Moon Fragrance

7月7日 いつだって
いつだって



「――、リク。……リク」

 優しく呼ばれたはずなのに、仕事に集中していた私は驚いてハッと顔を上げた。その目の前にはルーの顔があって、私は未だに顔が熱くなる。何度も呼びかけてくれたのか、彼の口の端が仕方なさげに上がっていた。

「お、おかえり、なさい。んっ……」

 私が言うと、ルーの人差し指の先が私の顎を掬い上げて唇が重なった。おかえり、ではなくただいまのキスは今日に限って触れ合わせるだけではなく、するりと忍び込んで来た彼の舌が、ほんの少し私の舌を絡めて撫でるように出ていった。

「ただいま」

 ただいまとおかえりの挨拶なのに、唐突に施された甘い口づけに、わざとらしい低い声は瞬く間に艶やかに鼓膜を震えさせた。俯く私を、本当に慣れないと笑うルーが恨めしく感じる。
 結婚して2年ほど。私は未だにドキドキする。それも毎日。ルーに抱きしめられておはよう、おやすみって言い合うと心がくすぐられる。いってらっしゃい、いってきます、おかえり、ただいまって言うと心が暖かくなる。愛してるって言ったり、言ってもらえると体中が熱くなった。それだけじゃなくて笑ったり、滅多に見ない表情にだって、何気ない言葉や仕草にも私は毎日この人が大好きだと実感するほどに、ドキドキする。

「今日は、ちょっと早いんだね」

 私の作業部屋の時計は16時過ぎ。ルーは仕事がある日は17時に帰宅して、それから私も閉店の時間だから今日はいつもよりほんの少し早い帰宅だ。だけど、本当にそう思いながらもそんな言葉すら、白々しくなるくらい心臓がうるさい。

「リクに見せたいものがあるから、早めに帰宅した」
「見せたいもの?」
「ああ。だが、終わるまで待っている」
「わかった。ちょっとだけ、仕事するね。5時になったら教えてくれる?」

 ルーは頷いて私の頭を一撫ですると、いつもの窓際の席へと座った。私はもう少しだと、また机の上の修理品に手をつける。集中しようとはするけれど、なにが違うとは言いづらいのにルーが少しだけそわそわしている気がする。それがなんだか可笑しくて、思わずふふっと笑い声が漏れてしまった。ルーがどうした? と言いたげに私を見たけれど、私はそれになんでもないと首を振った。

「リク、5時だぞ」
「ふぅ。ありがとう」

 仕事に向き合えば、いつのまにか集中していたらしい。体感としてはほんの数分のつもりだったのに30分ほど進んでいた。17時を少し過ぎたあたり。私はんーっと伸びをして立ち上がる。

「手を洗って、お店閉めてくるね」
「店は閉めておいた」
「え?」

 17時は過ぎているけれど、いつ店じまいをしたの? と目をしばたたかせると、ルーがふっと笑った。

「リクの集中力は凄まじい」

 いつもノックだって、さっきもルーが帰って来て何度か呼びかけてくれるまで気づかないけれど、そんなに気づかないものなのかと思ってしまう。

「無防備すぎるな」
「ぅっ……。気をつける」

 なにをどう気をつけたらいいのか分からないけれど、答えなくてはいけない気がして口にする。ルーはまた私を笑って、早く手を洗っておいでと促した。

「お店、ありがとう。行ってくるね」

 作業部屋を出て、洗面所で以前から変わらず入念に手を洗う。指先は特に。そして爪も。伸びたと思ったらすぐに切るけれど、それでもすぐに黒くなっていく。爪は分厚いし、カサついている。ルーと再会するまで、なんとも思っていなかった手。再会してから、お付き合いをしてから、コンプレックスを感じるようになったこの手。でも今はまたなんとも思っていないし、むしろ少しだけ好きになった。それはルーが、何度もこの手が好きだと言ってくれるから。手を洗うたびにそう思いながら、ここでもまた幸せを感じる。
 よし、とタオルで手を拭いて洗面所を出ると、ルーがすぐそこで待っていた。腕を組んで、片足に重心をかけ壁に寄りかかって。ドアから出てきた私に顔を上げて手を差し出してきた。

「お待たせ」

 私がそう言って手を取ると、頷いて軽く握り返してきた。そのまま手を引いて家の階段を上がっていく。私たちの部屋である寝室に入ると、文机の上に箱がふたつ乗っていた。淡いブルーの包装紙に、深紅のリボン。私にプレゼントをくれるときのラッピングは必ずこの組み合わせ。だから見せたいものと言われなくても、私に向けて贈ってくれたものなのだと絶対に分かる。けれど、毎回と言っていいほど、今日はなんの日だったっけ? と考えてしまう。
 今回も例に漏れずルーを見上げると、彼が口を開いた。

