夜を泳ぐクラゲ


 ︎︎身体が軽かった。現実と言うしがらみから解放されたみたいで、今なら何でも出来ると思った。実際何でも出来た。ぼんやりとした景色に願いをすれば、欲しい物が何だって出てくる。行きたい場所にも行ける。今まで母から「駄目だ」と押さえ付けられて出来なかった事が、何だって出来てしまった。
 ︎︎素晴らしい世界だ。私が望んでいた世界。自由な世界。この世界に来てからと言うもの、私は現実に戻りたくないと思ってすらいた。もうずっとこの世界に居て、何にも縛られる事無く生きて行きたい。そう毎日の様に願う。
― ︎︎―そう願っていた筈なのに、時間が経つとこの世界に飽きてしまった。願えば何でも出来てしまうから達成感が無い。叶わない事が無いから努力だってする必要も無い。ついで私以外に人が居ないから暇でもあった。そんな不満が徐々に私の中に蓄積されて、気が付いた頃には“戻りたい”と思うようになっていた。けれど戻る事は出来ない。私はずっと、自由に縛られたままだ。
 ︎︎そんな生活を続けている時。ふとどこからか声が聞こえて来た。

「貴方はこの世界が好き?」

 ︎︎いつしか聞いた事がある様な声。この声は……そうだ田中さんだ。秘書でマジックが得意の、ちょっと変わった人。でも何故彼の声が聞こえてきたのたろう。もしかして彼もこの世界に居るのだろうか。そう淡い期待を胸に抱き、私はどこに居るかも分からない田中さんに返答する。

「最初は好きでした。でも、もう分かりません。あれだけ願っていた事が叶ったのに、ちっとも嬉しくないんです」

 ︎︎私の声が辺りに残響する。その声をただぼんやりとした意識の中で聞いていると、また彼の声が辺りから響いてきたのだ。

「なら僕が連れ出してあげようか」

 ︎︎あの時、田中さんと居酒屋へ行った時に答えられなかった質問。それを再度聞かれて伏せがちだった顔を上げる。あの時はまだ自分の中に迷いがあって、答えを濁してしまった。けれど今ならハッキリと答えることが出来る。浅く息を吸って、上に向かって言葉を放つ。

「私を、私をここから連れ出して下さい」

 ︎︎言うなり辺りが光に包まれる。今まで作り出した虚像が煙の様に消えて、私自身も何かに引っ張られて地に縫いつけられた。途端に身体が重くなり、痛くなる。たまらず目を瞑ると、今まで聞こえて来なかったピ、ピ、ピと言う音が聞こえてきたのだ。この音は時計――いや、もっと違う何か。
 ︎︎それを確かめたくて薄く目を開けると、視界には天井が映った。それから酷く驚いた女性の顔が映ったのである。女性は数秒固まったのち「ミョウジさん、分かりますか?」と質問して来たのだ。その質問に「はい、分かります」と掠れた声で応えると、女性は慌てた様子でどこかへと行ってしまった。





 ︎︎意識がハッキリとしてから約一ヶ月。私の身の回りは大きく変化した。例えば同僚とその彼氏さんの結婚式が延期になったり、私が会社を辞める事を決意したり、それから身体が殆ど動かなくなってしまったり等。この中で一番大きな事と言えば、身体が動かなくなった事だろう。
 ︎︎原因は煙の吸いすぎか何か、あと重度の火傷。それから爆発の際に飛んできたガラスが刺さった事だろうか。要因は様々だが、私の身体は殆ど動かなくなってしまった。辛うじて起き上がったり手を伸ばしたり、あと会話や咀嚼は出来るが他は難しかった。看護師さんが言うには「精神的なダメージも負って居るので、暫くリハビリをすれば歩行くらいなら可能になりますよ」らしいが、結局歩く事はままならなかったのである。
 ︎︎こうなった原因の一つに、居酒屋さんのコンロの調子が悪かった事が関わっているらしい。私には少し難しい説明だったが、噛み砕いて言うとコンロの調子が悪くそれでも使い続けた結果――今回の事故に至ったらしい。幸いな事に死者はまだ出ておらず、どちらかと言うと私の様に重症を負った人が多いらしい。

「ミョウジさん。体調の方はいかがですか?」
「随分とマシになりました。ありがとうございます」
「……今晩は冷えますから、よく温まってお休みください」
「はい」

 ︎︎現在の時刻は夜の十時過ぎ。見回りに来たであろう看護師さんが、私の布団を優しく掛けてくれる。それにお礼を言うと、看護師さんは軽く頭を下げて病室を出て行った。
 ︎︎まるで介護をされている感覚だ。まぁ実際介護に近いんだけれど――と思いつつ、軽くため息を吐く。それから思考を巡らせる。
 ︎︎こんな事が起こってしまったが、どうして私だけと思う様な事はなかった。確かに不自由な身体になってしまったし、仕事も暫く出来ないだろう。再就職さえ難しいかも知れない。でも大事故に巻き込まれると言う、非現実的な世界を体験してしまったからだろうか。私の心は「これで良かったのかも」と言う考えに染まりつつあった。
 ︎︎――退院する前にリハビリをして、それから職に就く前に色々な場所を巡ってみよう。思い切って知らない街にでも行って見ようか。海外にも行って見たい。そんな夢がどんどんと広がって行く。今はまだベッドの上から動けないけれど、これからの事を考えるとそんなのどうだって良かった。
 ︎︎あまり力の入らない腕を使って身体を起こし、窓の外を見つめる。窓の外には綺麗な星々が輝いていて、私の目を魅了した。

