アクアリウムにルビーはいらない
大学生といえど、24時間365日暇を噛み砕いているわけではない。然るべき学科に入り然るべきゼミに入り、付け加えて然るべきアルバイトをすれば、自ずと忙しい日も出来てくるのである。
なまえにとって、今がちょうどその時期だった。レポートが重なっている上に、バイト先は突如来なくなってしまった新人のせいで人が足りず、なまえが連日で出るしかない状況が重なってしまったのである。
『ふーんそっかわかった。大学生も大変なんだな〜』
奇跡的に繋がったレオとの電話口で忙しいから暫く会いに行けないと言えば、彼はアッサリと、それでいて軽く答えた。
そこで「軽くない?!」とツッコミを入れることは既に無駄であると、彼との時間を重ねれば重ねただけ学んだことである。
「うん。だからきちんとご飯食べて、ちゃんと寝てね?仕事大変なのはわかるけど」
『わはは、おまえ、おれの母親みたいだな!大丈夫だ!おれはヨチヨチ歩きの赤ちゃんでもないし、なまえに育ててもらわないと餌も取れない雛鳥でもないからな!』
「まぁそうだけどさぁ」
我ながら彼女のくせに口うるさいとは思っているが、それを本人に指摘されるとなんとなく面白くない。こちらが目を離すとすぐ作曲に夢中になって寝食忘れて体調崩したり私のことを忘れて後で謝りまくるくせに、などとつい小言を言ってしまいたくなりながら、どうにかなまえはその言葉を飲み込んだ。これだけサッパリとした返答をされた後にネチネチ言うのは好みじゃなかったし、うるさいと思われるのも心外である。
じゃあね、と軽い挨拶で電話を切って、一息ついた。が、その後すぐにメッセージが入る。条件反射で見てみれば、明日のバイトの入り時間を1時間早められないか、という店長の泣き言だった。授業の後すぐに帰れば間に合いそうな時間だったから大丈夫だと返信を送る。新しいバイトが入るまでの辛抱だ。と、気持ちを切り替えた私は明日に備えて眠ることに決めたのだ。芸術家肌のくせに朝の空気が肌に合うと豪語する彼は詰まった仕事が無ければもう眠るだろう。布団をかぶり、目覚ましをセットするとあっさりと眠りに落ちることができた。
次の日から、寝入るのに困ることは無いくらいの忙殺ぶりに覚悟していたとはいえ苦笑を通り越して苦言を呈したくなる。レポートは残り一本。よりによって一番面倒な物を残してしまったせいで授業の空き時間にせっせと図書館に通ってはレポートを書き、授業が終わると同時にバイトへ行くために急ぎ足で大学を出た。バイト先のレンタルCDショップは学生が帰る時間帯から会社帰りの社会人の帰宅時間辺りに客が集中する。それとほぼ同じような時間に勤怠を押してカウンターへと入り込めば、返却済みのCDやDVDで溢れかえっていた。今日も忙しそうである。
カウンターはとりあえず店長や他のバイトに任せて返却されたものを棚に返す作業をしていれば、ふと見知ったシルエットを見つけた。女の子のようにかわいいサイズの金髪の後ろ姿。声をかけて振り返らせれば顔もかわいいだろう彼の名前を呼べば、くるりと軽快に振り返った。案の定、とんでもなくかわいい顔が少し驚いた顔でこちらを見ている。
「仁兎くん」
「お、なまえ。なんだ、ここでバイトしてるのか!知らなかった」
仁兎はなまえと同じ大学の同級生である。入学当初からその人目を引きすぎる顔と、元アイドルがいるだなんだと大騒ぎされて少し可哀想な目に遭っていたが、実際彼と話すとわりと男らしいしクールな部分もある普通の男の子であることを、なまえは知っている。それから少し話をする機会もあって、彼はなまえのいい友達になっていた。
「普段この時間は入ってないからね。仁兎くんは授業帰り?」
「うん。今日はこの後少し用事があるから時間潰してたんだ」
「そっか。何か探してる作品あったら遠慮なく声かけてね。私この辺ウロウロしてるから」
「そうさせてもらう。ありがとな〜」
じゃあね。と手を振りながら引き続き作業をしていれば、高校生くらいの女の子達がキャアキャアと騒ぎながら仁兎を遠目に見つめているのが見えた。
思えばテレビにも出演していた仁兎がその辺にフラフラといたら騒がれても仕方のない話ではあるが、それにしても女は集まると姦しいとはよく言ったものである。他のお客様のご迷惑になるならなまえが注意しようとしたら、渦中にいる仁兎がその女の子達に自分から近づいてやんわりと注意して、その場から静かに去っていった。女の子達は彼が去った後やはり少しだけきゃっきゃとしたものの、以降は彼の言うことを聞くことにしたようだ。流れるような対応の良さに思わず拍手したくなったが、あいにくなまえの片手はDVDの山で埋まっている。
