Moon Fragrance


キミの笑顔


 ソファーで読んでいた本から顔を上げると、キッチンで夕食を作っているリクがなにやらぼーっとしていた。考えごとをしているのは分かるが、なにを思っているかまでは流石に分からない。
 リクが記憶を失って、ぼんやりしている時間が増えていた。その無防備な姿に、オレたちが気づいていないだけで、なにか問題を抱えてしまっているのではないかと心配になる。
 調理中に考えごとをしているのはいささか危ないと、本を閉じて立ち上がった。怪我と星痕に痛む体に、ゆっくりと歩を進めて彼女の元へと向かう。チラリと見やると火はちゃんと消していた。なにを考えているのか、真後ろに立っても気づかないリクが可笑しくて、愛おしい。その背中から抱きしめたいという気持ちを、今は触れられないのだと抑え込んだ。

「……リク、リク」
「ひゃいっ!」

 静かに声をかけたつもりが、リクは驚いて変な声を上げながら飛び上がった。目をパチパチと音が鳴りそうなほどしばたたかせ、オレを振り返って見上げた顔は少し恨めしそうだった。

「……ルーファウスさん」

 胸を撫で下ろしながらオレの名を呼ぶ声もどことなく恨めしそうだが、彼女から呼ばれる名前に顔がピクリと動きそうになる。リクからルーファウスさんと呼ばれるたびに、胸の辺りが重苦しくなった。これは、いつ感じた感情だろうか。つい最近思い出したような気もするが、遠い昔に置いてきたものだ。これならまだ、社長と呼ばれたほうが幾分心が穏やかかもしれん。

「キッチンでぼーっとしていると危ないぞ」
「あ、はい……そうですね」

 驚かせたほうが危ないと言いたげに不服そうだが、すぐに悲しそうな顔に変わった。伏し目がちになり、心細そうに目も合わせてくれなくなる。こんな顔をさせたいわけではない。だが今のリクにとって、オレは畏怖の対象だ。そんな顔をしないでくれと、手を伸ばしたくなる。
 見下ろしていると、唇を微かに尖らせている。なにか言いたいことがあるときのリクの癖だ。また考え出しているようにも見えるのは、記憶を失っているせいか、それともなにを言いたいのかを整理しているのか。どちらにせよ、促してやらねば。

「で、なにを考えていたんだ?」
「へ? あ、今日の夕飯をフリッターにしたんですけど、ソースをどうしようかと……」

 大きく顔を上げたリクがチラリと見やった先に、各皿に取り分ける前のフリッターが大皿に載っていた。
 エビとズッキーニに、マッシュルーム、パプリカか。エビは、魚介の流通がまだおぼつかない中で偶然手に入ったものだろう。

「冷蔵庫には?」
「まだ野菜がいくつかと、チーズ……。唐揚げじゃないしレモン、の果汁だけじゃ酸っぱすぎるかな……」

 また俯き加減に独り言のように声が小さくなっていくのは、再び考えごとを始めている証拠だ。それにオレがクスリと笑うと、不思議そうに顔を上げた。ここで以前のように可愛いなどと口走れば、どんな顔をするだろうか。そんなことを思いながら、なんでもないと首を振った。

「レモンの果汁を使ったチーズソースはどうだ? 味はしっかりしているがサッパリする」
「いいですね。それにします!」

 リクの顔がパッと明るくなった。礼を言ってパタパタと冷蔵庫に駆けていく後ろ姿に安心する。少しずつでいい。あんな顔が増えれば、記憶は戻らなくとも元気になるだろうか。

「あと……」
「ん?」

 冷蔵庫を閉めた彼女が振り返った。

「サラダは、ハムがいいですか? チキンがいいですか?」
「チキンで」
「ドレッシングはオリーブオイルでいいですか?」
「ああ」
「分かりました。夕食まで待っててくださいね」

 ニッコリと笑うリクに、ほんの少しだけ悪戯をしてやりたくなった。もっと笑ってくれ。もっと、様々な表情を見せてくれ。リクが少しでも、心穏やかに過ごせればいい。

「楽しみにしている」

 そう言って踵を返す。

「あっ!」

 去り際にフリッターをひとつ摘むと、リクが大きな声を上げた。軽く振り返ってニヤリと笑ってやれば、虚をつかれた顔に笑顔がふわりと咲いた。

「ルーファウスさんも、そんなことするんですね」

 クスクスと微かだが声を上げて笑うリクに、今はこれでいいと思う。
 ソファーへと戻りながら、これ以上はどうにかしてやることもできない己の情けなさに、ポケットに忍ばせたままの小箱を握りしめた。

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