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side: Kazami


夜の病院は、どこか異様な静けさに包まれていた。廊下の蛍光灯が白々と光り、壁に貼られた案内板や張り紙がやけに冷たく見える。消毒液の匂いと微かに混じる鉄の匂いが、胸の奥で薄く残っていた興奮をじわりと引き戻してくる。
そのまま早足に目的の処置室まで駆けつけると、その廊下。静けさに包まれたその一角で、降谷さんがベンチに座っていた。あの人が、こんなふうに肩を落として座っている姿を見るのは、初めてだった。
傷だらけのジャケットは横の椅子に脱ぎ捨てられ、ワイシャツの右袖は裂けて皮膚の擦過傷が覗いていた。普段なら気を配って整えているはずの髪も乱れ、額には乾ききらない血の筋がある。
それでも、彼は一言も痛みを訴えなかった。深く俯き、前髪の隙間からのぞく瞳はどこか遠くを見ていた。──まるで、世界に取り残されたような表情。自分は、少し離れた場所からその姿を見つめる。
拳が固く握られていて、その中に何かを握り込んでいるのがわかった。金属のような光沢──よく見れば、それはチェーンに通された指輪。しかも、そのデザインには見覚えがあった。
──降谷さんの左手薬指にあるものと、同じだ。

「……」

気づいた瞬間、自分の胸にざらつくような感情が広がった。さっきまでの現場の緊迫感から解き放たれたばかりの頭が、今さらになって問いかけてくる。
──あの女性は、ただの人質だったのか?
爆発現場から救い出された女性は、現在処置室で治療を受けている。深刻な外傷ではあるが、命に別状はないという報告を受けた。
救急搬送の際、降谷さんは当然のように彼女の傍を離れず、一緒にストレッチャーへと付き添った。降谷さんの今までの行動としては異例だった。ましてや、彼が現場で見せたあの感情の揺らぎ──冷徹で的確な判断を誇る彼にしては、明らかに異質だった。
──わかる。何かが、違うと。

「……降谷さん」

声を掛けても、その背は微動だにしなかったが、肩に宿る力だけがほんのわずかに強くなったのを感じる。
一瞬、ためらった。けれど、今この場で報告しなければならない。それが、自分の務めだった。

「……爆破現場の件ですが、先ほど確認が取れました」

降谷さんの背に向かって、慎重に言葉を紡ぐ。

「犯人は……崩落した鉄骨の下敷きになっていました。即死でした。身元は、まだ正式には照合中ですが、十中八九、その“犯人”で間違いありません」

返事はなかった。けれど、降谷さんの呼吸が、ほんの僅かに変わった気がした。さらに静かな声で続ける。

「……鑑識の結果、自身の頭上の爆薬に向かって撃っていた形跡があります。……自身を巻き添えにしても構わないという判断だったと思われます。最初から生きて出るつもりはなかったのでしょう」

その言葉に、降谷さんはようやく小さく頷く。まるで、報告のひとつひとつをその身体で噛み締めているかのようだった。
けれど、やはりその顔は見せてくれない。その背中は、ただ黙って夜の廊下の先に向けられたまま、そこに静かに佇んでいる。
これ以上の言葉を続けるのは違う気がして、口を閉じた。報告は終えた。それでも胸の奥には、まだ消化しきれない思いが渦巻いていた。

「……人質だった彼女と……知り合いですか?」

言葉を選んだつもりだった。だが、自分でも驚くほどにその声は硬かった。
降谷さんはすぐには答えなかった。顔を上げもしない。ただ、その指先が、手のひらの中の指輪を無意識に強く握りしめる。

「……ああ」

ようやく、降谷さんの喉が動いた。その一言だけだった。だが、その声の低さと、張りつめた熱に、思わず息を呑む。

「……その、もし差し支えなければ……ご関係を、伺っても?」

あまりにも不躾な質問だった。自分自身、そう自覚していた。だが、それでも知りたかった。知るべきだとも思った。
降谷さんは長い沈黙ののち、ゆっくりと右手を開いた。煤にまみれた指輪が、廊下の冷たい光にきらりと光る。そして、左手に目を移す。そこには、同じデザインのリングが静かに嵌められている。

「……妻、かな」

息を呑む音を抑えられなかった。
妻──。何度も任務で降谷さんと行動を共にしてきた。何度も、彼の冷静な判断力と鋭い分析に驚かされてきた。けれど、そんな彼から「妻」という言葉を聞いたのは、初めてだった。

