嫌われたくなくて

 ごめん。いいよ。その言葉は私のためにあるんじゃないかとさえ、最近思っている。
 機嫌が悪そうであれば自分に非が無くてもとりあえずごめんね。何かお願いごとをされれば、どんな内容だっていいよと応えてきた。
 これも、全部彼に嫌われないために。
 全部全部私のために。

 そのつけが回ってきたんだと思う。
 声を出そうとしても喉が引き攣ったように、思うように動いてくれない。これはおかしいと病院に行ってみれば出された結果は心因性失声症。
 医者に原因に心当たりは? と聞かれてすぐに浮かんだのは彼のことだったけれど、自分のためにしてきたことがストレスになっているなんて思いたくなくて首を横に振ったのも記憶に新しい。

 メールの着信を知らせるように携帯が震えた。ディスプレイに表示される名前は蘭=B
 中身は蘭にしては珍しく私の体調を心配したものだった。最近体調が優れないから会えないと言ったからだろうか。
 それにしても蘭が私の心配なんて、本当に珍しい。

 ――声が出ない最大の問題は、コミュニケーションが取りづらくなることだと思う。いくら筆談はできるからと言っても文字を書くラグはどうしようもないし、その間相手を待たせることになってしまう。
 蘭は、きっとそういうのが嫌いだろうから。
 だから、あえて会わないを選択した。
 こんなところを知られたらきっと嫌われてしまう。捨てられてしまう。それが嫌で今までがんばってきたのに、こんな簡単なことで終わってしまうなんて、それこそ耐えられない。



 ▽



「あ」

 その声が聞こえたとき、体が固まって動けなくなってしまった。
 なんで、どうして。答えのない疑問ばかりが頭を埋め尽くしていく。
 私の家と蘭の基本的な行動範囲は被らないはず。だからこそ、近場なら大丈夫だろうと高をくくって近所のコンビニまで散歩がてらやってきたのに。

「オイ無視すんなよ」

 できることなら、今すぐこの場から立ち去りたい。
 走って逃げたところですぐに追いつかれてしまうんだろうけど。ああ違う、そもそも蘭は私を追いかけたりなんかしない。

 背後から力強く肩を掴まれて顔を歪めた。そのまま振り向かせるもんだから、私は初めて見せる顔を向けてしまった。
 こんなの、かわいくない。
 痛みに歪んだ顔なんて可愛くないから見せたくないのに、私の気持ちを知らない蘭はそんなことお構いなしだ。
 蘭の表情にだんだん温度がなくなっていくのがわかる。ほっぺを片手で掴まれて、過去で一番ぶさいくな顏を晒してしまっている。

「なんか言えよ」

 震える唇でごめん≠ニ口を動かすことしか出来ない。へらりと笑って、泣きそうなのを我慢する。
 いつもなら会えてうれしいはずなのに、今はどうしても喜ぶことなんてできなかった。出来れば早く帰ってほしいなんて、はじめて思った。

 気付かないでほしいのに、妙に目敏い蘭はたった一度だけで感づいてしまったらしい。温度が少しずつ戻ってきている。うれしいことなのに、全然よろこべない。
 不審そうな顔を隠さずに、オマエ、と呟いた蘭はそのまま私の腕を引っ張って歩き始めてしまった。どこに行くのか聞こうにも声がでない。
 引き攣ったままの喉は、音を紡いではくれなかった。


 連れてこられたのは何度も訪れた蘭の家だった。正確には蘭と竜胆くんの家。灰谷家。
 ずっと掴まれたままだった腕を思いきり引かれて、ソファの上に投げられる。痛いと思っても声は出ない。
 ソファの上に転がった私のさらに上に、蘭が乗る。経緯さえ見なければ押し倒されているみたいだなあ、なんて現実逃避のように考えた。

「なんも言わねーの?」

 言えない、と気づいたはずなのに、なんて意地悪な質問だろう。真っすぐ見つめられるのがソワソワして落ち着かなくて、そっと目を逸らした。
 今までちゃんと見てくれたこと、ないくせに。
 なんで、いま。

 喧嘩で皮膚の硬くなった指が私の首をなぞる。
 くすぐったくて身を捩って逃げようとすれば、簡単に押さえつけられてしまった。

「逃げんなよ」
「……っ」

 かさついたくちびるがかさなった。
 何も理解が出来なくなっている間に、何度も重ねられる唇はだんだんと深くなっていく。息を吸いたくても吸えない。くるしくて、頭がぼーっとして、視界が歪んで、そして、ぽろりと涙が落ちた。
 離れていった蘭は私の涙を見ても何も感じないらしい。当たり前と言えば当たり前かもしれない。見て見ぬふりをして、次へ進もうとする蘭に抵抗なんてできなかった。

