恋針一花
また衣装が増えた。
なまえは周りの侍女に聞こえない程度にため息を吐きながら、今朝贈られてきた恐らく高価な布をふんだんに使って作られたであろう衣を目を細めて眺めてみた。
紅梅色の衣に、それよりも濃い紅や金糸、白の糸で刺された刺繍は控えめながらも大層美しい。全体的に淡い色合いの衣だから、きっと中の襟や裳(スカート)、帯のどこかに少し濃い色か、いっそ黒を使ってみても楽しめそうだ。
などと考えたが、なまえはそれを手に取ること無く、いつも着ている嫁入りの際に持ち込んだ衣を選んだ。侍女がいぶかしげに「お召しにならないのですか?」と訪ねてくるのを「着こなす自信がなくて」と曖昧に笑って流す。「折角の陛下からの贈り物ですよ?」と、さりげなく侍女は促してくるけれど、なまえは「いずれ」とやはり曖昧に笑って済ませたのだった。
平民だったなまえがこの小国の王に嫁いだのは、つい1ヶ月ほど前のことである。平民街で食堂の看板娘をしていたなまえに王宮からの使者と名乗る者がやってきたと思ったら、気がついたら花嫁衣装を着て、初めて顔を見た王の隣に並んでいた。混乱しているなまえをよそに話はどんどん進む。そうして時間の流れに置いていかれた結果、なまえは王の唯一の妃として城で生活を送っているのである。
勿論実感などない。それを増長させるかのごとく、王は婚儀の時以外なまえの元へ来たことなどなかったし、勿論初夜なんてものは存在しない。寝室も別である。
故になまえはただ、王宮に住まいを借りてタダ飯を食らっているような気分にしかならないのであった。
そも、この国の若き王は先の戦いで心を大いに痛め、壊れてしまったなどという噂を聞いたことがある。常に少女の人形を側に置き、人形と会話をしているという。婚儀の時ちらりと見えた顔は大層若く美しかった記憶があるが、余りあるインパクトを抱えた情報にめまいがする。真偽を確かめられるような状況でもない。なまえはそこで、自分の人生を諦めた。趣味である裁縫を禁止されなかったことだけが救いだな。と、今までは一人でしていた着替えを手伝ってもらいながら、ぼんやりと遠い意識の中考えた。
しかし一つだけ困った事がある。王が妙に衣装の贈り物をしてくることだ。
元々平民で、質素な生活を贈ってきたなまえにとって、豪奢な衣装は肩が凝るだけだった。嫁入りに、ということで母がくれた衣は王宮で着るには質素な布で作られているが、それを好んで着る毎日である。侍女は手伝い甲斐がないのかやや不満そうだが、王と顔を合わせるよりも高い頻度で贈られてくるその衣装に袖を通すのは、なんとなく変な気がして出来なかったのだ。
こんなもの贈ってくるのなら会いに来てくればいいのに。などと思ってしまう。自分から王に会いに行くのははしたない事かとしれないと危惧してしまい、直接この大量の衣装の謎も聞くことが出来ず、謎は謎のまま、平行線をたどっているのだ。
「…はぁ…息詰まる…」
朝食後に侍女に許可をもらって、なまえは庭へと出てきた。以前は何をするにも侍女が付いてきたが、一人でぶらつきたいという話をしたら何度かのお願いでなんとか一人になる時間をもらえたのだ。曰く「陛下からお許しが出ました」とのことだが、何せほとんど会わない夫が許可したからといって、礼をする気にもならない。
四季折々の花や美しい水辺はなまえの心を癒してくれるけれど、癒しでは心が晴れることはない。以前のように働きたい。街に帰りたいという思いが日に日に強くなっていることに、なまえは気が付き始めていたのだ。
家族は元気だろうか。
働いていた食堂の主人や女将や常連は、心配してくれているのではないか。
友人たちは驚いているだろう。一目でいいから会わせてはもらえないのだろうか。
一人の王宮は寂しい。
寂しい。
そう考えれば考えるほど、のどに何かが詰まったかのように息が出来なくなる。もし王と結婚なんてしなければ、などということさえ口には出さずとも考えてしまう。
「…はぁ、」
しかしいるだけで機能などしていない妃ごときのため息が漏れただけでは、国随一の庭園の花が揺れることも、池の水面がゆらめくこともない。
