沈黙罪


※主が幼少尾形の先生


尋常小学校で、尾形百之助が同室の仲間と楽しく遊ぶような姿は、1度も見たことが無かった。尾形はいつも空気のようにそこに居る。しかし理由は解っていた。

「(山猫の子……ね)」

みょうじは小学校の教師として働いている。元気な子、大人しい子、様々だ。しかし尾形百之助はあまりにも寡黙で、どこか子供らしくない。おそらくその原因は家庭環境にある。仕事柄噂もたくさん聞いてしまうので、みょうじは嫌でも知ることができた。この子の母親は娼婦であったと。あまりまともそうな表情ではなく、隣にいる尾形もまた、感情を有していないかのような、冷たく暗い目をしていた。

「尾形くん、だれか遊ぶ友達は居ないのかい」

休み時間、みょうじは声を掛けた。まわりには誰もおらず、みな外へ出てしまっている。これでは教師たる自分が教室を出ようにも出れんではないか。

「いません」
「じゃあ、先生と一緒に遊ぶかい。」

そう言うと、この小さな仔は顔を上げた。

「先生は忙しいんでしょう。」
「いやいや、構わないよ。ほら、来て。」

周りからは依怙贔屓に見えるかもしれない。だが少なからずその
はある、なぜならばみょうじ自身、父親の顔を見たことが無いからだった。尾形は加えてあの母親なので、気の毒でしようがない。産まれてきた命に罪はないのに。
子供を引き連れてある部屋に入る。そこには少しの埃、そして授業で使う教材がそこかしこに置かれている。

「自由に見てみるといい」

尾形は大きな三角定規を手に取った。黒い目がそれを見る、暗黒の目だ。みょうじはそこに光を灯してやりたいと思った。周りのこと、家庭環境など気にせずにのびのびと生きてくれればいいのに。かつての自分と姿が重なるようだった。

「ハハ、尾形は数学の成績が良い。それだけじゃなく、ほかの教科もだ。」
「ありがとうございます」
「無限の可能性があるんだ。どこかで、その才能を伸ばせたらいいんだがな……」
「……」

みんな先生に気に入られたがるのに、尾形がそんな素振りを見せるところは1度も見たことが無い。そのせいで他の先生から、あいつは無愛想だとか、敬いが足りないとか、噂になっていた。だからきっと、こんな言葉を聞くのが初めてだったんだろう。尾形は眉を寄せて下を向いた。まだ齢が10にも満たない子供なのだ。育てかたを間違えればきっと取り返しのつかないことになる。
尾形は長い長い定規を床に置いた。みょうじと、しゃがんだ尾形自身の距離感を測っている。

「177サンチ」
「ハハ、ロシア人の身長はだいたいそのくらいのことが多いかな」
「先生はいくつですか。」
「僕は165サンチだよ。日本人の中では大きいほうかもしれないな。」

尾形もそのくらい伸びてみろ、と笑いかける。尾形の口角がほんの少し上がった。
それからの尾形は、学校の中でみょうじにだけ、笑顔を見せるようになった。(みょうじ自身、それに気づいてはないが。)少なからず尾形が気を許したのだが、傍から見ればそのようには見えないかもしれない。しかし、チョークを黒板へ擦り付けるみょうじのことを観察したり、授業に関係の無い雑談にわざわざ耳を傾けたりするくらいなはなっていたのだ。
尾形は飢えていた。まともな家庭というものは、一体どんな風だろう。大人から捧げられる無償の愛というものが、どうしても頭をこびりついて離れない。そこから離れていることを実感する度に渇望は強くなる。歪み、捻れ、母を殺したら父がここに来るかもしれない、と思ってしまう程には。みょうじといると心地が良かった。血が繋がっていないのだけが惜しい、と尾形は落胆する。血の繋がった親の愛でないとだめなのだ、と尾形は思っていた。



この間の交流が幻のように感じられる程、尾形との別れは突然だった。
母親が死んで、祖母に引き取られるのだという。親のない苦しみは1番よくわかる。まだこんなに小さな背中にそのような運命を背負わせるのか。神様とやらがいるのならばあまりにも不平等すぎやしないか。
校門のまわりには花々が美しく咲き誇っている。穏やかな日だった。

「先生。」

送別会もなく、彼は去ろうとしている。最後の学校へ来る日、放課後に尾形とみょうじは外の腰掛けベンチで緩い時を過ごしていた。尾形は一段と暗い顔になっている。それはそうだろう、母親が死んでしまったのだから。この先、誰がこの子に親の愛を教えてあげられるのだろうか。

「人間は誰にしも救いはあるのですか。」

なんだか難しい問いをしてくるなあ。とみょうじは困った。

「たとえ極悪人でも、今生で救われる道はあるのですか」
「そうだな。……本人が改心したら、きっと新たな道を歩むことはできるさ。」

この子は、なんて悟った思考を持つのだろう。


「母親を殺したのは自分です」

それを聞いた瞬間、世界が止まった。

「冗談にしては不謹慎すぎるぞ」
「本当です、先生。殺鼠剤を使って殺したのです。」

みょうじは周囲を伺って、声を小さくするよう手振りをした。人に聞かれるにはあまりにも恐ろしい言葉だ、彼の発言は。
ちょっと歩こう、と言って土の香る校舎裏を散歩する。光の遮られた建物の影に、2人分のからだがスポリと入っている。

「まだ信じてないぞ。しかし仮に殺したとしたのなら、それは何故だ?」
「父が母に会いに来るのでは、と考えたからです。」

そう言う彼の背丈はあまりにも小さい。どうにかしなくては、とみょうじは思ったが、彼なりの愛の求め方に、為すすべは何もなかった。ここでこれを公表しなければ、きっとこの先尊属殺を暴露する機会は訪れまい。しかし、しかし……

「(しかし、私には出来ない。)」

どうこうしようという勇気を持ち合わせていないのだ。みょうじは、黙秘したという罪を抱えて生きていくことになった。

「なんだか、先生には話してみたくなったのです。母殺しをあなたが他の人に言うつもりなら、おれは何も言いません。」
「いや……いや……言わんよ。尾形……」

それから、長い時を経て兵舎で出会うまで、2人が顔を合わせることは無かった。


いつか続き書きたいです。



prevnext

back