「そ……う、でしたか……」

自分でも驚くほど、声が震えた。
それが驚愕なのか、安堵なのか、それとも別の感情なのか──うまく言語化できない。
でも、まさか。ずっと気になっていた指輪の意味。現場での異常なまでの焦り。彼女を庇うようにして炎の中から出てきたあの姿。すべてが、つながってしまった。
そして、もう一つ。その言葉の裏で、ふいに脳裏をよぎったのは、少し前──黒田管理官から個人的に受けたあの厳しい言葉だった。

『…降谷の指輪の相手について、確認を取れ。相手の素性が掴めないなら、交際届を提出させろ。潜入捜査に支障がでるようなら、“別れさせる”判断も辞さない』

静かで低い声だったが、その語気は決して揺るがなかった。公安において、個人的な交際がどれほど重大な意味を持つか。もしその相手が情報漏洩や国家リスクにつながる存在だった場合──それは即座に“危険”に変わる。
それでも。今、目の前で指輪を握りしめている降谷さんの姿に、“職務上の懸念”を重ねることはできなかった。
──黒田管理官に、報告するべきだろうか。だがその問いが浮かぶたびに、自分の中の何かが抗う。あの爆炎の中で、命を顧みず彼女を抱えて飛び出してきた降谷さん。その背にあった決意と、今この指に残る指輪の輝き。どれも、偽れるものではない。
報告は……もう少し、後でもいい。今は、目を覚ます彼女を、静かに待ってあげてほしい。
ふと、降谷さんが立ち上がる。まだ治療も受けていない身体のはずなのに、姿勢は変わらず背筋が伸びていた。

「彼女の処置が終わったら、すぐに連絡してくれ。……少しだけ外の空気を吸ってくる」
「ま、待ってください、降谷さん……!」

その背に手をかけかけて、反射的に声をあげていた。焦りのようなものが、胸の奥から突き上げてくる。

「その怪我、放っておいたらまずいです。……頭も、手も、血が……」

ただでさえ、全身が煤と血で汚れている。傷口もいくつか見えた。明らかに満身創痍なのに、それを意識していないかのように歩き出そうとする姿に、喉が締めつけられる。
拳を握ったままの手は、あの指輪を強く握り込んだせいか、指の節が白く浮き、皮膚が裂けかけている。
何より、額の左側──ちょうどこめかみのあたりから、血がにじんでいた。乾く前のそれが頬をつたっていたのに、本人は何ひとつ気づいていない様子だった。

「……っ」

降谷さんの足が止まる。その場に立ち尽くしたまま、彼はゆっくりと、自分の右手に視線を落とす。そして、そのまま顔の左側──こめかみに触れた指先が、血で濡れていることに気づいた。

「ああ……」

小さく、呆けたような声が漏れた。まるで今の今まで、痛みすら感じていなかったかのように、言葉が途切れる。それだけ、彼の意識は彼女に向かっていたということだ。

「応急処置だけでも受けましょう。彼女が目を覚ましたとき、あなたが血を流していたら意味がありません」

絞るように、そう付け加えると──降谷さんは静かに息を吐いて、ようやく肩の力を抜いた。

「……ああ。すまない。ありがとう」

降谷さんは、しばらくその場に立ったまま、拳の中の指輪をそっと見つめた。
震える指先で、リングを一度、チェーンごと胸元に収める。まるでそれを懐にしまって初めて、自分の輪郭を思い出すかのように、少しだけ表情が戻ったように見えた。

「……それでも、彼女が目を覚ましたら、すぐ知らせてくれ。それだけは頼む」
「もちろんです」

自分がうなずくと、降谷さんは一歩、歩み出た。
そして、医療スタッフのいる方向へ、少しだけ足取りを重たげに向かっていく。
──その背中には、ようやく現実の重さが戻ってきたようだった。










処置を終えた降谷さんが、病室にやってきたのは、深夜の静寂がより濃くなった頃だった。
病室の中に立ったまま、この小一時間、彼の代わりに自分はここにいた。ただの部下の自分にできることは、そう多くない。
ゆっくりとノックの音がして、自分がドアを開けると、そこには薄暗い顔色のまま、背筋だけは変わらずに伸ばした降谷さんが立っていた。白シャツの襟元には乾ききらぬ血の痕がまだうっすらと残っている。
ベッドの上には、眠る女性が静かに呼吸を繰り返していた。心電図の単調な電子音が、病室の静寂にかすかに混じっている。明滅する緑のランプが、彼女の命を確かに証明しているかのようだった。

「医師の見立てによると、明日には目を覚ますだろうとのことでした」
「……そうか」

できる限り平静を装いながら、必要最低限の報告を告げる。降谷さんは一瞬だけ彼女に視線を落とし、静かに息を吐いた。肩が、ほんのわずかに緩んだ気がした。その声音に、少しだけ血の通った温度を感じて、内心ほっとする。

