Moon Fragrance

4月29日 心の狭間
心の狭間



 今日こそはお花が咲きそうだと、楽しみにしていたからか早く目が覚めた。いつもの朝の準備をして、私はウキウキしながら店先へと向かった。
 植木鉢に咲いているのはピンクに色づいた、まるでなにかを包むように重なり合った花だった。大ぶりだけど可愛く咲いた花に嬉しくなって、それをどうしても彼に見てほしくて、私は大急ぎで階段を上ってルーを呼びに行った。

「ねえ、ルー!」
「どうした」

 大きな声ではしゃぎながら呼ぶ私に、ダイニングテーブルで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいたルーは、顔を上げて笑った。

「あのね、ルーから貰ったお花の種がやっと咲いたの! 見に来て!」
「分かったから、危ないぞ」

 新聞を置いて立ち上がったルーの手を引いて、私はたちは階段を下りていく。
 それは、ほんの数分のあいだだった。ほら! とお店のドアを開けて外を見るように促すと、お花は植木鉢ごとなくなっていた……。

「あ、れ……」
「リク……?」
「さっき、まで、こ、こに……」

 それ以上なにも言えない私の目の前が、少しずつ滲み始める。こんなに悲しいって思ったのは、久しぶりだった。下瞼に涙が溜まって、でもそれをこぼしたくなくて。だからと言って、顔も上げられない。
 綺麗、だったから、誰か、欲しくなっちゃったのかな。

「るーに、見てほしかった、な」

 絞り出すように呟くと、ルーのほうに抱き寄せられた。ぐいと頭を胸に押しつけられるように密着して、髪を静かに撫でられる。何度も、何度も、彼が、優しい手が、なにも言わずに慰めてくれた。私はルーの腕の中で、どうすればいいか分からない悲しみに暮れる。

「しなくていいと言うのは分かりきっているが、念のために聞こう。アイツらに、頼むか?」

 私はそれに首を横に振った。アイツら、と言うのはタークスの皆さんだ。

「……これは、れっきとした窃盗だぞ?」

 そう言われても、私は首を横に振った。

「分かってる……。でも、いいよ」

 たぶん、ルーにとっては、正しい彼らの使い方なのだろう。でも、そこらの人には、そんなことに使える組織なんて持っていない。ルーがいなくて、私1人だったとしても、そうだ。本来、彼らに頼ることはできない。それに。

「綺麗だなって、思ってくれたなら……、いいよ」
「そんな、涙を溜めてか」

 ルーが私を、もっと力強く抱きしめた。それに、溜まっていた涙がとうとうこぼれた。
 いいわけないよ。だって、大好きなルーに貰ったんだよ。楽しみで、ちゃんとお世話してたんだよ。綺麗で可愛い花が咲いたから、ルーにも見てほしかったんだよ。本当は、いいわけ、ないよ。でも……。持っていってしまった人にも、なにかそういう理由があればいいなって、思ってしまった。

「どうしたんだい? 店先で」
「これは、おはようございます」

 ずっと動けないでいると、向かいのお店の奥さんが開店準備を始めたのだろう。お店から出てきて、私たちを見て不思議に思ったのか声をかけてきた。それにルーが挨拶を返した。

「おはよう、ございます……」

 私はルーの腕の中で涙を拭いて抜け出すと、笑おうとしたけど、それでも力のない挨拶を返してしまった。ルーは私の頭を自分のほうへと引き寄せる。

「お見苦しいところを申し訳ない」
「喧嘩、じゃないんだろう?」
「ええ。その心配には及びません」
「それならいいけど、そういや花はどうしたんだい? その隅で育ててた花」

 もうすぐ咲きそうだったから自分も楽しみにしていたんだと、奥さんは店のドアの横を指差した。なにも答えられなかった私に、奥さんはまさかと声を上げた。

「いえ、いいんですよ。納得はできませんが、彩りぐらいは欲しくなるものです。妻になにもなかっただけで充分です」
「そうかい。それにしても許せないね。犯人見てないか聞くついでに他の店にも伝えとくよ」

 本当に楽しみにしてたのにと奥さんも相当怒ってくれていて、そう言われて驚いてしまった。

「いえ、そこまでは……大丈夫、ですから」
「いいや。花は売り物じゃなかったかもしれないけれど、犯人がアタシらの店で商品を盗らないとも限らないからね。上手くいったからって、奥さんとこも今度は花じゃなくて、売り物とか商売道具に目をつけられることだってあるさ」