 わたしが、なにも言わないから。
 ずっと、黙ってるから、蘭にとって都合がいいんだろうか。
 今までこんなことしなかったくせに。何も思ってないくせに。
 めんどくさいと言われるのが嫌でずーっと我慢していた涙も、一度零れてしまえば止める術なんてなかった。
 ぽろぽろと泣きながら、それでも嗚咽は出てこない。蘭も私が泣いているのをわかっているはずなのに手を止める素振りは見せなかった。

 蘭、と彼の名前を呼んだつもりでも、口から零れるのは空気だけ。
 こんな形は、嫌だったのに。嫌だったはずなのに、そんな気持ちとは裏腹に蘭から触れてもらえるのが嬉しいと心のどこかで思ってしまっている私は、救いようがないほど蘭のことが好きなんだ。
 気持ちが涙となって零れてるはずなのに、枯れそうにない。

 ねぇ、蘭。
 もしも最初から私が何も言わなければ、もっと早くに触れてもらうことが出来た?




[newpage]





 目が覚めたら、全裸でベッドの上だった。
 どうやら途中で気を失ったらしい。隣を見ても誰もいない。当たり前だよね、と妙な諦めが顔を覗かせて、でももう少しだけここに居たいから、と目をつぶる。
 竜胆くんと蘭、どっちのベッドかはわからないけど、蘭だったらいいなあ。
 ガチャリ、と扉が開いて、隣の明かりが部屋に差し込んだ。布団から顔を覗かせれば上半身に何も着ていないままの蘭が立っていた。遠目からでも髪が濡れているのがわかるから、お風呂にでも入っていたのかもしれない。

「起きてんじゃん」

 ばっちり目が合ってしまったから、誤魔化すことができない。
 起き上がろうとして、今何も着ていないことを思い出す。下着だってつけてない……!
 一度見られているのはわかってるけど、どうしても自分の意志で見せる勇気はなかった。だからといって向こうに行って、なんて言えないからただじっと蘭のことを見つめるしかできない。
 蘭は何も言わずに近づいてくる。寝転んだままだと何を言われるかわからなくて、毛布で前を隠しながらそっと起き上がった。
 み、見えてないよね?
 高いベッドは何も言わずに蘭を受け止めた。濡れた髪から雫が落ちてシーツを濡らしていく。風邪引くから乾かした方がいいのに。

 なんで、今、蘭はここにいるんだろう。
 ずっと動かなかったから? 早く出ていけってこと?

 今の私が言えたことじゃないけど、蘭だって何も言わなすぎる。言ってくれなきゃ、どうすればいいのかなんてわかんないよ。

「なあ」

 蘭が、ぼさぼさの私の髪をすくって指に絡めた。
 その様子をじっと見つめる。今までそんなことしたことないのに。本当に何がしたいの?

「喋れねーの?」

 ……え、今? 気付いてたんじゃないの?
 今更嘘をつく意味がないのでゆっくりと頷く。素直に答えたからといってどうにもならないけど。なんとかなるならとっくに私は喋れるようになってるはずだもん。

「ふーん、なんで?」

 なんで、って言われても、それを伝える手段が今はないし伝えるつもりもなかった。
 だって言ったところで解決なんてしない。むしろ悪化するような気さえする。心当たりなんて蘭ぐらいだけど、蘭のせいだと言えるわけないし。……言えたら、こんなことにはなってない。こんなことにはなってないんだよ。

 わからない、と伝える様に首を横に振った。
 目を見られていると嘘がバレそうで、気づかれないようにゆっくり、ゆっくりと逸らしていく。なのに蘭は勢いよく私の顔を掴んで、無理に持ち上げた。痛くて顔を顰める。

「原因は?」

 なんで、なんでこんなに聞いてくるの……?
 もう放っといてくれたらいいじゃん。いつもみたいに関係ないって、めんどくさいって突き放してくれたらいいじゃん。なんでこんな時だけ、私に関わろうとするの? そんなに声が出せないことが珍しい?