そう、この場所ではなまえが何かに、誰かに影響することも影響も与えることもないのだ。
「…ぅ、…」
色々な思いはまんまと堤防を瓦解させた。周囲に侍女がいない今なら思い切り泣けるだろうと思って、ひらひらと風に舞う衣の袖で思わず顔を覆えば、その瞬間、
「具合悪いん?」
「きゃっ!」
背後から不意に聞こえてきた声に思わず悲鳴を上げて後ろを振り返れば、そこには見たことのある顔をした少年が困ったように眉を下げてなまえを見ていた。
彼の瞳と目があって「あ、この子」と一目で思い出す。彼は確か王の側近の、
「…みか、殿ですね」
「んあ、覚えててくれたん?」
なまえは一つ頷いた。彼の言葉の訛り方はこの辺のものではないし、左右色違いの瞳は人形好きの王が好みそうなそれだ。婚儀の時に見ただけですぐ覚えてしまった。
「そっか…あ、それよりも、お妃さん具合悪いん?大丈夫?お師さんに知らせな」
「お、お師さん?どなたですか?お医者様でしたら…」
別にどこも体の調子は悪くない。ただ寂しくて悲しくてこの際だと思い切り泣こうとしてただけだから、医者を呼ばれても無駄足になってしまうのだ。しかしみかは首を横に振った。
「え、ではどなた…」
「宗王のことやで。おれはお師さんって呼ばせてもろてて…」
「えっ、へ、陛下のことだったんですか?!」
驚いたように声を張れば、みかは強く頷いた。とんでもない!と、なまえはみかより強く首を振る。
「んあ、なんでなん?お妃さんはお師さんの奥さんやろ?」
「名目上は…そうですが…」
「めいもく?んー、難しい事はわからん…」
困ったように眉を下げたみかに「大丈夫ですから」と念を押すように言ってから、一つ静かに礼をとった。
「お時間を取ってしまい、申し訳ありませんでした。お気遣い痛みいりますわ。」
婚儀を上げるまではおよそ使ったことのなかった言葉をなんとか操りながら、これから王の元に戻るであろう側近に恭しい態度で頭を下げると、身を翻した。もう散歩という気分ではなくなってしまったのである。
「あ、ま、待ってや!」
しかしみかに背を向けた直後、後ろからぐい、と手を引かれた。「きゃ」と小さく悲鳴を上げながら後ろを振り返れば、色違いの硝子のように美しい瞳を迷子の子犬のように彷徨わせながらも、みかははっきりとした口調でこう言ったのだ。
「何か困った事があるなら、いつでもお師さ…陛下に相談した方がええで?」
「いえ、そんな…」
「お師さんはお妃さんが会いに来てくれるのをずっと待ってるから…」
その瞬間なまえの心の臓は、自分が思っているよりも冷たく冷えた。紡ぎ出される声も、それに引きずられるように冷たくなる。
「まさか。そんなはずはありません」
「え?」
「陛下は、私の事などお忘れかもしれませんし」
しかしなまえの言葉に苛立ちを感じたみかが声を荒げた。先ほどまで緩んでいた瞳が、氷柱のように鋭くなる。
「なんで…なんであんたがそんなこと言うん!?お師さんのこと、なんもわかってないやん!!」
そう言ってから、なまえの肩を強く掴んだ。反射的に小さく悲鳴をあげれば、一瞬で我に返ったのだろう。みかは慌てて三歩後ろに下がってから、膝をついて礼を取った。
「ご。ごめんなぁお妃さん…!おれ、」
いつもなら誰に掴み掛かられようがきっと気にしなかっただろう。しかし彼の言葉が今のなまえに刺さらないわけがない。礼を解いてよい、という事も言わずに小さく呟いた。
「…陛下のことなんて、わかりませんよ。わかるわけないわ。婚儀以来お会いしてないんだもの…」
みかが思わず顔を上げた。その瞬間思わず涙がぽろりとこぼれ落ちる。我慢してたのに、と思わず心の中でごちた。
「わからないの。急に王と結婚するなんて言われて輿に乗せられてあっという間に後宮で一人よ。会いに来てくれないのは、向こうじゃない…」
段々と、言葉使いすら庶民の頃のものに戻ってしまう。が、止められない。裳をぎゅ、と握りしめながら震える声きょとんとしたみかの瞳を緩む視界で見つめながら「衣ばかり頂いたって、意味ないのよ…」と言えば、みかが弾かれたように言葉を挟んだ。
「えっ?お妃さん知らないん!?」
「な、なにがよぉ…」
