第一交渉

学校を卒業したのは茨にとって大きなメリットだった。
学業に割いていたその時間を仕事に割り振れるので、時間が有効に使える。学生という肩書がなくなったので、得意先からも以前よりは対等な目で見られる。いちいち年齢にとやかく口を出す人間や、時間を費やしただけで効率の悪い過ごし方をしてきただけのくせにそれを『経験』と言い張るくだらないやつらを黙らせる武器が一つ増えたことは、茨にとっては非常にやりやすいことだった。今までどうにもならなかった部分を突き崩していけるのなら、更に戦略を広められる。
やるべきことはごまんとあるのだ。それだけで高笑いが止まらない。

しかし、どうしても気が回らない部分があった。
今までは寮だった分、気を回さなくてよかった案件。


明け方に仮眠をとって、7時には目を覚ました茨は一度あくびをしてから仕事用のスマホとタブレットをチェックした。特に急を要する連絡はなく、そのままベッドから体を起こすと冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出し、ごくごくと飲み干す。キッチンに置いておいたコンビニの袋から栄養補助用のケーキバーを取り出して咀嚼すると、タブレットで今日の経済新聞と芸能誌をざっと見てからタブレットの隅にある時計を見た。もうオフィスに顔を出す時間なので、軽くシャワーを浴びて身支度を整える。
そこで彼は、ふと思い出した。

「…あ、そうだ」

先ほど洗面所へ行った時、なるべく見ないようにしてきたツケが回ってきた。茨は仕方なしに買い貯めておいたYシャツのパッケージをバリバリ破くとゴミ箱に押し込んだ。中には同じパッケージのビニールがわんさかと入っている。
忙しさを理由にシャツを洗って着ることが最近どうしても出来なくて、新しいものを買っては着る毎日なのである。

そう、学生ではなくなったせいで茨が困り果てている部分。
それは、自身の衣食住である。

食事に関してはどうでもいい。何か口に入れば何でも変わらない。住む場所は仕事を持ち帰る事も増えた為寮ではなく個室を求め、自分でも納得のセキュリティが配備されているESビルに近いマンションの一室を借りた。

けれど洗濯や掃除がどうしても追いつかない。そんなことをする時間があるならばやるべきことは沢山ある。家事代行を頼むことも一度考えたが、すぐに却下した。仕事をする部屋には社外秘の重要なデータがあるし、なにより初対面の信用ならない人間を自分の領域に入れるのだけは絶対に嫌だった。

さて困ったものだ。何かこちらの方面に関してもいずれ策を練らなければならない。
しかしとりあえず『いずれ』で構わない。先に行うべきは仕事である。と、やや埃っぽくなりつつある自分の家を後にしたのである。



「おはよう毒蛇」

その日コズプロのオフィスに向かった茨は、副所長室のソファにゆったりと座った日和に声を掛けられた。今日はEdenの面々で仕事がある。ESビル内にあるスタジオでの撮影の為、時間までに集まればいいというのになぜか日和が茨より先に自分のオフィスにいることが謎だったが、とりあえずいつものように敬礼をする。

「これは殿下!おはようございます!いやぁ、殿下より遅い出社とは七種茨一生の不覚!!大変失礼致しましたっ!」

自分に何か御用でありますか?と笑顔で聞くと、日和はため息を深く吐き出す。そこへ丁度いいタイミングで今度はジュンが珈琲を持って副所長室へと入ってきた。

「失礼しま〜っす…。あ、茨来てたんすね。お邪魔してますよ」

「ジュン。おはようございます」

「ナギ先輩はトイレ行ってるんで。あ、茨も珈琲飲むなら買ってきてやりますけど」

「おや、ありがとうございます」

「いいんすよ〜。それよりおひいさんが話あるらしいんで聞いてやってください」

自分を嫌う日和が茨に話があるのは珍しい。仕事のことだろうかと彼の向かいに座ると、日和は珈琲をすすってから、もう一度溜息を吐いた。

「茨。ぼくはEdenのリーダーなわけじゃないし正直きみの事なんてどうでもいいんだけど、一番年上のお兄ちゃんとして言わせてほしいね」

「へ……?は、はい」

「単刀直入に言うと、きみお手伝いさんとか雇うべきだね。お金がないわけじゃないんだし、その辺もきちんとさせないといずれ倒れちゃうね」

その言葉を聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは『大きなお世話だ』という反感である。自分には自分の優先順位とやり方がある。衣食住など今現在優先事項として最下位だ。けれど目の前の日和は茨をちらと見ると、目を鋭く細めて言った。