「元アイドルすごーい…」
小さな声で呟きながら、なまえはふと、レオの事を思い出した。この前電話を掛けてから約3週間。もはや完全に放置状態である。きっとレオが忙しい時もこんな感じだったのだろうと考えると少しだけ彼の気持ちもわかる気がしたが、レオの場合は人のことを数ヶ月単位で放置するのでそれはそれだ。
バイトの帰り道、久しぶりにレオにメッセージを送るべくメッセージアプリを開いた。そのまま一つ、メッセージを送ってみた。もちろん返事が返ってこないことも分かっている。
『久しぶり!元気?連絡出来なくてごめんね。私は後少しで一息つけそう。やっとレポートが終わるんだ。バイトも落ち着きそう』
それからもう一つ、好奇心のひとかけらとして追加でメッセージを送る。
『今日バイト先に仁兎くんが来たんだけど、レオくんって同じ高校だったよね?お店で仁兎くんにキャーキャー言ってる女の子達をさらっと静かにさせててさすが元アイドルだなって思ったんだ。レオくんも普段一人だとキャーキャー言われたりするの?』
そもそもあまり二人で出掛けないからそんな事態に遭遇したことはないけれど、もしかしたら彼も仁兎と同じようにファンの扱いに慣れてるのだとしたら、それはなまえにとって彼が見せる新たな一面だ。女の子達にキャーキャーされている所を見たいわけではないが、どちらかと言うとハッキリ断ってる所を見たいと思ってしまうのは少々独占欲が強いだろうか。などと考えながら返事は暫くこないことを見越してスマホを鞄に入れれば、直後鞄が微かに振動した。まさか、と思いロックを外せば、なんと返信が来ている。すごい。付き合って最速の返事ではないだろうかとちょっとワクワクしながら彼からのメッセージを開けば、少し素っ気ない感じで、こんな事が書かれていた。
『なんでナズと面識あんの?』
「えっ、そこなの?」
思わず独り言を呟く。確か彼には同級に仁兎がいる事を伝えてあったはずだが、レオが何か忘れてしまうのなんてよくある話だ。一応『仁兎くんと大学同じなんだってば。今日たまたまバイト先に来てたんだよ』と返せば、やはり早い返信がなまえのスマホに飛んでくる。
『ナズと仲良いの?』
そこから本当に珍しく、ポンポンと続けてメッセージが来た。
『大学ってクラス制じゃないんだし学部が一緒だからってそんなにすぐ仲良くなるわけじゃないんだろ』
『大学でもよく話すの?ていうかバイト先教えるくらい仲良いの?』
「…これは」
ポツリと呟いてから、何故か嬉しい気持ちと「何言ってんだこいつ」という思いで胸が満たされていく。これはどう考えても、たまたま偶然バイト先に現れた仁兎くんにヤキモチを妬いている。
なんて分かりやすいんだ、と内心笑い出しそうになりながら弁明の為のメッセージを送った。
『仁兎くんとは授業が結構被ってるしゼミも一緒だからそこそこ話するくらいだよ。たまにレオくんとかの話もするし。普通の友達だってば』
『バイト先は教えてないよ。本当に偶然うちに来てたの。女の子達にキャーキャー言われてるのサラッと注意して出てったよ。だから元アイドルすごいな〜って思ったの』
しかし彼の機嫌はこれで収まらなかったようである。メッセージの無機質なフォントからレオの拗ねたような声が聞こえてきそうな言葉がポツリポツリと送られてくる。
『久しぶりに連絡来たのにさ、ナズの事ばっかり』
『おれは邪魔にならないように連絡するの我慢してたのに。おまえからの連絡ずっと待ってたのに。ばかみたいじゃん』
うわ、珍しい。と思う反面どうしようもなく好きだなぁと思ってしまった。ついこの間まで彼の本心が見えなくて、放って置かれる毎日に疲れて、彼の仕事道具なのではないかと疑ってばかりだったのに。誤解が解けてしまえば、残るのは甘いだけのそれである。
しかし、そもそもレオから連絡が来ることなんて非常に少ない毎日である。ほとんどこちらから連絡することが多いのに、いかにも自分もいつも連絡してますくらいの気概でいられるのは何故だとツッコミを入れたくなる気持ちもあるが、今は純粋に彼がなまえに向けてくれている好意に甘えようと思った。
