87
まぶたの裏に、やわらかい光が差し込んできた。
頬に触れていた布の感触が、ゆっくりと意識に浮かぶ。パリッとしたリネンの枕、重く感じる掛け布団。耳を澄ますと、電子音が一定のリズムで鳴っている。
この音を、私はよく知っている。誰かの呼吸と心臓の動きが、機械によって読み取られ、表示されているその音。
「………」
ゆっくり瞬きをしながら、瞼を持ち上げた。視界が白く滲む。窓から差し込む朝日が、やけにまぶしい。
天井の白、壁の白、カーテンの白。どれもが無機質で、けれど馴染みのある空間。
──私、生きてる……?それが、最初に訪れた驚きだった。
あの爆風。あの閃光。そして、音の消えた世界。破裂音と共に視界が弾け飛んで、次の瞬間、何もわからなくなっていた。
天井に仕掛けられた爆薬に、犯人が自ら拳銃を向けた。私の目の前で。全身が空中に浮いたような感覚と共に、熱と風と光が身体を吹き飛ばした。
──死んだ、と思った。確実に、そう思ったのに。
「……いっ、……」
少しでも身体を動かそうとすると、ズキッ、と首の奥が疼く。その瞬間、あちこちに散らばっていた感覚が、洪水のように戻ってくる。
頭が重い。右腕の関節が引き攣れていて、首筋から肩にかけてしびれたような違和感がある。それに、左足が、動かせない。
試しに腕を持ち上げようと、そっと力を入れた──けれど、その動きは途中で止まった。
何かが、触れている。自分の左手を包むように、外から重なるもう一つの体温。静かに寄り添うようなやさしさを帯びたそれは……。
ゆっくりと顔を横に向けると──ベッドサイドの椅子に、前屈みに座っている影。眠っているのか、金色の髪が額を覆うように落ちていて、表情までは見えない。
けれど、私の左手を両手で包むその仕草が、あまりにもやさしくて、痛みすらも忘れそうになる。
「……れ、いさ……?」
名前を呼んだつもりだった。けれど、自分の声はかすれてほとんど出ていなかった。
それでも、指先に伝わる圧が、ふっと変わる。眠っていたはずの彼が、こちらの気配に気づいたのかそっと顔を上げた。
「……りか、さん」
それは、思っていたよりずっと低かった。震えるような、安堵のにじんだ声。
私が小さく瞬きをすると、彼がゆっくりと微笑む。目の下にうっすらと浮かぶ青い隈。こめかみに当てられたガーゼ。袖をまくった腕には擦り傷が見える。
それでも、その瞳だけは、何ひとつ変わっていなかった。まっすぐに、私の中を覗き込むような眼差し。
「……れい、さん……」
言葉にしようとした瞬間、胸の奥から何かが溶けだしたように、涙が滲んでいた。まぶたの端が熱くなり、視界がぼやけていく。
目が覚めたというのに、夢のようで。夢のようなのに、こんなにも身体は痛くて。こんなに、息をするたびに胸が震える。
その名を呼んだ瞬間、何かが確実に変わった。椅子に座っていた零さんは、静かに立ち上がる。そして上体を起こそうとする私の背中に、そっと手を添えてくれた。驚くほど丁寧で、優しくて。まるで壊れ物に触れるように、ゆっくりと私を支えながら起こしてくれる。
「無理しないで。ゆっくり、深呼吸して──そう、それでいい」
低くて落ち着いた声が、耳元でそっとささやかれる。その声に導かれるまま、私は痛む身体を懸命に支えながら、少しずつ起き上がっていく。
筋肉が軋み、胸が焼けるように痛む。けれど、そのすべてが現実だった。彼の手がある。支えてくれている。その腕の中に、私はいる。
「れい……さん……」
もう一度、名前を呼んだ。かすれた声。
けれど、それでも呼びたかった。名前を呼ぶことでしか、この現実を確かめる術がなかった。
「れいさん……」
今度は少し強く、震える手を伸ばした。
指が彼の頬をそっと掠める。零さんは驚いたように少し目を見開いたあと、同じように自分の手を私の頬へと重ねてくれた。
「……いるよ、ここに」
短い言葉だった。けれど、あまりにも深く染み込んでいくような声。その響きだけで、堪えていた何かがぐらっと崩れてしまった。
「……れい、さん……わたし……わたし……っ」
「大丈夫。もう大丈夫」
