恋糸二火

一目惚れ、という言葉は知っていた。美しい物に一目で惹かれてしまうことは珍しくないとは思っていたが、たった一度『彼女』を見ただけで、心ごと持って行かれるとは思ってもいなかった。色恋ごとが絡む一目惚れは、むしろ低俗なものという認識さえあった。

認めたくなかった。認めてはいけないと思った。

なのにまた彼女の顔がみたい。声を聞きたい。名前を知って、名前を呼んでもらいたいと願えば願うほど、その願望を叶えたくて夜も眠れなくなった。
夜毎高鳴る胸が、先の戦いで負いたくもなかった膿でぐじゅぐじゅに腐り落ち、それを無理矢理焼いて塞いだかのように爛れた心の傷をほんの少しだけ癒してくれるような気がしたのが、また宗に嫌気の影を落としたのだった。




戦いを終え、宗の国は周辺の国と同盟を組むことによってどうにか西の大国と休戦協定を結んだ。宗の国を含めた周囲の国は小国ではあるが資源が豊富であったり農業や工業が盛んな国の寄せ集めである分、同盟を組んだことが大きな成果となり、どうにか豊かな国として在り続ける事ができた。

隣国を治める朔間零が外遊に来た際、彼は国の長という自覚が宗よりも薄いのかはたまた濃すぎるのか、市井の暮らしを見たがった。仕方なしに宗も変装して付いていったのだが、昼食をとった街の食堂にいた娘の事を思い出すと体調が悪くなる。何か悪い物でも食べたのかもしれない、と翌日自国に帰るという零に相談した所、こんな返答が返ってきてしまったのだ。

「それは完全に恋じゃろ。嫁に来てもらえばいいだけの話じゃな」

宗の思考は、一度真っ白な霧の中に沈んだ。うっかり花茶の入った茶器を落としそうになったのをマドモアゼルが慌てて注意してきた事で、ようやく正気に返っては首を横に振った。

「まさか。そんなわけがないだろう。一目しか見ていないじゃないか」

「世の中には一目惚れという言葉がある。斎宮くんが気に入ったというのなら庶民でも構わんじゃろ。幸い政略結婚など必要ないくらい落ち着いたしのう」

「ノンッ!そういう事を言っているのではないのだよ!!一目惚れなど迷信のようなものだろう!ただの気の迷い…いや、そもそも一目惚れなどではない!」

苛立ちをそのまま零にぶつければ、零はうんざりしたようなため息を吐いた。彼の癖のある艶めいた黒髪が、庭園の東屋を吹き抜ける風にそっと遊ばれている。着物の裾がハタハタとはためく音が、宗の耳に妙に響いた。

「でも斎宮くん。うかうかしているとあんな元気で器量の良さそうな娘、あっと言う間に親に縁談組まされて他の男のものになってしまうぞい?」

「…!!」

「さすがに宗王といえど、人の物になった娘を嫁がせることは出来ないと思うがのう」

そう零は淡々と言うと、色鮮やかな花茶を飲み干した。隣にいた側仕えのみかがおどおどと茶器を片づけている。
確かに年齢的にも結婚適齢期に差し掛かっているくらいだった。あの夏の太陽のようなまぶしい笑顔を他の男に向けるのか。そうなれば宗とは二度と、言葉を交わすことはないだろう。

「…零くん。あまり宗くんを悩ませないであげて」

黙り込んだ宗の代わりに、マドモアゼルが瑠璃の瞳で零を諫める。零はそんな彼女を見て微笑むと、こう言って自国へと帰っていった。

「婚儀を上げるなら早めがよいと思うぞい。国政が落ち着いたというのなら、民は幸せな報告を耳にしたいものじゃからな」

次の日、宗は使者を娘の家へと送った。かの王が娘を妃に、と申しています。という言葉と共に。




しかしそれから、宗の思うようにはなかなか進ませることが出来なかった。急に王宮に連れてこられたなまえに気を使って寝室を共にさせる事は未だ一度も出来ていないし、彼女を想って作った衣装がなまえの心を慰めてくれればと願って送ったものは一切手を付けてもらえない。あの目が覚めるような明るい笑顔を向けてもらう日を願っているのに現実は幾ばくも遠くて宗もすっかり参っていたが、ある日急にその壁は瓦解した。彼女自ら朝食を共にしてくれて、宗が作った衣を着てくれるようになって、一緒に過ごす時間が欲しいと言ってくれたのである。原因はほんのすれ違いと、互いにあまりに足りなかった交流のせいであることを知った。そうなると、宗が一目惚れした娘は一気に距離を詰めるように、宗に近づいてきてくれるようになったのである。



