運命の人






 なんだか無性に喉が渇いた。身を起こすと目の前には机。広げられているのはガイダンスの資料。どうやらこれを眺めているうちに眠ってしまったようだ。何時ごろから寝てしまったのかはわからないが、そう短い時間ではないだろう。凝り固まった首をさすりながらそう思った。寝ぼけ眼を擦り、なんとか足に力を込めて立ち上がる。部屋には飲みかけのミルクティーがあるけれど、砂糖をたっぷり入れてしまったから起き抜けに飲む気にはなれない。
 面倒だけれど水かお茶を買うためにラウンジに出た。髪はボサボサだし着ているものはこの間まで中等部で着ていたジャージだ。少しだらしないけれどこの格好で会うのが憚られるような人なんて、この寮にはいないし、どうせすぐ眠るのに着替えるのも億劫だ。自販機にポケットから取り出した小銭を入れようとして、ようやく私はあたりの不気味なほどの静けさに気づいた。壁時計を確認すると、全ての針は12でピタリと静止していて、秒針すらピクリとも動いていない。
「うわ、あぶな。今、自販機使えないじゃん。」
 小声で呟いてから指先を離れそうだった硬貨をしっかり握った。午前零時からしばらく、世界は影時間に包まれる。
 その中では、電気や機械の類はてんで使えない。水道だって止まってる。水分を取りたきゃこのまま影時間が明けるまで待ちぼうけるか、一階にある冷蔵庫に取りに行くしかない。少し迷って、私は後者を選択した。明日は入学式で早いからさっさと寝てしまいたかったのだ。
 とはいえ、不気味な月明かりが煌々としていても、全く電気の付いてない寮の中、三階から一階まで移動するのは骨が折れる。手摺を頼りにそろそろとすり足で移動していると階下でカタンと物音がした。まさかネズミ?いままで清掃が行き渡ってるおかげでゴキブリすらめったに見ない寮内だけど、よく言えばレトロ、正直言って古めかしいし、あり得ない話じゃない。でも、小動物がこそこそ動き回っているような気配でもない。
 先輩が帰ってきたんだろうか?いや、違う。あの熱血漢がパトロールを放り出して影時間の途中で帰ってくるわけがない。それに、微かに聞こえるボソボソとした喋り声は知らない人のものだ。じゃあ、一体誰、あるいは何が?
 バクバクと鼓動が速くなる。影時間だから、まさか強盗が押し入ったわけではないだろう。それに、不思議と階下にいるのは嫌なものであるとは感じない。心臓の高鳴りは緊張もあるが、何かを期待しているような高揚をも覚える。どうしてだろう、聞き覚えのないはずなのに、声音には奇妙な懐かしささえあるような気がする。
 声の主を垣間見たくて、あるいはもっとその声を聴きたくて耳の感覚は鋭利になり、無意識に前のめりになりかけたその時だった。
「──誰っ!?」
背後で鋭い声が発せられた。思いがけない声量に飛び上がった私は当然のように足を踏み外した。
「うおぁ!?」
滑った右足が空を切る。心臓や胃だけを数十センチ上に置いてけぼりにしたような不快な浮遊感。
「え、嘘、エリちゃん!?」
焦った岳羽先輩の声が遠ざかっていく。ズダダダと派手な音を立てて尻に火傷したような痛みが走る。動転した私は途中の段にしがみ付くこともできず、ようやく止まったのは全て階段を滑り落ちてその上だいぶ滑ってから。これはもうお尻が六つに割れた、終わった。うら若き乙女のはじらい、人間としての尊厳その他諸々。涙が滲むほどの痛みであまり細かいことは考えられない。頭の中は大忙しなのにそれに反して咄嗟のことに身体は指先一つさえ動かない。ヒリヒリするそこを撫でることもできず呆然と尻餅をつきながら見上げると、ちょうどカウンターの前にポツンと佇む人影が一つ。爛々と照る月を背にしたその人の、あまりの美しさに息が止まる。伏せられた瞼を縁取る睫毛は長く、すっきりとした鼻筋と形のいい薄い唇がバランスよく並んでいて、華やかさはないが、その人の容貌が整っていることを強く印象付けた。細い首、長い手足、華奢な肩は儚げで中性的。物憂げな表情と不穏な月光を背負っていることもあいまってどこか浮世離れした優美さがある。
 彼を仰ぎ見た瞬間軽い耳鳴りと目の前でチカチカと青白い星が舞ったのは頭もといケツをぶった後遺症か、息を止めて酸欠になったのか、はたまた別の理由か。
 夜の神秘さが形作ったような彼が、口を開きかけたとき。凛とした声が響いた。
「岳羽、待て!」
 夢見心地から冷や水を浴びた気分で振り返ると、召喚器に手を伸ばした岳羽先輩と、それを見つめる美鶴ちゃんがいた。
 緊迫してピリピリとした一瞬の後、フッと辺りが明るくなる。
「あ、明かりが……。」
 ほっとしたように岳羽先輩が呟く。
 壁時計の秒針も折り目正しく動き始める。
 影時間が終わったのだ。

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