「綺麗」
「確かに今日の星は綺麗だ」
「えっ?」

 ︎︎不意にどこからか声が聞こえてきて、私は辺りを見渡す。前方と隣はカーテンで区切られており、人がいる気配はしない。じゃああの声は一体――と首を動かしていると、ふと窓の縁に白いマントが引っかかっているのが見えた。そのマントに見覚えがあって慌てて「田中さん?」と呼ぶと、窓の下から人が現れる。が、それは田中さんでは無かった。
 ︎︎月のように落ち着いた銀の髪に、星の様に煌めいている金の瞳。左側の顔は傷ついており、顔立ちは西洋よりの物だ。田中さんとは全く異なる容姿、けれど直ぐに「あ、田中さんだ」と分かった。

「そんな君に星をプレゼント!」

 ︎︎田中さん――と言って良いのか分からないけれど、彼は私の手を優しく握る。と、次の瞬間。私の手にはある筈の無い花が握られていた。花は黄色く、確かに星の形に似ている。種類は多分カーネーション辺りだろうか。普段見るようなカーネーションとは少し違うけど、綺麗に咲いている。
 ︎︎私は彼に目を向けて「ありがとうございます」と笑みを浮かべる。すると彼は窓の縁に立って口を開く。

「貴方を連れ出しに来ました」

 ︎︎まるで映画のワンシーンみたいだった。背景には普段よりも輝く星々が浮かんでいて、その光がぼんやりと彼を照らす。ついで差し出された手には手袋がはめられていて、まるで白馬の王子様のようだ。
 ︎︎もしこの手を取ったら私はどうなるんだろう。この生活には戻れないのだろうか。それに、連れ出された所で私の身は――と考えた所で、彼が手を胸元に置いた。

「私の名はニコライ・ゴーゴリ。以後お見知りおきを」

 ︎︎挨拶を終えると、彼はそのまま窓の方へと手を動かす。動かした手の先には白い鳩が居た。鳥は彼の指先から動こうとはしない。その様子を見つめつつ、私は息を吸う。

「連れ出した所で私の身は今動きませんし、きっと邪魔になりますよ」

 ︎︎考えることはやはり現実的な事だ。働く事と言うか歩く事すら困難な今、連れ出されても邪魔になるかも知れない。だから眉を下げて笑うと、彼は手の先に居た鳩を窓の外に飛ばした。飛んで行った鳩は星と同化して、遠くへと消えて行く。

「私の世界が囚われている様に、貴方の世界も囚われている。あの鳩の様にね……でもそれじゃあ楽しく無いでしょ?」

 ︎︎目を細めた彼は、そのまま近付いてきて私の手に優しく触れる。彼の手はほんのり冷たくて、でもちゃんと人としての温もりがあった。彼は私の手に触れたまま口を開いた。

「さてここで君に問題です! ︎︎世界はどれ程広いでしょうか!」

 ︎︎世界はどれ程広いのか。その質問に答えられる程、私の世界は広くなかった。故に口を閉ざしたままで居ると、彼は面白くないと言う顔をしつつ開口する。

「正解は分からない! ︎︎私も世界を見て回った事は無いからね、でも見て回ろうと思えば出来る! ︎︎何故なら生きているから! ︎︎それは君も同じだろう?」

 ︎︎生きているからどこにでも行ける。私が普段考える事と真逆の考えだ。でも今なら。何も出来ない今なら、そう思う事も少しばかり出来た。私は彼の瞳を見つめながら、笑みを浮かべる。

「もし私が自由を願ったら――もっと言うと夢を願ったら、それは叶うでしょうか」
「それは君次第だ!」

 ︎︎私次第。その言葉に確かにそうだと納得する。私が夢を叶えようとしなければ、それは永遠に叶わないし――叶えようとすれば、夢が叶うチャンスが訪れるかも知れない。今の今までは「そんなの叶うはずない」と頭から否定して来たが、今日からは否定しないで見ようか。なんて心中に考えながら口を開く。

「私の夢は夢を見つける事です。どんな事でも良い。新しい物に触れて、出来なかった事をしてみたい。でも、その為にはこの現状から抜け出さなくてはなりません」

 ︎︎動かない足に目を移し、それからそっと目を閉じる。ついで私の手に触れている彼の手を取って、冷たい空気を肺に吸い込んだ。

「だから――だから私を、この世界から、この場所から連れ出してくれませんか?」

 ︎︎重かった口から出た言葉は彼の耳にちゃんと届いた様で、目を開けると彼が「仰せのままに」と口にする。その言葉遣いは紳士その物で、私は暫く彼から目を離せないでいた。すると彼は羽織っていたマントで私の身を隠す。辺りは急に暗くなる。だが不安なんて物は一切無かった。

「スリー、ツー、ワン」

 ︎︎いつしか聞いた心地よいカウントダウンを耳にしながら、私は彼の手を少しばかり強く握る。すると返事をするかの様に手を握り返されて、強ばっていた顔の緊張を解した。
 ︎︎この場所から出て、暮らしている世界から逃げて私は一体どこへ行くのだろう。分からない。想像すら付かないけれど、不思議と焦燥は感じなかった。世界がゆっくりと変わって行く。その変化を受け入れながら、私は彼に身を任せて瞼をそっと閉じた。