「こんにちは陛下。お仕事お疲れ様です」

昼食を終えた午後、薄萌黄の爽やかな大袖を着たなまえが、宗の執務室を訪ねて来た。ついこの間季節が変わるのに応じて宗が作った新作で、豪奢な刺繍などは緊張してしまうと言っていた彼女の要望に応えて袖と襟に控えめな刺繍を刺したのだが、彼女はこの衣を大層気に入ってくれたようである。涼しげな薄手の生地をひらひらとさせながら、最近は宗の執務室にも顔を出してくれるようになった。勿論宗が政務で手一杯の時はそっと場を離れているようだが、宗の手が空いた頃を見計らってこうして会いに来るのである。

「あぁ」

宗にとって、最近はそれが癒しのひとときになりつつあった。
今日もちょうど政務にひと段落ついた辺りでひょこりと顔を出したなまえに思わず緩みそうになった表情筋を締めるのに少しばかり手間取りながら、宗の側に控えていた文官に一応声をかけてから近付いてくるなまえを出迎える。

「陛下。もしお手が空きましたら庭を少し散歩しませんか?みか君にお茶の準備もして頂いているんです」

屈託の無い微笑みを浮かべながら、あの時街の食堂で宗が聞き惚れた声と同じ声で誘ってくれる彼女を断れるわけがない。しかしここで大きく頷けるほど素直でもない。少し目線を下げながら、宗はさも仕方なし、とでも言うように返事をした。

「そうだね。たまたま手が空いたよ」

こんな風に、あまり可愛げのない返事しか出来ない。
けれどなまえは宗の肯定に少しばかりだが笑ってくれるのだ。

「ちょうど紫陽花が咲いてるんです。東屋へ行く前に寄りませんか?」

庶民出身の彼女はどうにも話し方に市井の余韻が残ってしまうが、品がないとは思わない。少しずつ女官達が妃としての作法を教えているものの、それもゆっくりで構わないと宗は思っている。彼女らしい振る舞いをしてくれる様が最も彼女を美しく見せると思っているからだ。証拠に、街の食堂で大声を張り上げながら「お待ちどうさまー!」と笑顔で料理を持ってくる彼女は大層可愛かったし、美しかった。

以前の宗ならば、市井の民の話し方は品のないものだと思っていたし、礼儀作法が出来てない娘には軽蔑の眼差しを向けていたし、何よりそんなに大声で話す娘になど近寄りもしなかった。しかし恋という厄介な感情は、宗のそんな考えをあっさりと覆してしまった。宗の、品のないものが嫌いという本質は変わらないのだが、俗世全てが品のないもの、という認識は少しずつ変わりつつあったのだ。



「そうだね。そうしようか」

なまえの提案に勿論頷いて、マドモアゼルを抱えた宗は卓から立ち上がった。「あら宗くん。私お邪魔じゃないかしら?」とからかうマドモアゼルに内心ギクリとしながら彼女の元へと足を運ぶ。

「マドモアゼル様もご一緒ですね。とっても嬉しいです」

宗の腕に抱えられているマドモアゼルに目線を合わせて、なまえがにこりと微笑んだ。

「私もよなまえちゃん。お邪魔だったらごめんなさいね」

「いいえ。マドモアゼル様ともっとお話してみたいですから、ご一緒出来てとても嬉しいですよ」

マドモアゼルにギクリとさせられた宗の心臓は、今度は棘が触れたようにチクリとした。勿論愛らしいマドモアゼルをなまえが褒めるのは当然である。が、先ほどの一緒にいられて嬉しいという言葉は出来れば宗にも言って欲しい。などという欲が一瞬頭をよぎる。が、すぐ様そんな思考は力ずくでねじ伏せた。自分ばかりが彼女を想っているのがありありとわかってしまって、ほんの少しだけ悔しくもあるのだ。

