一夜明けて、俺は自己を構築する要素の曖昧さについて考えた。
わざわざ本屋まで赴き、適当に見繕った唯物論と観念論の本をぱらぱらめくりながら。

普段は一服しさえすれば冴え渡るこの脳髄も、やたら難しい言葉遣いとまどろっこしい言い回しにはうんざりしていたらしく、諦めて本を閉じた後も頭痛は止んでくれなかった。

なんだか厄介なことに巻き込まれたというか、首を突っ込んだというか。

窓から差し込む暖かい陽気を浴び、いつ会えるのかも不明瞭である名前さんを思い出して、あのひとは日光に触れたら融けてしまいそうだなと思った。


今夜は、いや、今夜も来ないのだろうか。

あれから足繁く通うようになったバーではすっかりバーテンダーと顔馴染みになったが、ひと月たっても名前さんは現れなかった。

折り悪く各々の都合が重ならないというわけではないようで、そもそもバーテンダーですらここのところ彼を見かけていないそうだ。

「今夜も待ちぼうけだね、馬場さん」

「はは、ほんと…振られた男みたいだな」

「店としちゃ有難い話だけどね。ま、ごゆっくり」

バーテンダーはカウンター内の仕事に戻っていく。
どうせ今夜も彼は現れないだろう。

不意にからんと軽い音がして、店の扉が開かれ一組みの男女が入ってきた。

名前さんのせいで反射的に入店した客に目をやるつまらない癖ができてしまった。
やれやれと首を振りバーボンソーダに口をつける。

-こんばんは

びっくりしてグラスを取り落としそうになった。

-おひさしぶりですね、馬場くん。

視線を上げると名前さんが立っていた。
コートから軽く雪をはらいながら静かに俺に笑いかけている。
霞のように現れた名前さんの後ろでは、入店したばかりの男女が奥のテーブル席に向かっているところだった。

「い、いつの間に?」

-今入ってきたところですよ。

「だって、そんな」

俺に構うことなく彼は以前と同じウイスキーのストレートを注文すると隣の椅子に腰掛ける。
そのとき確かに、幽かだが血の香りが鼻を掠めて自然と身体が強張った。嗅ぎ慣れた香りを纏う名前さんの、その雰囲気に異質さは感じられない。
俺が凝視していることに気づいたのかどうか、こちらをちらりと見やって微笑を浮かべる男はどこまでも得体が知れなかった。




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