鬱くしいせかい
︎︎田中さんとお店に行ってから恐らく一週間くらい。いつも通り仕事をしている途中、同僚が横から顔を覗き込んできたのだ。私が顔を上げると同僚は笑みを浮かべた。
「今日飲みに行かない?」
「えっ?」
「だから飲みに行こうって。色々話したい事もあるしさー。あ、場所はいつもの所でね」
︎︎まだ行くと答えていないのに行く流れになっていて一瞬眉を顰める。だが今日は特に用事らしい用事も無いため、同僚に向かって口を開いた。
「うん、分かった」
「やった、予約任せとくね」
︎︎そう言うなり彼女は自分の席へと戻って行く。私はと言うと、彼女の後ろ姿を眺め「予約くらいしてくれても良いのに」と不満を脳内に浮かべつつ、結局はお昼に予約しようと考えるのだ。
〇
︎︎時刻は過ぎて夜の八時半。珍しく仕事が早く終わった私と同僚は、他愛も無い話をしながらお店へ向かって居た。同僚は、この前の事がまるで嘘だったかの様に楽しそうに話している。一方でこちらは少し複雑な思いで彼女の話を聞いていた。
︎︎と仕事場から歩いて数分、いつものお店へ辿り着いた。木でできた扉を開いて近場に居る店員さんに目を配る。すると店員さんは直ぐ私たちに気がついた様で、早足でこちらへやって来たのだ。
「予約していたミョウジです」
「ミョウジ様……はい、ご案内します」
︎︎いつも通りのやり取りをして、案内された席へと座る。席へと着くと同僚が我先にと言わんばかりにメニュー表を取ったのだ。ついで視線を素早く動かして飲み物の欄を見ている。その様子をぼんやりと眺めていると、彼女が言葉を吐いた。
「今日は何飲もうかな」
「あんまり酔いすぎないでね」
「分かってるよ。よし決めた! ︎︎焼酎にする!」
「……私はビールにする」
︎︎予め決めていた飲み物を口にすると、彼女は直ぐに携帯を取り出した。かと思えば一瞬嫌そうな顔をしたあと携帯を持ったまま立ち上がったのである。
「あー、私少し退席するから来たら頼んでおいて」
「ん、分かった」
︎︎返事をすると、彼女は携帯を手にどこかへ消えて行く。その間何をしようかなと私も携帯を持ち上げようとした時。こちらへ顔見知りの店員さんがやって来たのだ。
「おしぼりです……あっ、ミョウジさん。今日も来てくれたんですね、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそいつもお世話になってます」
「この間はすみません。お料理出すのが遅くなってしまったみたいで………それでなんですが、実はまだコンロが直って無いみたいで、今日も遅くなってしまうかも何ですが大丈夫ですか?」
「全然大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!あ、ご注文お伺いしますね」
「焼酎と生ビール、あっ焼酎は水割りでお願いします」
「かしこまりました」
︎︎注文表に慣れた手つきで字を書いた店員さんは、そのまま店の奥へと消えて行く。と、また入れ違いに同僚が帰って来た。同僚は何やらご機嫌な様子で席へと座る。
「ただいま。ごめん彼氏から連絡が来てさ」
「良いよ、飲み物頼んどいたから。食べ物もいつもの頼むよ」
「はーい」
︎︎メニュー表を少しだけ確認して、そのまま横に片付ける。そうして同僚の方へ視線を向けると彼女はいつに無く幸せそうな顔をしていた。何だろう、何か良い事があったのかな。と考えていると彼女は笑みを崩すことなく鞄に手を入れた。
「でさ、聞いて欲しいんだけど」
「何?」
「じゃーん。これ見て!」
︎︎彼女の言葉と共に出されたのは何やら箱だった。けれどそれはただの箱では無い。恋愛ドラマでよく見る――所謂、結婚指輪などを入れる指輪入れだったのだ。
︎︎箱の中にはキラキラと輝く宝石付きの指輪が入っており、私は彼女と指輪を交互に見る。それから言葉を紡いだ。
「指輪……えっ、もしかしてプロポーズされたの!?」
「実はそうなの! ︎︎ついこの間ね、彼が海の見える場所でしてくれたの」
「えっ良かったね、おめでとう」
︎︎随分前から結婚したい結婚したいと言っていたから、ようやく夢が叶って良かったねと思いつつ「おめでとう」の声を発する。すると彼女は本当に幸せそうな顔をして「ありがとう」と口にしたのだ。
「会社は退職する予定?」
「ううん、まだ続けるつもり。ここ私の入りたかった会社だしねー」
「そっか」
︎︎退職しないならこうして飲みに誘われる機会が減る事は無いんだろうな。まぁそろそろ貯金も少なくなってきたし、これからは誘いを断る頻度を増やさなければならないけれど――と考えていた時。店員さんがこちらへ来て、お酒を置いたのだ。
「お待たせしました。焼酎と生ビールです」
「ありがとうございます。あっ、注文大丈夫ですか?」
「はい、お伺いします」