 言いたいことが涙となって零れていく。
 蘭の髪から落ちた跡の上に私の涙が重なって、まざってとけていく。

「……理由聞いただけで泣くなよ、めんどくせー」

 ――あぁ。もう、だめだ。
 全裸なことも気にせずにベッドから抜け出す。よく見れば床に落ちていた服を適当に着て、後ろから声をかけてくる蘭を無視して部屋を飛び出した。
 リビングではくつろいでいた竜胆くんが驚いた顏をしているけど知らない。本当ならお邪魔してるし挨拶ぐらいするべきなんだろうけど、一刻も早く家を出たい私は竜胆くんの存在を無視して、もつれそうになる足をなんとか動かす。

 もう二度とここに来ることがありませんように。
 そんなことを考えたのは初めてだった。でも、もう、本当にだめだった。これ以上蘭と関わっていたら、私はきっと死んでしまう。

 だから、もう、さよならだね。





 蘭のことを諦めて忘れるのは簡単じゃないことぐらい自分でわかってた。わかってたけど、蘭に抱かれてから吹っ切れたんだと思う。
 さよならを告げて、穏やかに過ごすことが出来ている。そのおかげで声だって出るようになった。
 もう二度と同じことにならないように、ストレスを溜めないように、蘭のことを考えることも、会うこともやめる決心はとっくについた。少し寂しいけど、自分のためだと言い聞かせてみれば結構簡単だった。

 なんだ、こんなに簡単だったんだって、自分でもびっくり。

「……あれ、アンタ兄貴の」
「あ、り、竜胆くん……」

 急に街中で声をかけられて、俯き気味だった顔を上げると蘭とよく似た顔があった。
 慌てて周りを見ても蘭の姿は無さそうだった。竜胆くんはなにやってんの? と訝しげに私を見る。

「ごめんね、蘭はいないかなって」
「今はいねぇよ」
「……今は、ってことはもしかしてもうすぐ来たりする?」
「たぶん」
「そっか、それじゃあ」

 さようなら、とその場を離れようとすれば、少し離れたところで竜胆くんからストップがかかった。
 蘭に会いたくないから早く違うところに行きたいんだけど、そうはさせてくれないみたい。あんまり竜胆くんとお話する機会はなかったけど、自由で強引なところは蘭とそっくりだった。

「兄貴となんかあった?」
「……なにも、ないよ。もう蘭とは終わったから、帰っていいかな?」
「え? マジ?」
「うん、なんで?」
「あー、イヤ、」

 竜胆くんは言葉を区切って、そして私の後ろを見た。あ、と竜胆くんが言う。私の後ろを見て。
 嫌な予感がして、今すぐにでも走り出したいのに、竜胆くんは私の後ろを見て「遅せぇよ」と言っているから、たぶんすぐ近くにいる。

 後ろを振り返らずに走り去ろうと一歩踏み出した時、がっしりと肩を掴まれて動けなくなってしまった。

「よぉ久しぶりだな〜。どこ行こうとしてんだ?」
「ぁ、……ぁ」

 蘭、とか細い声で名前を呼ぶ。
 何も変わってない。最後に会った時と同じ蘭が、そこにいて。どうしよう、どうすればいい? もう声の出ない生活なんてこりごりだ。だから、蘭に会うのも、蘭のことを考えるのもやめていたのに。










「声出てんじゃん」

 全て、崩れ落ちる音が遠くで聞こえた。












 じゃあオレ行くわ、と竜胆くんがこの場を離れる。
 やめて、待って。私を蘭と二人きりにしないで。手を伸ばしても竜胆くんには届かない。それどころか私を掴んでいる蘭の力が強くなったような気がする。

「なんで黙ってんの?」
「……ごめ、」
「謝れって言ってんじゃねーんだわ」

 泣いたらめんどくさいって言われるから泣きたくない。泣きたくないのに、一回蘭の前で泣いちゃったからか我慢ができない。

 ちゃんと身を引いたのに、なんで?

 ひゅっと喉が鳴る。まだ、まだ大丈夫。だいじょうぶだから、ちゃんと終わらせよう。そしたら、もう一生関わることだってなくなる。
 この期に及んでまで、それは寂しいと言うこころが信じられなかった。信じたくなかった。だって前みたいに戻れない。もう、限界なんだと体が伝えてくれた。

 だから、だから、

「らん、もう、わたしにかかわらないで」

 どうか、お願い。


 は? 蘭の低い声に体が震えた。肩を掴む力がほんの少しだけ強くなる。
 なんで? だって蘭は別に私が居なくても大丈夫でしょ? むしろ居ない方がいいんじゃないの? なんで、わかったって言ってくれないの?