もう妃としての体裁もなにもかもどうでもいい。ボロボロ泣きながら庶民の言葉遣いでみかに訴えれば、みかは許しも得ぬまま立ち上がり、もう一度肩を掴んだ。
「お願いお妃さん。明日、明日は絶対に今日お師さんからもろた衣着て、朝ご飯をお師さんと食べて…!」
「え、な、」
「おれの一生のお願いや!今日もろたやつやで!紅梅のやつ…!」
ほな!と一言叫んでから、あっという間にみかは走り去ってしまった。取り残されたのは、やはり大泣きするに出来なくなった寂しい妃が一人である。
「な、なによう…!!なにがなんだかサッパリじゃない!!もう、ばか…!!」
とりあえず、叫んだ。その勢いに押されたのか、近くで沈丁花が微かに揺れたのである。
結局その後すごすごと後宮に戻ったなまえは、もはやヤケクソの域に達しながら、侍女に明日王と朝食を取りたいという旨を伝えた。するとどうだ。侍女は急に満面の笑みで「もちろんでございます!」と叫ぶなりそこからはなまえが見たこともないほど活気づいて働き始めたのだ。
元々働き者の侍女ではあったが、その日は明日着る衣装は、髪飾りは、耳飾りはなどと嬉しそうに聞いてくるものだから、なまえはやはり半ば自棄になりながら「昨日陛下から頂いた衣に合うものを」と言えば、とうとう侍女は涙ぐみ始めた。「やっとですわ陛下…!」などと感極まりながら言っているので「そんなにこの衣を私に着せたかったのですか?」などと言えば、侍女はまるで豆鉄砲をくらったような顔をした。
「まぁお妃様!ご存じなかったのですか!?」
既視感。
つい先ほども言われたばかりのその言葉に、なまえはやはり首を傾げることしかできない。
「なにをですか…?」
そう言えば、侍女は心底嬉しそうに笑いながら「明日の朝食時、陛下に窺えばよいことですわ!」などとやはり嬉しそうに返してきた。
さっぱり意味がわからない上に、なんとなく気味が悪い。しかしこれはもう陛下に直接聞くしかないようである。余計なことを聞くなと陛下の不興を買って離縁させられてもそれはそれ。このまま靄の掛かったような視界でいるくらいならそのくらいの爪痕残してやろうと言わんばかりに意気込んで、なまえはその日寝台に入ったのだった。明日は召し替えと化粧の為にいつもより何刻も早い起床である。思い切り眠ってやるとそこでも意気込んで、すっかり意識を手放したのだった。
「失礼致します。お妃様がいらっしゃってございます」
そんな言葉を恭しく言った侍女の声で、兵が扉を開ける。
次の日の朝、なまえはいつもの自室ではなく王の部屋で、昨日送られてきた紅梅の衣に灰色の襟と帯、生成の裳(スカート)を着て婚儀以来の王の元へと来た。普段自分が着ていた衣とは格の違う布だとすぐにわかるような肌触り、質感に裾捌きですら少し緊張してしまうほどであったがなんとか着こなせるよう背筋を伸ばして、気分は王に喧嘩を売りに行くくらいの気持ちでなまえはその場に立っていた。なんの喧嘩だ。なにが喧嘩だ。などと自分でも呆れてしまうが、いっそそのくらいの勢いでないと気持ちが後ろに後ろに引きずられそうだったのである。
「…おはようございます陛下。本日はご朝食のお時間を共にしていただき、まことにありがとうございます」
そう言って礼を取れば、少しだけ間が開いてから「…頭を上げたまえ」と聞こえた。婚儀の時に聞いた時と同じ、凜と響く声である。
「失礼します」
さっと頭を上げる。そこには視線を少しうろつかせた宗王陛下と、側近のみかがいた。他の侍女や側近の姿は見当たらないが、卓の上に金色の髪に青い目をした人形が置いてある。名前は確か、
「マドモアゼル様もみか殿もおはようございます」
「んあ、お、おはようございますお妃さ…ま」
「おはようなまえちゃん。今日は一緒にお食事できるって聞いて私も宗君もとても楽しみにしてたわ」
…喋った。しかしそんなことくらいではもはや動揺などしてやるものか。女は度胸だと街の食堂の女将も言っていたではないか。
みかが少しおどおどとしながら椅子を引いてくれたので、それにそっと腰掛ける。食事は既に毒味を終えて温め直してあるようで、羹からは湯気が立っていた。
「では、頂こうか」