その一言に、心の奥に溜まっていたすべてが、音もなく崩れていった。声にならない嗚咽がこみ上げてくる。
「……っ、わたし……もう、二度と……あなたに会えないんじゃ、ないかって……っ本当にしんだ、かと…!……だって、ばくだんが……あんな……!」
「そんなこと、僕がさせない」
言葉が、ひとつも整わなかった。ぽろぽろと大粒の涙が溢れる。安心させるように私の頭を撫でる零さんの目元も、少し濡れていた。
「…っ、れい、さん…」
「りかさん」
名前を呼ばれるたびに、胸がきゅっと締めつけられる。こんなふうに名前を呼んでくれる人がいて、こんなふうに名前を呼びたくなる人がいて。今、私は生きている。そのことが、ただ嬉しくて、切なくて、苦しくて。
私は、零さんの胸に顔を埋めるようにして、肩にすがりついて泣いた。彼は何も言わず、そっとその背中に腕を回してくれた。優しく、静かに、まるで時間ごと抱きしめるように──。
「…っ、あの」
涙を目に浮かべたまま見上げると、零さんは目を細め、そっと私の前髪を掻き分けて額に手を添えた。たまらなく懐かしい体温が、私の肌をそっと撫でる。
「……私……どうやって助かって……?」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
「どうやって……私の居場所が……?あの人……っあの場所……誰にも言ってないのに……助かるなんて、思ってなくて……っただ、怖くて……!」
思考も、記憶も、すべてがごちゃ混ぜになっていて、まとまらない。
零さんは一度視線を落とし、それから静かに、安心させるように答えた。
「……幸い、君は吹き飛ばされた衝撃で瓦礫の直撃を免れたんだ。工場は爆薬でほとんど崩落していたけど、君は壁の隙間に落ち込むような形で倒れていた。だからすぐに医療班を呼んで、搬送させた」
零さんの声は落ち着いていた。
けれど、その静けさの奥にある熱と痛みが、痛いほど伝わってくる。
「居場所は、犯人の痕跡を辿ったんだ。監視カメラの死角に現れた足取りとか、捨てられてた車、使い捨ての通信端末……その全部を手がかりにして」
私はその顔を見上げたまま、すぐには何も言えなかった。
零さんがどれほどの緊張と焦燥のなかで、あの場所にたどり着いてくれたのか。どれほど必死に、私を救ってくれたのか。それが分かって、心が震える。
「助けてくださって、本当にありがとうございます……」
「いや、お礼を言われるようなことは何もしてない。逆に僕は、君に…謝らなければならないことがたくさんある」
「え……?」
しかし、想像と反して落ちてきたその言葉が、私の胸を小さく叩いた。
謝る?彼が私に?一体、何を…?私の居場所を探し、助け出してくれた。こうして私が目を覚ますまで、側で待っていてくれた。それ以上、何があるというのか。
私が感謝をするのは当たり前だ。けれど、零さんは思い詰めたように口を開く。
「君を──あんな形で、また危険に晒してしまったこと。…僕は、守るどころか、君を再び巻き込んでしまった」
静かな声だった。けれど、その言葉のひとつひとつに、激しく胸を抉られるような苦悩が滲んでいる。
「すべては僕の判断ミスだ。"これは夢だった"と描き換えることが、君を守ることにつながると信じていた。…今回も同様に、極力この世界から遠ざけることで君を守れると思っていた。…本当にごめん」
声が震えていた。静かな語調のまま、抑えられた熱を孕んでいる。
後悔と、痛みと、やりきれなさと、そして──どうしようもない愛情の色。私の背中を支える片手が、かすかに震えている。
「そんな…!零さんは……私を助けてくださったじゃないですか……私、あのとき……もうダメだって……でも私、ちゃんとこうして生きてます……」
思わず私がそう反論しても、零さんはかぶりを振った。その仕草が、まるで自分自身を赦すことを拒んでいるようで、私は言葉を継げなくなる。
「あと一歩遅ければ、君を永遠に失うところだったんだ。あの爆発から生き残ったのも…奇跡で、少しでも打ちどころが悪ければ、こうして言葉を交わすことさえ叶わなかった」