「とりあえず、開けてみてくれないか」
「分かった」

 私は丁寧にラッピングを解いていく。両方とも蓋を開けて、まだ半透明の紙に包まれている。それを広げるとひとつは服、もうひとつは靴だ。まずは服の方を箱から取り出して、肩口を持つと下へとふわりと垂れ下がった。
 それはワンピースだ。まるでキラキラと煌めくような淡いブルーにすぐに心を奪われた。決して濃い色ではないのに、優しくも輝きを放つ色は私の大好きな色だ。
 両腕を上げて、ワンピースを掲げて裾まで見る。自然と顔が綻んでしまう。それをシワになってしまわないようにそっと箱の上に一度置いて、今度は靴のほうを取り出してみた。

「きれい! こっちは可愛い」

 セットで用意されているヒールはパールホワイト。履き慣れない私に合わせてくれたのか、高さもなく履きやすそうだ。踵の部分には、サテンのリボンがワンピースとお揃いのカラーで蝶々のように留まっている。

「これ、私に、だよね?」
「もちろん」

 このふたつを見ているだけで楽しい気分になる。でもこれはどう見ても普段着ではない。だから不安になって聞くも、ルーはいたって真面目な顔で答えた。

「明日、これを着て一緒に食事をしてほしい」
「あした?」
「リクの誕生日」
「あ!」

 ルーに言われて自分の誕生日だということを思い出した。大きな声で納得すると、ルーが呆れた顔をする。子供のころ以来、誕生日を祝ってもらえるようになったのはここ数年の話だから、いつも忘れていた。

「そんなことだろうとは思ったが……」
「へへ、じゃあこれと明日の食事は誕生日プレゼント? ありがとう!」
「それは、明日の楽しみだ」
「へ……?」

 また自然に、さも当たり前のように言ってのける言葉に思考が追いつかない。だってこれだけでも相当、だと思うんだけど……、いろいろ……。

「ルー、わたし……いっぱい……」
「その問答をするつもりはないぞ。試しに着てみてくれないか」

 分かったと、私は了承してルーに後ろを向いてもらう。今着ている服を脱いで、綺麗なワンピースを頭から着る。背中に手を回してなんとかファスナーを上げた。サラサラとした生地が肌に心地いい。ヒールにも履き替えて、いいよと声をかけた。

「似合ってる、かな?」

 振り返ったルーに、私は自分の後ろを見るように体を捻って眺めてみたり、ちらっと姿見を見たり、最終的には不安で彼のほうを見る。私の姿を見たルーが目を細めて、口元を手で覆うと、少し目線を逸らした。彼が沈黙したから余計に不安になる。

「ルー……?」
「あ、ああ。とても、とてもよく似合っている」
「わっ」

 ルーに唐突に腕を引かれ、可愛くない声を上げてよろけるままに抱きしめられた。背中と腰に回った腕は力強く、ルーの胸板に顔が押しつけられる。頬に伝わる彼の鼓動は、少し早い気がした。それはどうしてだろう、顔を上げようとすると今度は頭をぐいっと押さえられる。ルーの喉のほうからゴクリと音が聞こえて、大きく息を吸ったのか肺が大きく膨らんだ。ほら、これだけでドキドキする。

「あ、あの……」
「もう少し、このままで……」
「う、うん」

 随分と長いあいだ、抱きしめられている気がした。どうしていいか分からなくて、身動きも取れないままじっとする。なんとか絞り出したかのような声で、ルーが口を開いた。

「……綺麗だ」

 その言葉に全身がカァッと熱くなった。今度は押さえつけられているわけではなく、自ら顔が上げられない。もっと鼓動がうるさくなっていく。額をルーの胸板に当てて、彼の上着の腰の辺りを握り込む。ルーの声に釣られたせいか、私も小さな声しか出せなかった。

「め、めずらしくスカートを穿いてるからだよ」
「なら、もっと穿けばいい。何度でも言ってやる」

 顔を近づけられ、ルーの唇が耳に触れそうな場所で聞こえた声にうぅっと情けない声を出した。どんどん、どんどん、心臓が痛いほどに早鐘を打つ。深呼吸をするように息を吸っても、もうそろそろ放してもらわないと、わたし……。そう思っていると、ふわりと腕から解放された。

「明日、楽しみにしている」

 それは私が言うことなんじゃ? と思っても口に出そうとするころには、ルーは私の顔を直視せずに髪をすっと梳いて部屋から出ていった。この鼓動が治まるまで、当分は着替えも部屋から出ることもできそうになかった。
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