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茨と隠れ恋愛
2025/11/04 20:59

「今日は定時で上がれそうですか?」

 書類を持っていった時、副所長がこちらを見ずにポツリと呟いた。午後の少し落ち着く時間、昼休みを取りに行った同僚たちはオフィスを離れ、事務スペースには私と副所長しかいない。ちょうど得意先も昼休みなのかオフィスの電話はピタリと鳴りを潜め、電話番として残った私といつ昼休みを取っているのかわからない副所長だけが取り残されている。

「はい、今日は大丈夫です」

 私は時計を一瞬横目で見てから答えた。残る半日、今日終わらせなければならない仕事はその時間でどうにかなりそうだ。

「そうですか。最近あなたの残業時間が気になっていたので僥倖。帰れる時は早めに帰ってください」
「すみません」

 確かに最近忙しくて残業が重なっていた。明日から二連休なので、ようやく一息つけそうなのである。
 一瞬でシンと静まるオフィスに、電話がかかってきそうな気配はない。外の喧騒だ少し遠くなるくらい静かなオフィスは、昼休みの電話番をしている時だけに得られるちょっと異質な静寂である。

「……自分も、今日は早く上がれそうです」
「そうですか、よかった。副所長も働きすぎですよ」
「幸いなことに草鞋を何足も履いているもので。とはいえ休息は大切ですね」
「はい。たまには美味しいもの食べて、お酒でも飲むとかいかがですか?」

 そこで、椅子に座っている副所長が見上げるように私と目を合わせた。その視線に応えるように、私はにっこりと笑う。

「いいですね。接待では飲めないもの、たまには飲むのもいいのかも知れません。缶ビールとか、缶チューハイとか」
「副所長は酸っぱい系のレモンサワーお好きって言ってましたっけ?おすすめあるんですよ」

 こういうの知ってますか?新商品なんです。というと副所長は首を横に振った。いつも接待でばかりお酒を飲んでいる彼は知らないと思ったのだ。なんでも知ってる副所長が知らない事を教えるのは、なんとなく胸が空く。

「せっかくなんで今日買ってみます。コンビニ専売なんですよね?」
「そうなんですよ〜。ていうか私も買っていきます。飲みたくなっちゃいました」
「たまにはいいのではないですか?疲労時に飲み過ぎるのはよくないですが」

 そう言って、副所長がまた私を見上げた。その視線の意味を的確に受け止められたであろう自信と共に、私はまた時計を見る。同僚たちが帰ってくるまであと10分もなさそうである。

「家で飲むのも楽しいですよね。おつまみ、たまには気合い入れて作ったりして」

 と言っても簡単なものを数作るだけですけど。と付け加えると、珍しく副所長が笑った。

「それはいいですね。自分、じゃがバターとか食べたい気分です」
「え〜美味しそう!新じゃがの季節ですもんね!」
「じゃがバターに塩辛乗せて食べる食べ方があるらしいですよ。どこかの地方の食べ方とか」
「へぇ、やったことないです。今度やってみようかな」

 ぜひ。と目を細めた茨くんに、私は一つ頷いて、鳴り出した電話に手をかけた。さて今日は久しぶりに定時に帰れて、茨くんも早く家に来られるそうだ。彼はコンビニ専売のレモンサワーが気になっているし、食べたいおつまみはじゃがバターに塩辛を乗せたもの。帰りにスーパーに寄って新じゃがと塩辛を買って帰る事が決まった私は、久しぶりに彼とのんびり出来る夜を楽しみに午後の仕事の糧にするのだった。



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