「そのシャツ、新しいもの開けて着てるね。糊が効いてるのに少し変な風に皺が入ってる。この前会った時もその前もそんなシャツ着てるの見てずっと気に入らなかったね」

茨は思わず舌を巻く。これでも安いものを着ているわけではないのであちこち折り目だらけのシャツではない。ゆえにわずかな皺など気にしてなかったが、道化を演じる節がある目の前の男はその賢しい本性を普段は巧妙に隠しては時々垣間見せてくる。

「カメラの前では衣装だから他は何着ててもいいってわけじゃないね。新しいの買っては着て買っては着てしているのなんて効率が悪い。きみの生活の質が底辺なのはすぐわかるね」

「い、いやぁ、さすがは殿下!その慧眼に感服でありますっ!お恥ずかしながらまだそちらの方に手が出せていないのは事実でありますが…」

「これからもっともっとぼくたちは輝くんだから、その内の一人に倒れられたらものすご〜く迷惑だね!」

ふん!と言いたいことを言った日和は一度怒ったように腕を組んだ。こうなった日和は我儘貴族もよろしく頑として動かない部分がある。ちょうど茨の分の珈琲を買って部屋に入ってきたジュンは心底面倒くさい、という顔をした後、
「ナギ先輩帰ってくるの遅いっすね…。オレ探してきます」と適当なことを言ってそそくさと出て行った。

「し、しかし」
「そこでぼくは毒蛇に手を差し伸べてあげるね!」
「いやいや…」
「きみのことだから見ず知らずの他人に部屋に上がられるのなんて死んでも嫌だとか言いそうだよね!きみの事なんて全く興味ないぼくにだってわかるね」

じゃあ構うなと言いたいが、その言葉は飲み込んだ。しかし日和は今度は晴れやかな笑顔で言う。

「きみが見ず知らずの他人に部屋に入られるのが嫌だというのなら、見ず知らずじゃなければいいね!」
「は……?」
「ぼくの家で長年お手伝いをやっている人の娘さんが同じ家事代行の仕事をしてるから、その子を紹介してあげるね!その子が学生だった時は夏休みとかお母さんと一緒に巴家の掃除手伝いとかしてたから、若くても技術は一級品だね」
「え、いや、殿下」
「あ、お母さんの方はだめだね!ぼくの家の専属お手伝いさんだから」

それでこの問題は解決だね!あ〜よかった!と一人解決した気になっている日和に、茨はこっそり安心する。このまま有耶無耶にしてその話題を流してしまえばいいと、そう思った。
しかし巴日和は聡く、それでいて抜け目のない男である。茨はその日、それを改めて思い知った。

「なるほど!殿下のご紹介でしたら自分も安心出来ますな!ではその件はいずれまた…」
「うんうん!実はもう彼女に今日ここに来てもらってるね!カフェスペースで凪砂くんとジュンくんが相手してくれているから会議室にでも呼んであげてお話しようね」
「えっ」
「撮影まではまだ時間があるね。ほら早くジュンくんと凪砂くん呼んでね!」

やられた!と茨は歯噛みした。彼を侮っていたのは己の愚策である。
凪砂とジュンを先に配置していたのも逃げさせない為のものだ。茨は隠しきれないため息を吐き出すと、諦めてジュンに電話をした。会議室に来るよう伝えると、彼はすぐさま頷く。電話の奥の方で凪砂と女性の声が微かに聞こえて、日和が凪砂にまで協力を依頼したことに純粋に驚いてしまった。何も全員で畳みかけてこなくてもいいだろう。と思わず歯噛みしたくなるのを耐える。

ここで茨は反抗するのを諦めた。あがいても仕方ない所まで追いつめられた上に、実質自分の生活の質が今後向上するとは正直思えていなかった。日和の紹介だというのなら幾分信用が取れるだろう。何せ母が巴家で長年働いているというのなら、もし娘が失態を犯したら母の職もなくなることをきちんと娘は理解しているはずだ。とりあえず一回サービスを利用して、ある程度整ったら自分の方で仕事を依頼しなければいいだけだ。

会議室に入り、一階のカフェスペースからやってくる彼らを待つ。何故か日和も同席するように茨の隣に座ったので、茨は本気で全てを諦めた。僅かにどうしたらこの案件から速やかに手を引けるか頭の端で考える自分がいたが、もう無駄な足掻きだ。

やがてノックの音がしてジュンが会議室に顔を出す。「はい、ここっすよ〜」と誰かを案内したかと思うと、ジュンの影から一人の少女が顔を覗かせた。

「失礼します」

思ったより、若い。というより自分と同年代の少女が入ってきたことに、茨は少しギョッとする。

「…じゃあね、なまえ。茨をよろしくね」
「凪砂さんお相手してくれてありがとうございました。ジュンさんもありがとうございます」
「じゃあオレらは別の所にいるんで。失礼します」

