-馬場くん。貴方は、謂わば歴史主義的な観点からスワンプマンと男は別人ではないかと考察されました。
したがって、反駁すべき私は同一人物であるという意見を述べましょう。この発想は単純な物理主義が最も適当でしょうか。
「物理主義、ですか…?」
-文字通り、世界に存在するあらゆる事象を物理的であると定め、人間の心や精神によってもたらされる因果関係を否定する。
心的な性質も含めて、普遍的なもの全ては明確な物理法則に基づいている、とする考え方ですね。
「………えっと、つまり。物理的、ってのは…具体的にどういうことですか?」
いまいち要領を得ないままの俺に、彼は優しく微笑んだ。
慈母とも見紛う穏やかな微笑みの裏に底知れぬ闇が横たわっているなぞ…茫と感じこそすれ知りも知らない俺は、やはりぼやけた脳みそで名前さんに熱っぽい視線を送るだけだった。
-そうですね、例えば…両親が死んだために哀しくて泣く。
その行為は身近な人間の死が精神に支障をきたして泣いた、というわけではありません。
-網膜と内耳から得た情報が電気信号に変換されることで、脳の特定領域が活動した結果、肉体の適切な反応として涙が流れる。
まあ、涙と感情の因果関係は正しく立証されてはいませんがね…大まかに言えばそんなところでしょうか。
「…へぇ…」
名前さんの講説を聞きながら、どうしてか不意に郷愁を覚えた。
顔すら定かでないが、ひとりの教師の丁寧な補習を受けているような。
気怠くもけして不快ではない、むしろ居心地良く思えるような。
黄昏の射し込む校舎、遠くから聞こえる誰かの声。
倦怠感を伴うこの時間がずっと続いてしまうのであろうかと錯覚するほどの。
彼が優しく諭すような口調で話すためか、酔いの回った自身が焦がれる憧憬か。
…名前さんは、この感覚すらも脳内の電気信号によって創り出された虚像だと言うのだろうか。
いずれにしろ、飽きもせず彼の面ばかり眺めている俺に一言一句聞き漏らさずに理解できるはずもなく、若年とも壮年とも見受けられる奇怪な男だなという感想しか出てこなかった。
-…馬場くん、聞いていらっしゃいますか?
「え、あ、まあ、はい」
ぼんやりしていたところに不意打ちを食らい慌てた俺はカウンターテーブルについた肘ががくりと落ちて、ついでにつまみの皿もひっくり返した。
からからとナッツの四散する空しい音が店内にこだまして、やってしまったなぁ、とどこか他人事のように考えた。
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