そう言って、王は静かに箸を持ち上げる。なまえも「はい」と返事をしてから彼が食事に箸を付けたのを見届けた後粥に匙を付けた。薄い塩味が朝の少し寝ぼけた身体にちょうどよい。梅を塩で漬けたものも紫蘇が入っているのか品の良い味がする。
「…美味しい、ですね陛下」
「あぁ。そうだね」
「……」
「……」
しかし食器が微かに擦れる音すら耳に痛い。婚儀以来ほとんど会っていなかった王といきなり食事を共にした所で、会話など弾むはずもないのである。気まずくて、食事を飲み込むのすらも緊張してしまう。魚の煮物が甘くて美味しいのに、それをいつものように侍女に伝えるのすら憚られるような気分になってしまうのだ。これならば、いつものように一人で朝食をとった方がましだった。折角もらった紅梅の衣もなんだか締め付けられてるような気分になってきてしまう。
しばらく沈黙状態のまま進まない食事をなんとか食べていたが、不意にすぐ近くで声がした。
「なまえちゃん。そのお衣装着てきてくれたのね。とっても似合っているわ」
ふと顔を上げれば金髪の人形がにこりと可愛らしく微笑んでいる。ふと一瞬王の顔を見たがこちらを見ることもなく黙々と食事をしているので、この空気を打破したいが為に藁にも縋る思いでマドモアゼルと話してみることに決めた。もしかしたら少し、王の事がわかるかもしれない。
「ありがとうございますマドモアゼル様。恥ずかしながら市井の出ですので、着こなせているか心配なんです」
「大丈夫とっても素敵よ。なまえちゃんには紅梅色が似合うって宗君ずっと言っていたの」
「そ、そうなのですか…?」
まさかマドモアゼルからそんな言葉が出てくると思わなかった。思わずちらりと王の方を見れば、こちらを見ていたらしい彼と目が合った。驚いたせいで目を逸らすタイミングを逃してしまい結局しばし見つめてしまえば、王は微かに視線を手元に移したが、やがてゆっくりと口を開く。鋭い声をしているけれど、語尾はどこか柔らかい。
「…君は、唐紅や緋色のような濃い色よりも紅梅や淡紅色のような柔らかい色の方が似合う顔立ちをしているからね」
「そ、そうですか…?ありがとうございます陛下」
「…ひとつ、聞いてもいいかね」
箸を置いた宗王が真っ直ぐになまえを見つめて言った。つられて箸を置いて、背筋を伸ばしてから一つ返事をした。若く美しい王の真っ直ぐな視線は、気まずさを感じているなまえにとっては少しばかり熱い。しかし王に問われているのだ。妃として、というより臣下として返答しなければならないのである。
「…なぜ君は、今まで僕の贈った衣を着てはくれなかったのだろうか」
「……は、」
「君がいつも着ていた衣が、母君がくださったものなのは知っている。しかし、もしや僕が贈った衣がどれも気に入らなかったのでは、と思ってね…何が気に入らなかったのか直接聞きたいと思っていたのだよ。何が気に入らなかった?色か?刺繍の模様か?それとも…」
「い、いいえ陛下。そういった訳では…」
ふと、王の視線が翳った。なまえの目に寂しげに映るその顔は、つい先ほどまで喧嘩腰と言わんばかりだったなまえの庇護欲すらもかき立てていく。
「…それとも、やはりこの婚姻関係を否定する為、だろうか」
「……え、」
王の声が微かに震えている。そのことに気がついてもそのまま流して気にしなければよかったのに、なまえは思わず反応してしまった。誤魔化すこともできないくらいあからさまな声を漏らしてしまったせいで、次の言葉を発するしかない。なまえの方が声を堅くしながら唇を開く。今し方お茶を飲んだはずなのに、喉は干からびそうなくらいカラカラだった。
「庭で泣いていたことは、影片から聞いている。急に妃としてこんな所に連れてこられても、君にとっては誘拐されたも同然だろう。だから…だから沢山華やかな衣装でもあれば、気分も変わるかと思ったのだよ」
「そう…だったんですか…」
庭で泣いていたこともしっかり報告されたとは思っていなくて、急に羞恥心が湧き出る。きっと赤くなっているであろう頬に気が付かないふりをしながら思わず俯けば、不意に名前を呼ばれた。なまえは反射的に顔を上げる。まさか、名前を知っていてくれたとは思わなかったのだ。
