黄金糸を手繰って

 その日、夏目は外交の為に国を離れている母の分まで政務を一通り片付けて、ようやく午後にほんのひと時休憩に入れた所だった。書類の山はようやく底が見えてきた事をチラと確認して密かに安堵の息を吐く。

 この国は一応まだ夏目の母が女王として玉座に座しており、夏目は王子という体裁であるが、実際に政務を仕切っているのはほぼ自分である。そこに加えて母がやっている一握りの仕事も預かったがゆえに仕事は増しに増したが幸いにも緊急で何か起こるわけでもなく、忙殺、というほどの仕事量ではなかった。

 しかし休憩中に顔を青くした妻付きの女官が夏目の元に現れて耳打ちしてからは、その女官に釣られて夏目も微かに顔を青くした。


 女官曰く、妻が彼女の故郷で着ていたドレスを引っ張り出し、姿見の前で着ているのを見てしまったと言う。

「……」

 夏目は執務室の高い天井をぼんやり見ながら、この時間は恐らく図書室にいるであろう妻を思い浮かべた。最近は、というか彼女が嫁いできてからずっと喧嘩などした事もないし、彼女を否定したことも自分が否定されたこともない。確かに八人姉妹の王女たちの中から消去法で選んだのが彼女だけれど、消去法なんて伝えた事もなければ今となっては彼女でよかったとさえ思っているのに。
 恐らく女官の顔が青かったのも、夏目と同じことを予想したのだろう。

『故郷が恋しく、帰りたくなってしまったのでは?』

 もちろん一度他国に嫁いだらそう簡単に故郷に帰すことは出来ない。彼女もそれをちゃんと自覚して嫁いできただろう。けれど夏目の知らない所で辛い思いや寂しい思いをして、ふと故郷のドレスを着てみたのだとしたら?
 可能性は、ゼロではなかった。なにせ彼女も夏目もまだ若い。刹那的な感情で動いてしまう事だって、あるものだ。

「少し、話してみるカ……」

 ちょうど休憩が取れた。夏目は席を立つと図書室に行く旨を文官に伝えて執務室から出た。出口に控えていた先程の女官が今ちょうど彼女が庭でお茶にしようとしていると教えてくれたので、進路を切り替えて庭の方へと足を向ける。その後ろをさりげなく側近の者達がついてくる。チラと夏目がそちらを見れば、眼鏡を掛けた側近はいつものようにニコニコと前を向いている。

「……センパイ。ついて来ないでヨ」
「これが俺の仕事なんですよ」

 その通りなのだが今は、そして特に彼にはこれからの彼女とのやり取り見られたくない。けれど確かにこれが彼の仕事である。夏目はそこでもため息を吐いた。


 女官の言う通り、妻は庭の木陰の涼しい所でお茶を楽しんでいた。玻璃の茶器に入ったお茶を飲みながら女官と笑い合っているのが、遠目でもわかる。勿論今着ているのはこの国の衣装だ。彼女の国よりも気温の高い土地である為、以前着ていたドレスよりもぐんと生地の薄い衣装。布の多さが高貴の証拠と言わんばかりにフリルやレースの多かったドレスから一転、刺繍の緻密さや糸の染め色に注視したこの国の服は、やはり彼女にとっては「物珍しい異国の服」であるのだろうか。

 また、国に戻ってドレスを着たいという気持ちが呼び覚まされてると言われたら、夏目は是と言えるのだろうか。
 おそらく言えないだろう。既にそんな領域に、足を踏み入れている自覚はある。

「やぁ、おつかれサマ」

 なるべく自然な風を装って、夏目は妻に声を掛けた。すぐさま隣にいた彼女付きの女官が礼の形を取り、妻もドレスの裾を持つ。

「お仕事おつかれさまでございます夏目さま」

 よろしければこちらへ。と妻が隣に呼んでくれたので、敷布の上へと上がる。花の柄を模した刺繍がしてある濃い緑色の絨毯は、妻の一等お気に入りのものだと聞いている。以前母から譲り受けたものらしい。

「はい。こちらどうぞ」

 冷たい果実茶を玻璃の器に入れて、妻が渡してくれたので大人しく口に含んだ。緊張のせいか味がわかるようなわからないような、不思議な感覚である。けれどあえて香りを楽しむように感想を言った。