零さんは顔を伏せ、その声は深く沈んだ。
言葉が、深く染み込んでくる。身体の痛みよりも、心の痛みのほうがずっと鋭く突き刺さった。その姿があまりにも苦しくて、私はぎゅっと眉を寄せてしまう。
「君を失うかもしれないと、とても怖かった」
ぎゅっと唇を噛む零さんの横顔に、光が差し込む。カーテンの隙間から漏れたその光が、彼の頬を優しくなぞっていた。
「──離れるべきじゃなかった。君の側から、決して離れるべきじゃなかった。あのときだって、夢にするなんて判断が間違ってた」
その一言で、胸の奥が大きく揺れた。
それは──すべてを"夢だった"としたあの日のことを、まるで過去の自分の行動として悔やんでいるように聞こえた。
私は息を呑んだ。静かに、けれど確かに、脳裏に一筋の光が差し込む。
「零さん……」
恐る恐る名前を呼ぶと、彼はその声に応えるように、ゆっくりと視線を私へ戻す。
胸の奥で、なにかが音を立てて溶けていく。
「──もしかして……記憶が……?」
その言葉は震えながら、私の唇から零れ落ちた。
すがるような声だった。
違ったら、どうしよう。ただの希望的観測だったら、どうしよう。全部、私が「そうであってほしい」と思い込んで、勝手に意味を与えていただけだったら…。
しかし、そんな私の不安を押し除けるように、零さんの手が、そっと私の耳の後ろに滑る。
「……もう、離れない」
優しい声だった。
かつて"安室さん"がしていたように私の髪に指を通しながら、囁かれる。静かで、ひとつひとつの言葉に、時間が積み重ねられているようで。聞いた瞬間、呼吸が止まりそうになった。
「一緒に帰ろう」
──ああ。心の奥にある何かが、ぱちんと音を立ててほどけた。
「……ほ、ほんとうに……思い出して……?」
もう一度だけ、問いかける。
どうしても、聞きたかった。彼の口から、今度こそはっきりと。
零さんは、わずかに目を細める。そして、その問いに答えるように、ゆっくりと自分の額を私の額にそっと重ねてきた。まるで、心と心を重ねるように、そっと、静かに。
「……うん。全部、思い出したよ」
それは、祈りのように優しい声だった。
私の世界が、その一言で、音を立てて塗り替えられていく。
「君がどんな想いで、僕のことを何度も救ってくれたか……どれだけ僕に寄り添ってくれていたか……全部、知ってる」
「……っ……」
もう、何も堪えられなかった。言葉を繋げようとした唇から、震える息が零れた。
感情が、いっきに決壊する。さっき泣いたばかりだというのに、再び涙が溢れ出す。頬を伝って、顎を濡らし、彼のシャツに吸い込まれていく。
「本当にごめん」
零さんにぎゅっと抱きすくめられた。強くて、でも、壊してしまわないように慎重なその抱擁に、彼の悔しさと愛しさがすべて込められていた。
その胸元に顔を埋めたまま、私は絞り出すように声を震わせる。
「あむ、ろさん……っ」
それは、最初に出た癖のような呼び方だった。 でもすぐに、それでは足りない気がして、もう一度、彼の名前を呼ぶ。
「れいさん……!」
しがみつくように腕に力が入る。
「あむろさん…!」
名前を呼ぶたびに、胸の奥から、何かがこぼれていく。どちらも私にとって、かけがえのない彼だった。
物語の中で出会った優しい安室さんも、私を守り続けてくれた零さんも──全部、彼だったから。
「……れいさん……っ、あむろさん……っ、私……っ、あなたが……!」
もう何を言いたいのか、自分でもわからない。ただ、ただ名前だけを呼びたかった。彼のすべてを、今ここにいる“彼”を、確かめたくて。
すると、零さんが、抱きしめたまま、囁くように小さく返事をくれる。
「…はい、りかさん」
「あむろさん……っ」
「はい」
「れいさん……っ」
「はい」
そのたびに、優しく頷くような声が、私の耳元に落ちる。一つひとつの返事が、まるで返ってきた心音みたいに、確かに響く。
私は泣きながら笑った。返事がもらえるたびに、心の奥がじんわりとあたたまっていく。
「君をこんな目に遭わせてしまった。なのに、それでもまだ君の側にいたいと願うのは……僕のエゴだろうか?」