「……あちらに、着替えを用意しておきました。サイズは、以前にお使いだったものを参考にしました」

棚の上の紙袋を指さしてそう伝えると、降谷さんは目を細め、わずかに表情を緩めた。

「悪い、そんなことまで」
「いえ……では、自分はこれで。降谷さん、少しでも眠ってください。無理はなさらず」

そう言って一礼し、ドアノブに手をかけた。
もうこれ以上自分この部屋に居るべきではないと、言い聞かせながら。けれど──どうしても引っかかる言葉が、心の奥に澱のように沈んでいて、扉を開ける手を途中で止めてしまった。

「……あの」

手を緩め、振り返る。

「……黒田管理官が……指輪の相手の素性について報告しろと、仰っていました」

空気が、ぴたりと静止する。言ってから、自分の言葉の重みをひどく後悔した。
──本当にこれを、今、口にすべきだったのか?だがそれでも、言わずにはいられなかった。彼女が“言えないような相手”なのであれば、対策を考えるための時間が要る。自分はただ、降谷さんのために──そう、信じていた。
降谷さんは顔を上げなかった。それでも、低く確かな声が返ってくる。

「…知っている。君にそういった話が行っていることは」

その言葉を聞いた瞬間、思わず目を見開いた。
やはりこの人に、隠し事など通用しない。この人の洞察力は、常に自分の一歩も二歩も先を行っている。どれほどのことを見抜いていて、どこまで予測しているのか。想像するだけで、背筋がひやりと冷たくなる。
それでも──問いかけずにはいられなかった。自分の中に渦巻く不安は、すでに「任務」の枠を超えていた。

「……では、なんと報告すれば……よろしいでしょうか」

少し喉が詰まる。普段のように滑らかには言葉が出てこない。一拍置いて、降谷さんはほんの一瞬、瞼を閉じた。その仕草は沈黙のようでいて、まるで胸の内の葛藤を隠すための、ささやかな時間稼ぎのようにも見えた。長い睫毛の影に隠れるその表情からは、感情の輪郭を読み取ることができない。やがて、静かに口が開く。

「……まだ、少し待ってくれ」

低く、それでもはっきりとした声で言った。
表面上は抑えているつもりなのだろう。だが、その奥に──芯に灯っているものは、明らかに“ただの保留”ではなかった。

「彼女には…証明できる戸籍がないんだ」

その一言が、頭の奥で鈍い衝撃音のように響いた。まさか。ずっと恐れていた最悪の可能性が、今、目の前で現実となって突きつけられた気がした。
戸籍がない──それは、この国のシステムにおいて、存在しないも同然という意味を持つ。公安の人間として、それが何を意味するのか、自分は痛いほど理解していた。公安の規定に照らせば、身元不明の相手と交際は重大な懸念事項だ。それがたとえ“妻”であっても──否、“妻”であるなら尚のこと。

「彼女とは、どこで……?」

震える声で思わず尋ねてしまう。けれど、その問いに降谷さんはゆっくりと首を振った。

「複雑すぎて説明が難しい。だが、これだけは言える。彼女は危険な相手ではない。僕にとって……特別なんだ。彼女は、僕の唯一の家族なんだ」

その目が、真っ直ぐに自分を射抜く。どこまでも静かで、けれどその奥には何か深く揺るがぬ意志があった。──家族。その言葉が、胸に深く刺さる。

「作られた虚構じゃない。実態のある、意味のある“家族”。設定されたものではなく、自分の意志で選んだ──初めての運命」

降谷さんの話の全容が、あまり理解できなかった。彼の言う“虚構”とはなにか、“運命”とはなにか──その意味を正確に汲み取るには、自分はあまりに凡庸で、あまりに狭量すぎた。
それでも、彼の言葉が嘘ではないと、胸に響く何かが告げていた。何かを隠すような様子は一切ない。ただ、ただ真っ直ぐに“彼女”という存在を見据え、信じている。

「だから僕は諦めきれない。…方法を考えるよ」

その静かな決意に、思わず背筋が伸びる。もう、自分には頷くことしかできなかった。

「……わかりました」

ようやく声を絞り出し、深く一礼する。降谷さんは何も言わなかった。ただ、小さく頷いたように見えた。
きっと、彼にしかできないやり方があるのだろう。今はただ、信じるしかない。
自分は静かに病室を出る。背後では、まだ眠りの中にいる彼女の心電図が、変わらぬリズムで小さく鳴っていた。
──きっと“あの女性”は、降谷零という男の人生を、変えてしまったのだ。そして、それはおそらく──悪い意味では、なく。




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