い体を引き上げるように、まっすぐ男性と向き合う。
「当ホテルで殺人事件が起こるところでした……」
男性は感慨深げに言いながら、一枚の名刺を差し出した。
「貴方のおかげで、彼は命を取り留めたと聞きました。本当に感謝いたします。私、このホテルの支配人でして……」
受け取った名刺に『米花プラザホテル』と書かれているのをみて、ここがホテルの屋上だったと知る。
くすぐったい気持ちになりながら、名刺を受け取った。そして、自分の名刺をポケットから取り出し、支配人に渡した。しかし、渡してからはっとする。名刺の表面に、彼を処置したときの赤黒い血痕がところどころ滲んでいた。きっと、スマホを探していたときについてしまったのだろう。
「すみません、汚れてしまって……」
「いえ、とんでもない。第一発見者がお医者様だなんて、あの彼は本当に幸運ですよ」
支配人はにこやかに受け取り、私の名刺を慎重に見つめた。
「貴方のお名前は?」
「宮間りかです。東京大学病院で勤務しています」
「そうですか。本日は当ホテルにご宿泊で?」
「…あ、いえ。違います」
「……では、どうしてこの屋上へ?」
支配人の表情が、不思議そうに曇る。
「どうして……」
確かに、どうして…。そうだ、私もそれを知りたかった。一体、どうしてこんな所にいるのか。
「あの、そのことなんですが……」
「支配人!彼の免許証がパンツのポケットから出てきました!"アムロトオル"様というらしいです!」
「そうか…!よくやった!すぐに宿泊リストの中から……」
別のスタッフが駆け寄り、支配人を呼ぶと、そのまま救急隊の方へ向かって走り去ってしまう。
取り残された私は、その名前を頭の中で
「……アムロトオル?」
――どこかで聞いたことがある名前だ。
それもただの知り合いなんかではなく、もっと馴染みのある響き。けれど、思い出せない。
"アムロトオル"って凄い人?彼は有名人?だからこの名前に引っかかるのかもしれない。…ああ、昔歌手に安室って人がいたからだ。と納得する。
――いや、違う。歌手の安室は女性だ。だとすれば、アムロトオルって誰?思い出そうとするが、何もでてこない。
頭を悩ませていると、不意にポケットの中でスマホが震えた。驚きながら取り出す。見慣れない形のスマホ――彼のものだ。処置の時に、誤って自分のポケットに入れてしまったらしい。あとで救急隊の人に渡さないと。
ディスプレイは"非通知"だけど、きっと出た方がいいよね。彼の知り合いなら、この状況を知らせた方がいい。
迷いながらも、私は応答ボタンを押した。
「もしも……」
『っ、フルヤさん…!!今どちらに?!』
「え、えっと……フルヤさん?」
『……あなた、誰ですか?』
予想外の第一声に、息を呑んだ。耳に飛び込んできたのは、焦燥に満ちた男性の声。
"フルヤさん"って誰のことだろう。これは、"アムロトオル"さんのスマホのはずなのに。
「す、すみません。私は医者で……アムロトオルさんが倒れていたのを発見して、処置をしました。今は救急隊が――」
『倒れ……?!…容態は?!』
不思議に思いながらも状況を説明すると、電話の向こうでドタバタと走り出す音が響き出す。
『場所は何処ですか?!』
えっと…と言葉を濁す。
さっき支配人から受け取った名刺に目を向けた。
「…米花プラザホテルの屋上です。そろそろ、病院に搬送されると思います」
『すぐに向かいます!』
「カザミ」と名乗った男性は、それだけ言い残して通話を切った。
よかった。とりあえず来て下さるみたいだ。カザミさんはきっと、彼の知り合いなのだろう。それなら安心できる――。
そう思ったのも束の間だった。
カザミさんらしき男性は、5分も経たないうちに屋上の扉口から飛び込んできた。
息を切らせ、周囲を鋭く見渡す。よほど急いで駆けつけたのだろう。スーツの襟元は乱れ、額には汗が滲んでいた。
屋上ではまだ、救急隊が忙しなく動き回っている。
「貴方が電話の……!」
「そ、そうです!」
私が答えると、カザミさんの視線がすぐさま足元へ向かう。
そこには、まだ乾ききらない彼の血溜まりが広がっていた。その光景に、カザミさんは息を呑む。
「……すみません、想像以上で」
その言葉には、驚きだけでなく、どこか抑えきれない動揺が滲んでいた。そして、じっと血痕の中心を見つめながら低く呟く。
「フルヤさん……どうして……」
――やっぱりおかしい。
フルヤさんって?あの男性の名前はフルヤさんというの?でも、彼の免許証には「アムロトオル」とあったはずだ。それなのに、この男性は彼をフルヤさんと呼んでいる。どういうことだろう。免許証の名前と違う。
――いや、それだけじゃない。カザミという名前。フルヤという名前。どこかで聞いたことがある。それも、一度や二度ではない。まるで、読み慣れた物語の登場人物みたいな。
処置をした時の、彼の容姿を思い起こす。灰青色の瞳とミルクティー色の髪。褐色の肌。そしてアムロトオルという名前――
その瞬間、雷に打たれたような衝撃が背筋を貫いた。
「この恩は、必ずお返しします」
思考が追いつかない私に、カザミさんは深々と頭を下げる。
「私、公安警察の風見と申します。警察で証言をお願いしたいのですが……お名前をお伺いできますか?」
この眼鏡の男性もまさか____。
目を見開いて彼を見つめる。いかにも理系っぽい黒いフレームの眼鏡をかけて、緑がかったスーツを着ている。そして、なんの技巧もない黒い短髪に薄めの眉毛…。
たえず耳の奥で、警告のように耳鳴りがしていた。
「は、はい……もちろんです。それと……宮間りか、です…」
自分でも驚くほど、消え入りそうな声だった。
「宮間さんですね、そうしましたら…」
何か言おうとしたカザミさんだが、彼のスマホの着信音によって背を向けられる。
……信じられない。夢でも見てるの?言葉では説明出来ないほど、不思議なことが起こってる。分からない。考えれば考えるほど、現実が溶解していって、夢と現実がごちゃごちゃになって、私が今、どこに立っているのかさえ分からない。
『すみません……。第一発見者が、救急車を呼んでしまったみたいで…』
ぼんやりと、カザミさんが電話で話す姿を見つめる。その瞬間、視界がぐらついた。
足元がふわりと浮き、膝が砕ける。そのまま、私は重力に引かれ、暗闇に沈む。意識が、静かに遠ざかっていった。
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