「なんでだよ」
「ぁ、」

 はくはくと口を動かしても、上手いこと言葉が出ない。だってまさか聞かれるとは思ってなかった。なんでなのかはこっちが聞きたい。
 ちゃんと声が出るようになったはずなのに、言いたいことはあるのに何も言えなくて、ただただ黙り込む。

「なんで何も言わねーの、喋れんだろ」
「ごめ、」
「理由を聞いてんだよ。……あー、言えねーの?」
「らん、」
「場所移動するかー」

 急に声が優しくなって、それが逆に怖い。蘭の中で何が起こったのかわからないから、こわい。
 歩き始めた蘭の背中をただ見守っていると、蘭が振り返ってオマエも来るんだよ、と手を引かれた。怖くて咄嗟に顔を逸らしたから、蘭がどんな顔をしているのかは見えなかった。否、わざと見なかった。

 何も抵抗が出来ないまま、もう二度と来ることがないと思っていた蘭の家に連れてこられた。

「で? なんであんなこと言ったんだよ」
「ぅ、あ、」
「あのさぁ、オマエの声が出なくなった原因ってオレ?」

 肯定も否定も出来なかった。
 ふかふかのベッドの上に座って、蘭は床に座って。私のことを見上げてくる。顔を俯かせても蘭の方が低いから意味なんてない。歪んだ視界が、全てを隠してくれる。

 ちがう、と言いたくて。でも私の心は本当に? って問いかけてくる。でも、蘭が原因かって言われたら、それもちがうんじゃないかなって思う。

 だって嫌われたくなくて我慢を続けたのは私で。別に蘭に言われたわけじゃない。

 私が、勝手にそうしただけ。
 だからなんて答えたらいいのかわからなくて黙ることしか出来ない。わたしが考えている間、蘭はずっと黙って待ってくれている。

 でも、長くは待ってくれないみたいだった。そりゃそうだよ、蘭だもん。私がここに連れてこられたのがおかしいんだ。だっていつもの蘭なら放置してるはずでしょ?

 はー、と息を吐き出した蘭に体が震える。立ち上がったのが、足元だけでわかった。どこに行くんだろう。もう帰して欲しい。大丈夫、もう二度と関わらないから、蘭も私のことは放っておいていいんだよ。

「言いたくねーの?」
「ち、がう」
「じゃあなんで黙ってんの? 言えねえ?」

 頭を横に振った。言えないわけじゃない。言おうとすれば、言えるはずだと。

 待ってろ、とだけ言って蘭は部屋から出ていってしまった。このまま帰っちゃダメ? 待ってろって言われたからダメかな。
 帰りたい気持ちでいっぱいなのに、蘭の言うことを聞いてしまうのは体に染み付いているのかも。

 優しい声に、絆されそうだった。





「ほら」

 数分経って戻ってきた蘭に渡されたのはマグカップ。甘い香りがして、中を覗くとココアが入ってた。どうして突然ココアなんて。受け取ったまま何も出来ずに中をじっと見つめる。それは、蘭と目を合わさないためでもあった。

「りんどーがよく飲んでんの」
「……ありがと、」

 なんで蘭がしてくれるのかわからなくて、後で何か要求されるんじゃないかって不安になる。なかなか口をつけないでいると、やっぱりなぜか床に座った蘭が飲めよ、と急かしてくる。

「オマエもココア好きだろ?」
「…………知ってたの?」
「むしろなんで知らねーと思われてたの?」
「……だって、蘭、私に興味、ないじゃん」
「は? なんで?」
「なんで、って、」

 だって私が蘭の傍にいれたのは聞き分けがいいからじゃないの? なんでもかんでもいいよって言ってたからじゃないの? そこに、蘭の興味はないんじゃないの……?

 昔からよく分からないと思ってたけど、今の方がわからない。蘭のことが、わからない。

 落ち着くためにココアを一口飲むと、口の中に甘さが広がった。あたたかい。なんで、蘭は私がココアを好きなことを知ってたんだろう。なんで、私はここに居るんだろう。なんで、……なんで?

「……なんで、なんで、そんなに、」

 関わらないで、欲しいと思うのに。もうイヤだって、確かにそう思ったのに。
 でもこうやって優しく声をかけられると、うれしいと思ってしまう。どうしたって私は蘭が好きなんだと、強く実感させられてしまう。

 ズ、と鼻を啜った。溜まった涙がひとつ、またひとつと落ちていくのを、蘭が優しく拭うから。もう何もわかんなくなって。どうしたらいいのかわからなくて、ただただ声もなく泣き続けた。





[newpage]






 泣いて、泣いて、ずっと泣き続けて。その間蘭は待ってるだけ。よくもまあ私のためにそこまで待っててくれるな、と思う。待つのとか、嫌いそうなのに。
 上手く呼吸ができなくて、ひっく、と息が引き攣る。出し切ってしまったのか涙はもう止まったのに、呼吸だけがままならない。なんとか正そうとして、息を止めるように唇を噛むと蘭の指が無遠慮に触れた。