しかしそれも仕方のないことではないか。と即座に思い直しては微かに出来た心の傷を見ないフリをしてやり過ごした。

そもそも彼女は理由もわからず連れてこられたのだ。こんな風に執務室に来てお茶に誘ってくれるようになっただけで宗にとっては幸福の極みのはず、なのである。誘拐されたと泣き叫ばれても仕方のないことではあるのに彼女がそれをしないのは宗がこの国の王だからだ。臣民は等しく王に仕えるべきなのだ、という教育を彼女も幼少期から受けているのだとしたら、彼女の心の根深い所で「これは王の命だから」という意識が動いているに違いない。

そう思えば思うほど、自身の思考が暗く深い所に落ちていくような感覚が手から離れてくれなかった。

ただ、初めて恋しいと思った娘を嫁にもらっただけだ。決して同意された婚儀ではなかったものの、彼女をこの国で一番幸福な立場に置いたというのに。

どうして自分の胸にこんなに不安がとぐろを巻いているか、それは宗にもよくわからなかった。

「陛下。紫陽花すごく綺麗ですね」

そう言ってなまえが宗を連れてきたのは、庭園の中央にある東屋に向かう途中だった。湖の傍に静々と咲いている紫陽花は、昨日の雨の雫を受けて煌めいている。

「そうだね。今がちょうど見ごろだ」

「はい。この辺りですと執務室からは見えな…いえ、お見えにならないでしょうから、ぜひ一緒に見たくて…」

そう言って宗に向かって微笑んでくれるだけで、胸の内側が燃えるように熱くなる。やはりなかなか治らない市井の言葉づかいですらも、一生懸命矯正しようとしている辺りが健気に見えてしまうのは彼女に盲目故だろうか。と、宗は一人ひっそりと苦笑する。

「本当に綺麗だわ。この辺の紫陽花は青いのね」

エリザベスがそう言うと、なまえがきょとんとした顔で宗の腕の中にいるエリザベスを見た。

「紫陽花ってこの色以外にもあるんですか?」

その問いには、エリザべスの代わりに宗が答える。

「あぁ、紫陽花は植わっている土の成分によって花の色が変わるのだよ。土の成分が酸性ならば青、アルカリ性か中性ならば赤紫のような色になる」

「そうなんですか…陛下は何でもご存じなんですね」

そう言ったなまえはややポカンとしているので、恐らく宗の言っている『土の成分』という意味が解らなかったのだろう。市井の出なら学校で教わるのは最低限の事だけだ。ならば仕方のないことではあるし、彼女が知らない事を教えてやるのも宗の楽しみの一つになりつつあるから一向に構わない。

「…赤い紫陽花も、見てみたいかね?」

わぁ!と感嘆を吐きながら目を輝かせるなまえを想像して、恐る恐る宗は彼女を見た。きっと「見たいです」と言うと思ったから従者のみかに手配させるつもりだったのに、予想外にもなまえはゆっくりと首を横に振る。

「いえ、ここに無いのでしたら大丈夫です。ありがとうございます陛下」

「紫陽花が好きだったのではないのか?」

だから宗を誘ってくれたのかと思ったのに、思惑は見事に外れてしまったようだ。

「お花はなんでも好きですよ。その中でもちょうど紫陽花が綺麗だったので、その、陛下とご一緒出来たらって思って…」

「そうか」

「はい」

相変わらず素直になれない。

そもそもこうして庭へと誘い出してくれるだけで、宗は今までに感じたことのない幸福感を感じ得ているというのに、それを表現してなまえに伝えるのがどうしても上手く出来なかった。なまえが自分の妃として傍にいてくれるだけで宗はこの国の誰よりも幸せな人間なのに、それを彼女に伝えるにはまだ勇気が足りない。情けない話である。

「…花ならば、他にどのようなものが好きなのかね?」

「え?」

「婚儀の時に髪に挿していたあの白い花以外に…格別好きな花はあるのかと聞いているのだよ」

「あ、え、えっと…」

少し逸ってしまったせいで、口調がきつくなってしまった。なまえが少し慌てたように、必死に答えを探そうとしている。『王』に問われたら答えねばならないという『臣民』の義務感のせいだろう。違う。宗が求めているのは、そんな義務感ではない。彼女の好みが知りたい好奇心だけなのである。