︎︎店員さんに、予め覚えていた注文内容を伝える。明日も仕事があるのであまり飲むことは出来ないが、食べる分には問題ない。そう言う訳で、普段よりも多い量を頼む。これくらいなら食べきれるだろうと言う所で「以上で」と言うと、店員さんは注文を全て書き終えた後、一度繰り返して去って行った。その後ろ姿を眺めている途中で、はっと先程言われた事を思い出して同僚に目を向けたのだ。
「あ、火の調子が悪くて来るの遅いって」
「ふーん、まぁいいけど」
︎︎どうせ時間はまだあるんだし、と続けて言う同僚に「彼氏さんの所には早く帰らなくてよいの?」と聞く。すると同僚は「大丈夫、ちゃんと話してあるから」と言ってお酒を口にし始めたのだ。それに続いて私も飲み始める。
「結婚式場も決まって無いんだよね」
「まだ全然。あ、一応目星は付けてるんだけどね、あとは新婚旅行先とかも」
「早く決まると良いね」
︎︎早々にビールを半分まで飲み干し、小さく息を吐く。ついで彼女を見つめていると、ふとある考えが浮かんだ。
︎︎――どこか遠い、夢の世界へ行きたい。幼い頃あれほど駄目だと言われた夢を持ちたい。何故彼女を見てそう思ったのか分からなかった。けれど浮かんだ思いを消すことは出来ず、つい口を開いてしまう。
「突然でごめんね。もし、私が会社辞めたいって言ったらどうする?」
︎︎言ったあとで不毛な質問だったかなと思う。けれど一度言ったことを取り消せるわけも無いので、同僚の反応を待つ。同僚は一瞬驚いた顔をした後ジョッキを持ち上げて飲んだ。
「えー、私はどっちでも良いかな。ってか何で? ︎︎あ、結婚でもするの?」
「いや、そんな事は無いけど」
「だよねー、と言うかそもそも彼氏いないもんね。それよりさ、これ見てよ」
︎︎私から繰り広げた会話は直ぐに収縮し、気づけば彼女の話へと転換される。やはり人の話を聞くのは嫌らしい。それか相手が私だからかな、と思いつつも彼女の話を聞くために耳を傾けるのだ。
〇
︎︎いつもより少し遅く料理が運ばれて来てから、約四十分前後。同僚は現在携帯電話と睨めっこを繰り返していた。かと思えばお酒を口にして話を交わらせたりもする。だが様相を見るに既に酔いが回りきってしまっている様で、思考はちゃんとしている様だが――彼女の言葉には全く力が無い。顔もほんのり赤く、これじゃあまたタクシー呼ぶ事になりそうだなと眉を顰める。と、その時だ。彼女の携帯から何度目かの着信音が鳴り響いた。快活に話していた彼女はすぐに携帯の方を見て、その場で電話に出る。もう席を外すと言う考えまで至らない様で、常時より小さな声で通話をしていた。
︎︎通話は直ぐに終わり、最後の一口を飲み干した彼女は私に視線を向けたのだ。
「あーごめん。もうそろそろ帰らないとー」
「また彼氏さん?」
「そ、何か色々決めようってさ」
︎︎プロポーズされたばかりと言う事は、まだ式場も何もかも決まって無いのだろう。だとしたら早く帰るのが正解だ。引き止める義理も理由も特に無いため、私は「そっか」と口にして席を立つ。
︎︎正直ここへ来る前は彼女に対してどう対応すれば良いか悩んでいたが、案外いつも通り接せられて良かったな。だなんて中学生みたいな感想を脳内に浮かべ、伝票を手にする。
「お代は私が出すよ、結婚する祝いに」
「えっ、まじ? ︎︎ありがとう」
︎︎言うと同僚は立ち上がってレジの方へと向かう。私もそれに続けて鞄を取り、伝票を手にしてレジへと向かうのだ。レジは見た所空いており、私は直ぐに伝票をレジカウンターへ置いた。同僚は扉近くで待機しており「先に外行ってても良いよ」と声を掛けると「外寒そうだから待っとく」との返答が返ってきたのである。それを耳にした私はお財布を取り出し、ぴったりの金額を支払う。ついで「ごちそうさまでした」と言葉を放って、外に出るために扉へ近づいた時だ。
︎︎ふと嗅いだことも無い、ガスの臭いが辺りを立ち込めた。なんだろう、この臭い。そう思った刹那、私の耳に轟音が辺りに響きわたる。
「うわっ」
︎︎一瞬何が起こったのか理解できなかった。扉を開ける直前に誰かの悲鳴が聞こえ、かと想えば何かの爆発音がして辺りの温度が急激に上がった。視界は閉ざされて、何故だか力が上手く入れられない。早く、ここから出ないと。分かってはいても、前に進んでいる感覚が無い。なんてしている内に段々と息をする事も苦しくなって、私は精一杯の力を振り絞って手を前に伸ばした。
︎︎何これ、一体どうなってるの? ︎︎息が苦しい、誰か助けて。そんな言葉さえ声に出す事は出来ない。次第に意識も揺らぎ始めて、頭が痛くなり始める。あれ、もしかして死ぬのかな。ぼんやりとし始めた思考で考えるも、答えなんて見つかる筈は無かった。
︎︎そうして訳も分からないまま、段々と起きている事さえ辛くなって目を閉じようとしていた時。ふと、眼前が明るくなった気がした。何とか残っている力で顔を上げると、そこには誰か立っていた。立っている人は私に近付き、口を開く。
「――。―――」
︎︎目の前にいる人の声が聞き取れない。けれど不思議と今までに無かった安心感を覚え、私はその安心感を抱いたまま瞼をゆっくり閉ざしたのだ。