「…なまえ」
「は、はい」
もう一度呼ばれた。今度はちゃんと返事をして、王の瞳を見る。瑠璃のように美しく、湖のように静かな瞳は婚儀の時にも見ることは出来なかった美しさがある。しかしその瞳が微かに揺れている気がして、思わず息を飲み込んだ。
「…婚姻関係を解消してやることは出来ないが、せめて君の気が紛れるような贈り物をしたいと思う。何か、欲しいものはあるか?」
「…え、あの、」
唐突な話だ。なまえの脳内は混乱でくるくると回る。しかしそんな彼女を置き去りにしたまま、宗王は矢継ぎ早に言った。
「…僕が作れるものは針で縫えるものに限られてしまうから、もし宝石や装飾品が好きならば商人を呼ぼう」
「いえ、そんな高価なものなど」
「しかし君は僕が作った衣達を気に入ってはくれなかったようだから何か別の物を、と考えたんだ。どれも君に似合う色の生地と糸で作ってはみたが、そもそも君の好みを知らないし…僕の作ったものがお気に召さないようならば、根本的な話だ」
「いえ、そんな……え!?」
「な、なんだね」
王の動揺するような声を遙かにしのぐように驚愕して、なまえは目を剥いた。今、驚くべき事実をさりげなく告げられた気がする。
「へ、陛下…あの、もしやとは思いますが、この衣、いえ頂いた衣全て…陛下御自ら作ってくださったのでしょうか?!」
やや卓に前のめりになりながらそう問えば、きょとんとした顔の王と目があった。「何を今更」というような顔をしている。
「そうだが…もしや知らなかったのか?」
「し、知りませんでした」
そうか。と、少し悲しげに目を伏せて、王が言った。
衣の贈り物なんて、片手間にくれているのかと思っていた。適当に臣下に選ばせて、何を贈ったまま王は知らないまま放置されているのかと思っていた。
「今が着ている紅梅の衣の袖に入っている花は、婚儀の時、君が髪に差していた花だ」
「えっ」
思わず袖口を見た。確かにそこには、なまえが好きで婚儀の際に簪の横に指していた花である。刺繍の細工があまりに緻密で、気が付かなかった。
「あの花が好きなのだろうと思ったのだが…」
「は、はい。大好きなんです。この花」
「…そうか。それに、婚儀の際とてもその花が似合っていて…その、可愛らしかったから、刺繍の図面に組み込んでみたのだよ」
「えっ、あっ、ありがとうご、ざいます…」
我ながら現金だと思う。今日、こうして王の話を聞くまではいっそ後宮から追い出してくれればいいなんて思っていたのに。きっと王は自分に興味などないのだから、庶民の出である自分など、いてもいなくても変わりないと確信していたのに。目の前にいる宗王が頬を少女のように赤らめて話すのを見て、今まで自分がいかに何も知らなかったことを痛感したのだ。
そしていかに自分も王に言葉を伝えていなかったかを、思い知ったのである。
「陛下。では、一つ頂きたい物がございます」
「な、なんだね。何でも言ってみたまえ」
少し高揚したように瞳を輝かせた王が、なんだか可愛らしい少年のようにも思えてきた。冷酷な王だとばかり思っていたのに、政務で忙しい合間に自ら布に針を通してくれていたなんて知れば、知らないふりをしたくとも出来ない。
もしかしたら自分は、自分が思っているよりも王に愛されているのかもしれないという考えが浮かんでも、自惚れだと言い切れないのである。
やはり現金だ。とやや自嘲気味に微笑んだのだが、宗王はそんななまえの顔を見て、また少し瞳を明るくさせながら、なまえの答えを待っている。
まだ、自身の抱く王への感情は恋愛感情ではないけれど、歩み寄れるかもしれない、とまず背筋を伸ばして、それから今度は自嘲気味にではなく、もっと柔らかく、なまえは親愛を込めて微笑んだ。
「では陛下。叶うならばお時間をください。衣もとても嬉しいですが、陛下と…旦那様とお話する時間が、私が今一番欲しいものだと思います」
笑ってそう言えば、宗王は耳まで赤くして「君がねだるのなら仕方ない」と咳払いをした。
きっと、喜んでくれているのだろう。
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