 お花だしそんなに大ごとにしなくてもって思ったけれど、言われた理由にハッとした。
 そっか、私だけの問題じゃないんだ。花は、私が悲しむだけで済んだけど、他の物だったらお店の死活問題になることもある。これはこの辺り一帯のお店にも関係することなんだ。

「まあ、いいって言うなら犯人探しまではしないでおくけど、注意喚起だけはして回るからね」
「……お願いします」
「朝から申し訳ない」
「いや、いいよ。こっちだって楽しみ奪われたんだからね。元気出しな。ダンナはちゃんと励ましてやるんだよ」

 そう言って奥さんは、さあ今日も仕事するかねと自分の店へと戻っていった。ルーも私に戻ろうと促したから、それに頷く。中に戻ると、彼が静かな声で聞いてきた。

「店はどうする?」
「あける……。でも、店番はイリーナさんにお願いしても大丈夫かな……?」

 こんな気落ちした顔じゃ、お客さんに失礼だもんね。
 まだ俯いたままの私の頭を、ルーがポンポンと撫でる。それは分かったと言っているようだった。
 まだ心配なのか、ルーが手を引いて上へ戻ろうとするけれど、私は首を振った。私も開店の準備をしないと。

「無理をする前に、切り上げてきなさい」
「そうする……」

 ルーが私をほんの少し見つめて、階段を上っていった。
 開店準備をしようと、いつものルーティンを辿る。数十分後に連絡を受けて来てくれたらしいイリーナさんが、勝手口から入ってきた。

「リクさん、おはようございます」
「おはようございます。ごめんなさい、突然店番をお願いしてしまって」

 イリーナさんも私のことをじっと見つめている。そして迷ったように口を開いた。

「大体のことは聞きました。でもリクさんが望んでないなら、私たちはなにもしません。それでももし、これ以上なにかあるなら、私は絶対にそいつのこと許しませんから! リクさんが怒らないから私が怒ります」

 私の代わりに怒っているんだと聞いて、なんだか少しだけ心が軽くなった気がした。そうだよね。本当は、怒ってもいいんだよね。でも、怒りよりも先に、悲しいが1番大きかった。
 私はありがとうございますとお礼を言って、仕事を始めることにした。うしろでイリーナさんが、連絡を受けたツォンさんがなにもするなって言うから……、でも絶対許せないと独り言を言いながら怒ってくれていた。
 仕事の効率を落としながら、私は目の前の作業に集中しようとする。でも、何度も溜め息が出て、手が止まりそうになった。夕方の仕事が終わるころには、疲れきっていた。
 イリーナさんにももう一度ちゃんとお礼を言って、就寝までの時間を明るい気分になれずに過ごす。ルーとベッドに入っても、いつもの日課は話せなかった。それを分かって、ルーはただ私の頭を撫でてくれていた。そうしていると、また目に涙が滲み始める。我慢しようとすると、鼻をすすってしまう。

「本当に自分のことに関しては怒らないな」

 ルーが溜め息混じりにそう言って、体を軽く起こした。そのまま覆いかぶさって、呟いた唇を私の喉元に触れさせて、チュッと微かな音を立てた。

「無頓着、というのか。別に怒ってもいいんだぞ」

 そう言いながら、ルーの唇が何度も首の周りに柔らかな感触を残す。私はその優しさに、とうとう声を殺して泣き始めた。そのあいだも、暖かい優しさが何度も触れる。

「怒る、というより、かなしい……。ルーに、貰ったものなのに。楽しみにしてたのに……。でも、一番かなしいのは、ルーに、見てもらえなかった……」
「……ああ」
「すきなひとに、いちばん……っ」

 私はルーの首に腕を回して、力任せに抱きついて泣きじゃくった。もうあとは、悲しみを紛らわせたくて、譫言のように好き、好きと繰り返した。そんな私に応えるように、ルーはずっと肌を吸うようなキスをくれていた。
 私だけパジャマが乱れ、部屋には落ち着き始めた私の啜り泣きと、好きと弱々しくなった声でまだ呟くたびに首や胸元に触れる、ルーのキスの音だけだった。
 それらも徐々に静かになってくる。泣き疲れて自然と瞼が落ちてきた。ルーの首に回された腕は緩んで、少しずつ落ちてくる。

「愛している」

 息を大きく吸い込んだとき、耳元でそう聞こえて、私は眠ってしまった。
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