零さんの声が、私の肩口で震えていた。
私は、首を横に振った。何度も、何度も。涙が零れるのもかまわず、震える呼吸のまま、小さく、それでもはっきりと──否定の意を込めて。
「……エゴ、なんかじゃ……ないで……っ……」
嗚咽まじりの声が、喉からこぼれる。
しっかりとした言葉にならない。けれど、胸の奥から、どうしようもなく溢れてきた想いだけは、確かだった。
「私……ずっと、ずっと願ってて……零さんに、もう一度、会いたくて……!」
声が裏返る。込み上げる涙に呼吸が追いつかない。でも、止めたくなかった。この想いを、この瞬間だけは、どんな言葉でも伝えたかった。
「でもっ、たとえ……記憶が戻らなくても……また側にいれることが、奇跡だって……それでも、側にいたいって……っ……!」
顔を覆いながら、肩を震わせた。どうしてこんなに涙が出るのか、自分でもわからなかった。けれど、零さんの腕が背中にある限り、私は安心して泣くことができる。
やがて──そっと、そっと抱きしめられる力が、弱まっていく。零さんは、私の肩から腕を離すと、そっと両手で私の顔を包んだ。濡れた頬を優しくなぞる指先。
「……りかさん」
甘く、掠れるような声。けれど、その音はまるで祈りのように、私の心に触れてくる。
そのまま、ゆっくりと私の額に唇を落とす。その一瞬の触れ合いが、すべての答えを物語っていた。
「顔をよく見せて」
そう言った零さんは、ふっと表情を和らげると、少しだけ身体を引いて、私の瞳をじっと見つめた。長い睫毛の影が頬に落ちている。
そして── 一拍の静寂ののち、唇が動いた。
「……好きです、りかさん」
その言葉が、あまりにも自然に、あまりにもまっすぐ、私の耳に落ちてきた。
まるで呼吸を忘れてしまったかのように、胸がきゅっと縮まる。何か聞き間違えたんじゃないかと思った。けれど、零さんの瞳は逸れることなく、まっすぐに私を見つめている。
「前に言ってたよね……"夫が 好きだ とも言わないで消えてしまった"って。……これからは何度だって言うよ。君のことが好きだよ、りかさん」
言葉が胸に降りてきて、心臓の奥で小さく弾けた。
──好き。私は、その一言に、全身が包まれるのを感じた。今まで幾度も名前を呼び合い、触れ合い、心を交わしてきた。それでも、この“好き”というたった一言が、こんなにも深く、こんなにも鮮やかに、私の中を塗り替えてしまうなんて。
「……れ、零さん……」
涙があふれていた。止めどなく、頬を伝って落ちていく。けれど、これはもう悲しみの涙じゃなかった。
言葉にならない想いがこみ上げて、私は震える声でかすかに笑った。
「……そんなの……ずるい……」
泣き笑いになりながらも、気づけば私は首を横に振っていた。すると、彼のその瞳に微かな戸惑いが浮かぶ。
「あ、ちが……いやで振ったんじゃなくて……」
そうじゃない、そんなわけがない。違うのに、うまく言葉にならない。
嬉しくて、信じられなくて、苦しくて。どうしたらいいかわからないくらい、胸がいっぱいで──ただ首を横に振ることでしか、この溢れそうな感情をどうすることもできない。
「……嬉しすぎて……、どうしたらいいのか、わからない……!」
やっと言えたその言葉に、自分でさえ涙が込み上げる。零さんは、そんな私の涙を指先でそっと拭った。優しく、何度も、まるで一滴も取りこぼさないように。
「…それならよかった」
その声は、震えていた。けれど、そこに込められた安堵と優しさが、すべてを伝えてくる。
私は思わず、彼の胸元に顔を埋めるようにして、また涙をこぼした。抱きしめてくれるその腕の中で、心が静かにほどけていく。
「……私も……大好きです……零さん」
ようやく届いた、そのたったひとつの言葉。それだけで、もう何も怖くなかった。もう、何も失いたくないと思った。
ふたりの心が、やっと同じ言葉で触れあえた。──その事実だけが、すべてを赦し、すべてを包んでいた。
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