「あの、えっと…そうですね。蒲公英とか、好きです」

「蒲公英?」

そう宗が聞き返した瞬間、なまえがハッとしてから一気に顔を赤くした。蒲公英はその辺の道端に咲く野花だ。王である宗から見れば雑草に過ぎないものが好きなどと言ってしまった事に、恥を覚えてしまったのだろう。しどろもどろになりながら、彼女はとうとう着ている衣の大袖で顔を隠してしまった。

「も、申し訳ありません!お恥ずかしい答えを述べてしまいました…」

そう言って、なまえは髪の隙間から見えている耳まで燃えるように赤くしている。どうやら本気で恥じているようだ。

「私、市井の出ですので学がなくて…本当に申し訳ありません陛下」

「いや、謝ることなど何もない。顔を上げたまえ」

思わずそう言ってしまった。『王』から『臣民』へ向けて『命令』したような言葉だ。そう宗から言われてしまえばなまえは拒否できない。可哀想なくらい真っ赤になった顔を静かに上げたが、やはり恋は盲目である。宗にとってはそんな彼女の表情も新鮮で、ますます恋に落ちてしまうだけだ。

「すまない。僕が性急に質問したのが悪かった。蒲公英は春になればこの庭園の隅にも咲くだろう。から、その…」

その時はまた一緒に見に庭園に出ようと、そう言いたかった。今の季節は初夏。蒲公英が次に咲くのは春。これからもずっと側にいてもらう為に、約束を取り付けたかっただけなのに。
本当に素直になれないと、己の性格を呪った。こんな時なのに、エリザベスも口を開いてはくれない。

「…その、蒲公英色の大袖でも作ってやるから、今はそれで我慢したまえ」

あぁ。また同じことを。と自己嫌悪する。衣ばかり送っても、宗の気持ち全てが伝わるわけではないと理解したばかりなのに、どうしてもそこに頼りたくなってしまう。

「い、いいえ。この前この衣を頂いたばかりですし…」

そうやんわりと断ろうとして、なまえは再びハッとする。宗の申し出を断ってはいけないという事に気が付いたのだろう。

「その、お心遣い痛み入ります陛下」

「君は、妃だ。僕の申し出を唯一断ってもよい存在なのだから、もし僕の申し出が不服ならば断ってよいのだよ」

「そんな!そんなことはありません…!」

また、言い方が悪かった。不服ならば、ではない。なまえは宗の隣に居る事を許された、誰よりも宗に近い存在なのだからなんでも気兼ねなく話してほしい。嫌ならば嫌だと言ってもいいと、そう言いたかった。
最も、もしこの婚姻が嫌だと言われたら宗の心は今度こそ砕けて塵になりそうなのだが。

「すまない。言い方が悪かったのだよ。君は僕の妃なのだから、何か言いたいことがあればいつでも言って構わないと、そう、言いたくて…」

宗は眉を下げて彼女を見た。これで伝わってくれないと困る、といっそ縋るような気持ちでなまえを見れば、彼女は一度目を見開いて、それからグッと唇を引き締めた。それから「では、申し上げてよろしいですか?」と言い出したので素直に頷いて、宗は身構える。彼女は「言葉が乱れても、お許し頂けますか?」ともう一つ質問してきた。それにも頷けば一つ深呼吸したのち、彼女は強い瞳で宗を見つめた。彼女の柔そうな唇が開く。

「違います陛下。陛下が私を気にかけてくださるのは、その、とても嬉しいんです。以前のようにお会い出来てない時よりも今の方が私も毎日が楽しいですし、陛下と色々なことをお話しするのは大好きなんです!」

そう言うと、なまえがグイ、と宗に近付いた。彼女の強く美しい瞳の中に挙動不審な自分の姿が見えて、更に動揺する。意味合いは少しばかり違うのに、彼女が発した「大好き」という言葉に慌てる自分が情けなくて仕方ない。

「陛下が何か質問してくださるの嬉しいんです私!だって私の事を少しでも知ろうとしてくださっているのかと思って…でも私庶民だから、全然お上品なお返事出来なくていつもどう返していいかわからなくて!」

そんなことを気にしていたのか。と、宗はやや呆れてしまう。そもそも自分がなまえを見初めたのは彼女が街の食堂でイキイキと働いてる姿なのだから、今更上品に取繕われても逆に混乱することに、彼女は勿論気が付いていない。