 淹れてくれたココアはもう既に冷めきっていることを、マグカップの温度が伝えてくれた。

「落ち着いたか?」
「うん、」
「で? オレに言える?」

 それは、どうなんだろう。
 蘭の声はずっと優しいまま。心做しか表情も柔らかく見えるけど、私がフィルターをかけてしまっているからかもしれない。

 伝えて、嫌われたら? 考えて、ふと気が付いてしまった。ここ最近、と言うよりは声が出なくなってから、私は我慢していた事を我慢出来なくなってた。蘭のことを怒らせたし、蘭の前で泣きもした。めんどうだとも言われた。

 口を開いて。きゅっと力を込めて閉じた。なんて言おうか考えて、少し。

「……蘭、は、私のこと、どう思ってるの…………?」

 結局のところ、それがわからないから。わからないから、言っていいのか迷った。
 私がココアが好きな事を蘭が知っているなんて、私は知らなかった。蘭が私のことを待ってくれることを、知らなかった。
 蘭は少し、ほんの少しだけ目を見開いて、そして困ったような顔を見せて、「今?」と更に疑問で返してくる。

「だって、わかんない……。なんであの時、私のこと抱いたのとか、今、ここにいるのとか、私のことを、聞いてくるのとか、なんで、わたしにやさしくするの、とか、ぜんぶ、ぜんぶわかんない」

 わからないから、困ってる。こんなの初めてだった。だって蘭は私にもわかりやすいように機嫌がいい事も、悪いことも、態度で教えてくれていた。隠そうと思えば隠せるものを、わざと見せて教えてくれていた。だから私は蘭が教えてくれないとわからない。

「……好き以外になんか理由あんの?」

 ………………、…………?








「え、好きなの?」
「好きだけど?」

 ぱちり。目を瞬かせる。
 蘭は平然としていて、さも当たり前のような顔をして、首を傾げていた。

「それ、は、聞き分けがいい、私が、じゃなくて……?」
「オマエは人形になりてーの?」
「ちがう! けど、でも、蘭に嫌われるぐらいなら、それでもいいって、思ってた、……けど、我慢、出来なくなって、」
「て?」
「それが、たぶん、ストレス、で」

 なるほどな〜、とやけにのんびりした声だった。流れで言ってしまったけどこれで良かったのかな。やっぱり、まためんどくさいって言われない?
 オマエさあ、って蘭の言葉に体が震える。何を言われるのかわからなくてぎゅっと強く目を閉じたけど、数秒経っても何も言われない。どんな顔をしているのかわからなくて、こわくて、目を開けられない。

「なんでもっと早く言わねーの。つーか前にオレ聞いたじゃん、その時言えば良かっただろ」

 なんでか、本当になんでかわからないけど、蘭のその言葉で全身の力が抜けていった。肩の荷が降りたような、そんな感覚。らん、と口が動く。力を込めていたはずの瞼はすっかり持ち上がっていて、怒ったような、不貞腐れてるような、なんとも言えない蘭を視界に捉えた。

「嫌われると思った……」
「はー? んなことで嫌うならその前にオマエのこと忘れてるわ」
「……あの時、怒ってたのは、なんで?」
「オマエが言おうとしねーから。そりゃ怒るだろ、オレにはなーんも言わねぇんだし」
「…………わたしのこと、すきなの?」
「今更すぎだろ」

 なんだ、……なんだ。そうだったんだ。
 蘭が真っ直ぐに私のことを見てくれているから、すとん、と自分の中に落ちてくる言葉たち。
 知ってしまえば、今まで悩んでたのがバカみたいに思える。なんでこんなに悩んでたんだろう。

 だって、蓋を開けてみればあんなに我慢する必要はなかった。我慢して我慢して、くるしくなる必要なんて、どこにもなかった。
 もっと早くからちゃんと蘭と話せていたら。ストレスで声が出なくなることも、蘭から離れる決意をすることも、全部しなくてよかったことだった。ひどく遠回りをした。

「ご、ごめん」
「んー?」
「……ひとりよがりで、迷惑かけて、ごめん……。で、でも! 蘭もちゃんと言ってくれたら良かったのに……」
「まさか好かれてる自覚がないとは思わねーじゃん?」
「き、聞いた事、ないもん……」

 そうだっけ? 誤魔化すように蘭がケラケラと笑う。蘭がちゃんと好きだって言ってくれたらこんな事にはならなかったのに。たぶん。きっと。……いや、わかんないな。
 しなくてよかった遠回りかもしれないけど、必要なかった、とまでは思えなかった。
 傍から見ればなんて単純な、と思われるかもしれない。それでも私は、今、昔の自分が救われたような気がした。