二人と彼女が挨拶をして会議室の扉が閉まるのを見て、茨は目を剥き、日和は面白そうに声を弾ませた。

「なまえちゃん、凪砂くんと仲良くなれたんだね!いい日和!」
「凪砂さんは日和さんの家に住んでいたことがあるんですね。そのお話してもらったり、七種さんのことを少し窺ったりしました」
「うんうん。凪砂くんが色んな人とお話するのはとてもいいことだね」
「あの、凪砂閣下のテレビと普段の差については完全にオフレコでお願いします」
「わかりました。普段はあんな優しい感じの方なんですね」

彼女は凪砂のテレビとのギャップを全く意に介さないままあっさりそう答えると、茨と日和の前にすとんと座った。

「はい。じゃあ紹介するね」

日和がサクサクと彼女を紹介し、彼女は座ったまま頭を下げた。

「茨のことは…もうあらかた凪砂くんやジュンくんから聞いたかね」
「はい大丈夫です。七種さん、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ…」

名字で彼女を呼んだが、彼女は少しぼんやりとしてからハッとしたように反応した。

「すみません。名字で呼ばれることって最近少なかったので…うちの事務所、基本依頼人さんには名前で呼んでもらうんです」

何故。と率直につっこみを入れたくなった。要は依頼人と距離を縮める為のものらしい。旅館の担当仲居が下の名前の名札を付けているのと同じようなものだろう。

「ちなみにぼくはなまえちゃんのお母さんのことも名前で呼んでるね!ちゃん付けで!」

全くもってどうでもいい情報だ。茨は聞かなかったことにする。

「まぁとりあえず契約内容の説明をして頂けますか?その上で判断しますので」
「はい。ではこちらのパンフレットを…」

彼女がトートバッグから持ち出したパンフレットを使い簡単な説明や契約内容、料金プランの説明をし始める。仕事の依頼やキャンセルは勿論、時間、内容の変更はタブレットやスマホで簡単に出来る上に、料金も巴家が使用しているというわりには良心的だ。斜陽気味だという巴家からしたら妥当なのかもしれないが、家族経営のようなので相場と技術が見合ったものかはわからなかった。

「そうですね…最初はお試し、という形で二時間程でいかがでしょう。お家の中がどんな感じかわかりませんけれど、お洗濯でもお掃除でも、優先順位が高い方を優先してやらせて頂きます」
「はぁ…わかりました。それでしたら」

茨は自身のタブレットを取り出して、明日の予定を再確認する。いいのか悪いのか、明日はアイドルの仕事は夕方からで日中は事務仕事に徹する予定だった。事務所でやらなければならない仕事でもないので、彼女が来る時間は自宅で仕事をすればいいだろう。
彼女が持ってきていた契約書にサインをして、住所等の個人情報を専用サイトに登録する。アプリとも連携しているらしく、仕事用のスマホにそのアプリをインストールさせられた。

「小さな事務所とは思えないくらいシステムが充実していますね」
「あ、これは兄が作ったんです。兄はフリーのシステム開発を仕事にしていますので」
「そうですか。納得です」
「はい。ではこれで契約は以上です。明日お伺いしますので、よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしくお願い致します」

では、お先に失礼致します。と折り目正しく礼をして、茨は会議室を出た。今回ばかりは日和に完全敗北を喫して苦々しい気持ちを抱えながら、今日の撮影用の凪砂の台本を取りに自身のオフィスに戻ったのだった。

「なまえちゃん。朝早く来てくれてありがとう」

会議室に残った日和はのんびりとした口調で言った。なまえはひらひらと手を振る。

「いえいえ。これからこの辺でお仕事あるんです。それに一人暮らしの男性依頼人から仕事が来ても私一人で行くのはダメってお母さん断っちゃうんですよね。でも日和さんの紹介ならいいでしょうって言ってくれたのでありがたいです」

歩合制なんで働かないとお金入らないし…と困ったように言うなまえに、日和は少し笑って机に頬杖をついた。

「茨は厄介で毒蛇みたいな男だけど……まぁ、どうにかやってね!ぼくはごめんだけどね!」
「う〜ん、お仕事なんでとりあえず頑張ります。日和さんの紹介ですし」
「うんうん!ありがたく思ってね」

あはは、と笑うと彼女は時計を見てそろそろビルを辞す時間だという。見送りはここでいいという彼女に礼を言い、日和も機嫌の悪いであろう茨がいる事務所へと戻ったのだった。

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