「今日の紫陽花だってもっともっと色んなお花がこの庭園に咲いてるのに、あえて紫陽花を選んだんです!この青が、陛下の瞳の色にそっくりで!とっても綺麗だなって思って!だから一緒に見たかったのにいつも以上に難しい顔なさってるから忙しい時に無理やり引っ張って来てしまったのかと思ってビクビクしていたんですよ!」

「す、すまない…」

「こちらこそ申し訳ありません!」

とにかく彼女は何か怒っているようで、それでいて眩しいくらいイキイキしている。あぁそうだ。こんな風に強く眩しい彼女だから、宗は一瞬で惹かれたのだ。

やがて全て言い終わったのか、ぜいぜいと息を荒くした後、なまえは膝をついて最上の礼を取った。ギョッとする宗に反して、彼女は先程とは打って変わった冷静な静かな声で呟くように言った。

「陛下に大変なご無礼を致しまして、申し訳ありませんでした。お許し頂けるかはわかりませんが…」

そう言って深く深く礼を取る跪いたなまえのつむじを見ながら、宗はそれどころではなく心臓を高鳴らせていた。

僕の瞳の色に似ているから、紫陽花を一緒に見たかった?何という殺し文句なのだろうか!

「なまえ…」

「はい」

名前を呼べば、なまえが真剣な表情で顔を上げた。宗に気を遣って取り計らっている顔の100倍も200倍も美しい。
そう思ったら、自然と言葉が漏れ出た。

「君が好きだ…」
「へ?」

「君を街で一目見かけた時から、ずっと君の笑顔が頭から離れなかった。零…僕の友人に君のような器量のいい娘、早く手に入れないと誰かに取られてしまうと言われて焦って、強引に婚姻を結んでしまった。だから君はきっと、僕を恨んでいると思っていたよ。でも君は臆病な僕と違い、勇気を持って側に歩み出てくれた…。君のそういう強く眩しい所が好きなんだ…」

宗は庭園に膝をついてなまえと顔を見合わせた。じっと見つめた彼女の瞳は混乱するように彷徨っているけれど、輝きはやはり宗の好きな夏の日差しのようである。

「へ、陛下、衣が汚れてしまいます」

「構わない」

そう短く答えてから、なまえの肩に恐る恐る触れた。一度彼女が驚いたせいかビクリと身体を揺らしたが、逃げずに居てくれる。それだけで受け入れられたような気がしてしまい、宗は勘違いするなと今一度頰に力を入れる。彼女の悩みの種を取り除くための言葉を伝えるには、頰を緩ませていてはいけないのだ。口元を引き締め、真面目な表情を作っては更に唇を開く。

「言葉遣いなど、気にしなくていい。公の場では必要に迫られるかもしれないが、せめて僕と二人でいる時には、気兼ねなどしないでもらいたい」

「…はい」

「なまえ、僕は君が愛おしい。今はまだ僕のことなど誘拐犯も同然、という状態かもしれないが、その、いつかきっと振り向かせてみせよう」

だからそれまでは、我慢して僕の妃でいてくれ。

そう、少し泣きそうな声で言えば、宗より先になまえの目に涙が浮かんでいた。怒ったり泣いたり忙しないが、彼女は感情を表に出すのが得意なのだろう。そんな所も、宗は愛おしく思う。

「…いつかきっとではなく、必ず絶対、と仰ってください。陛下」

真っ赤な顔で、涙目で、そう呟いたなまえの赤面の理由は、きっと先ほどの恥じ入ったがゆえのものとは違うだろう。

彼女の肩に置いていた手をそっと離して、白く細い手を優しく握る。初めてなまえの手に触れた喜びが手の先から全身に、まるで血管を流れる血液のように循環していく。その甘い痺れにくらくらとしながら、宗はなんとか彼女の言葉に返事をしたのだ。

「あぁ。必ず、絶対。振り向かせてみせるのだよ」

そう言えば、彼女は頰を赤くしたまま微笑んでくれた。
夏の日差しのような強さはないけれど、木漏れ日のようなまろい笑顔も、宗はこの日から気に入りの一つになったのである。


この後、だいぶ遅れて東屋に到着した王と妃を出迎えた従者のみかは、いつも以上にしどろもどろな二人に首をかしげるばかりであったという。

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