思わずメッセージアプリを閉じて着信履歴から電話を掛ける。すると2コールくらいで「…もしもし」と不貞腐れたようなレオの声が聞こえて来た。すっかり拗ねたように尻すぼみになってる声に、なまえはそんなレオをあやすように話し始める。
「ごめんね。3週間連絡出来なくて」
「忙しかったんならいいよ…もう大丈夫なのか??」
「明日提出すれば、レポートはそれで終わり。バイトはあと一息って感じかな。今週乗り切れば大丈夫そう」
「…そっか。じゃあ、まだ会いに来れない?」
「うーん、そうだね。行ってもすぐ寝ちゃうと思うし」
もごもご、とレオが何かを呟いたようだが、聞こえなくて「もしもし?」と言えば、「なんでもないっ!」と急に声高くするから、思わずスマホから少しだけ耳を遠ざけた。しかし彼ののテンションが急に上がるのなどいつもの事なのでいつも通り「そう?」と返事して、なまえは駅と家の中間にある公園へと入り、ベンチに腰掛けた。もう少しで家に着いてしまいそうだから、レオとの電話を切らない為である。
「…おれはね、仕事行き詰まってる」
へ?と、心の中で呟いた。彼が自分の大事なグループの作曲に行き詰まるはずがないので、きっと依頼されて作ってる楽曲なのだろう。
「え、珍しい。苦手な分野の曲なの?」
「ううん。そうじゃないけど、あと5小節が納得いかなくて埋まらない」
もどかしい、とでも言いたげな声が、こちらまでもどかしい気持ちにさせてくる。やはり多少のヤキモチは妬けど、月永レオはいつだってなまえのよく知る月永レオで、彼は仕事の事になるとたとえそれが家族や友人、恋人との時間であっても全てを上手に切り離すことができるのだ。恋人のなまえとしてはそれは少し寂しい事かもしれないけれど、レオの何よりかっこいい所である事はわかっている。
「そうなんだ」
しかしその直後、またレオは不貞腐れたような声でこう呟いた。
「曲がさ、恋するキラキラダンスナンバーみたいなやつなんだ。でも今作ってみても、多分嫉妬のドロドロバラードナンバーが出来そう」
「……」
「おれだっておまえの店、バイトしてる時間に行ったのに。なまえは全然おれのこと気が付かなったじゃん。なのにナズにはあっさり気が付いてさ。あいつは妖精さんだから仕方ないけどおれだって気が付いて欲しかったし。忙しそうで声掛けられなかったから一人寂しく帰って来たんだからな」
「えっ!来たの?!いつ?!それは声掛けてよ!ていうか言ってよ!!」
するとレオが電話口でハッとしたように息を飲んだ。きっと言うつもりのない事まで言ってしまったのだろということを察して、思わずなまえも黙り込む。もし逆の立場だったら会いたくて思わず彼のいる場所へ行ってしまうと気持ちはわかるし、見つけてもらえなかったのはきっと寂しいし、そうなると会いに行ってしまった事が恥ずかしくて仕方ないだろうから。
「……」
珍しくすっかり黙り込んでしまったせいで、電話は暫し沈黙が流れた。公園の脇を通った救急車の音はきっと、レオの耳にも大きく入ってきていることだろう。
「…恥ずかしくても、来ること事前に言ってくれればよかったな。そうすれば私も会えたから暫くレポートもバイトももっと頑張れたかもしれないのに」
「だって、ストーカーみたいじゃん。おまえはおれが仕事で構ってやれない時間長くても我慢してくれるのに、おれは3週間だって我慢出来ないってことバレたら、男として情けないし」
もうヤケなのか男の矜持も何もあったものではないことを言って来たレオに、なまえは心臓を鷲掴みにされたように打ちひしがれた。その言葉はなまえにとっては恥ずかしい事でも情けない事でもない。彼が自分を欲してくれる事が、こんなにも嬉しいのである。
けれど少しばかり意地悪したくて、なまえはキュンキュンと締め付けられる心臓と、果てしなく緩む頬もそのままに彼がきっと一番悔しくて仕方なくなる言葉を吐いたのだ。
「おかしいね。レオくんはヨチヨチ歩きの赤ちゃんじゃないし、餌をもらわないと生きていけない雛鳥じゃないはずなのにね?」
「…あっおまえイジワルしてるだろ!!なまえのばか!イジワル!!」
きっと赤面してバタバタと手足をばたつかせながら動揺してる彼を想像しながら、なまえは鞄を漁ってスケジュール帳を開いた。
いつレオの家に遊びに行けるかを最短で教えてあげようと思ったのである。
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