「うん、美味しいネ」

 軽く香辛料が入っているのだろう。微かにピリッとした味わいはこの国ではよくあるお茶の風味である。しかし妻はにこにこと機嫌よさそうにまた器を傾けては言った。

「最近このお茶とってもお気に入りなんですよ。少し香辛料が入ってるのが好きで」

 私の故郷ではお茶に入れるものではなかったので新鮮なんです。と付け加えられて、夏目は少し動きを硬くする。タイムリーといえばタイムリーな話題に、ぎこちなく「そうなんダ」と相槌を打つしか出来ない自分が少し情けない。
 ふと、彼女の今日の衣装を見た。白を基調とした衣装に金糸と朱赤の糸で彩られた刺繍はシンプルながらも彼女の魅力がよく映えている。少し薄い生地は今の季節に合わせたもので、足先の方へいくにつれて透ける素材になっているのがとても似合っている、と夏目は思っているのだが、肝心の妻はどう思っているのだろうか。ついにはそんな事まで気になりだして、お茶の味も舌をピリピリとさせる香辛料の味しかわからない。

 ふと妻が茶器を持ったまま夏目を見る視線を感じた。そちらに目を向ければ、彼女は穏やかに微笑んでいる。暖かいと言うのには濃い密度の風が不意に吹いて、夏目の髪の間をサラサラと撫でていった。

「初めは色々と慣れずに夏目さまにもご迷惑をお掛けしたかと思います。申し訳ありません」
「そんなことはないヨ。君が努力をしていたこと、一応は知っているつもりサ」
「私は何も。ただ……」

 そう呟いて、妻は俯いた。微かに夏目を襲う焦燥感。彼女は何を言おうとしている?と、思わず手を伸ばして彼女の肩にそっと触れる。
 妻が顔を上げた。少女のような、子どものような、明るい瞳と思い切り目が合う。それにつられて、夏目もパチパチと瞬きを繰り返した。木漏れ日よりも強い光は、まるでこの国の太陽にも似ている。

「この国に来られて本当に良かったと、思っているんです。夏目さま。あの時に私を選んでくださり、ありがとうございました」
「え……」
「私、故郷よりもこの国の方がなんでも好みが合うなぁって思ってるんです。食事も、文化も……あと、この国の衣装も大好きで」

 ギクっと、夏目は身を強張らせた。今日、彼女とここにいるのはそれが理由である。しかし妻は恥ずかしそうに自分の着ている衣装を指先で弄りながらもじもじと続きを話す。夏目の危惧していた事はここでアッサリと、まるでお茶に放った砂糖のように溶けていってしまった。

「この前たまたま衣装箱を開けたら故郷の衣装を見つけて、気まぐれに着てみたんです。そしたらもう、全然似合ってなくて……!私よくこれをずっと着ていたなぁって思っていたんですよ。ね、私、こちらのお衣装の方が似合っていると思いませんか?」

 なんだ。そうか。そういうことだったのか。
 夏目は全身から力が抜けたように、彼女にもたれかかった。女官や夏目が考えていたことなど、全く的外れだったのである。

「……夏目さま?」

 夏目から返事がないことを不安に思ったのか彼女が小さく夏目を呼んだ。そうだ。既に夏目は彼女の声で名前を呼ばれることをこんなにも嬉しく思っている。
 かつて隣国の王である宗に「自分は政略結婚だけど、その姫君と恋に落ちるかもしれない」などと軽く話したものだが、その通りになるなんて、自分でも思っていなかった。

「うん、そうだネ……君は故郷のドレスより、宗にいさんの国の衣装より、この国の衣装が一番似合ってル。……ボクがクラクラきちゃう程度には、ネ」
「え、えぇ?!」

 思いがけない言葉だったのだろうか。妻が悲鳴に近い声を上げた。伝えたことがなかっただろうか。思えば、ないかもしれない。

「今度また、新しいのを作ろうネ。妻を着飾るのは夫の甲斐性だかラ」
「え、えっと……」
「ここは可愛くおねだりしておいてヨ」
「は、はい……!」

 彼女の耳が赤くなる。愛おしくなって思わずそこへ唇を寄せれば、夏目の背後から声が聞こえた。夏目の側近のつむぎの声である。

「そういうのは夜にお部屋でお願いします〜」
「……センパイ」
「あっ!も、申し訳ありませんつむぎさま!!」


 サササッと、妻が夏目から距離を取った。彼女の香りが遠のいて、少し機嫌が悪くなりそうになるのを隠す。
 今日は絶対に妻を抱くと心に決め、夏目は茶器の中のお茶を一口で飲み切ったのである。

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