第二交渉
「ここかぁ…」
小さく呟いて、なまえは高い高いマンションを見上げた。ESビルのすぐ近くにあるこのタワーマンションは、ESの寮を出たアイドルや社員が多く入居していると日和が言っていた。実質、日和も階は違えどこのマンションにいるという。もしご入り用の際は、と昨日名刺を渡しておいたのは正解だった。「仕事熱心なのはいい日和!」と朗らかに言っていたので、もしかしたら何かお仕事をくれるかもしれない。などと考えながら、なまえが茨に昨日聞いていた部屋番号をエントランスのオートロック機能に入力すると、目の前の自動ドアが開いた。防犯上、このマンションの人たちは自分たちの来客にも返事は返さないという。確かにファンが来客を装って適当な部屋番号を押してアイドルが返事をしてしまったら大変である。
オートロックの真横にある管理人室の警備員と目が不自然に合いながらマンションの中に入って、なまえは茨の部屋を目指した。
インターフォンを押して暫くすると、鍵がガチャリと開く音がしたので言われたとおり無言で部屋に入った。部屋の鍵はオート式なのか、なまえが扉を閉めると再び音がして施錠された。玄関に茨の姿は勿論無い。
あくまで彼は来客の出迎えなどはしないよう心がけているのだろう。たとえ仕事として来たといえど、アイドルの家である。写真の一枚でも撮られたら大変、というわけだ。
玄関からして既に生活感のない印象である。持参してきたスリッパを履いて部屋に入ると、廊下でようやく家の主が姿を現した。
「やぁやぁよくいらっしゃいました!お手数をおかけいたします!」
「あ…こんにちは、七種さん。おじゃまします」
鞄を下ろして一度頭を下げると、茨が「あぁっ、頭を上げてください!」などとオーバーに言っている。
「ではすみませんが昨日の契約通りお願いします。必要そうな用具は手配したものがリビングにまとめて置いてありますのでどうぞお使いください!」
「え?あ、はい。でも今日は掃除とお洗濯ですから、元々家にあるもので…」
「……」
ここで茨が黙って目を伏せたことで気が付いた。引っ越したてとはいえ、この家洗剤すらなかったのでは、と。
「…わかりました。とりあえず今から二時間です。よろしくお願いします」
「自分は廊下の突き当たり左側の部屋…仕事部屋におりますので何かあればノックでもしていただければ!よろしくお願い致します!」
びしっと敬礼した瞬間、茨の手にあったスマホが鳴る。泣き出した赤ん坊をあやすようにその電話に出ながら、彼は仕事部屋へと入っていった。
「さて、」
いつものエプロンをしたなまえはまず彼が買い揃えたものがあるというリビングへと向かった。テレビすらなく、ソファとローテーブルが所在なさげに置いてある殺風景でただただ広い部屋。全く使用している気配のないダイニングセットの上に買い物袋が複数置いてあった。中を覗くと洗剤各種や掃除用のスポンジ等がぎっしり入っている。とりあえず手当たり次第買ったような出で立ちのそれを一旦全て袋の中から出すと、キッチン用、お風呂用とパッケージを確認して分けていく。簡単に分けた所で、なまえは洗濯洗剤類と風呂用の掃除用具を持って洗濯機の置いてあるであろう脱衣所の方へと足を向けた。部屋の中は思っていたほど埃が積もっている、という状況ではなかった。見ればお掃除ロボットが床に充電してある。ならばロボットに出来ない物をと、先に洗濯機を回すことにしたのだ。
昨日日和が茨の着ているシャツのわずかな皺を気にしていた。新品を開けては着て、をしていると言っていたが、まさにその通りなのか洗濯機の中と適当な袋の中にはどっさりと着用済みのシャツが詰まっていた。
なまえは洗濯機の中のものを一旦全て取り出すと、中に入っている白いシャツと下着を分けてまず白のシャツを洗濯機に入れ直して洗剤と柔軟剤を入れて回した。汚れやすい下着を先に洗いたい所だが、時間の都合上シャツにアイロンをかけることまで考えるとそちらを先に洗った方が効率がいい。最悪下着やインナー類は乾燥機に掛けておいて取り出すくらいは茨自身にやってもらうことになりそうだが、初回だしそこまでちゃんとやってあげたい。洗濯機が静かな音を立てて回り始めたのを確認してから、すぐ横にある風呂場の状態を確認をすると、シャワーしか使っていないのかそこまでひどい汚れは確認出来なかったので、先にリビングの掃除をする事にした。
新品のはたきでパタパタ高い位置のほこりをはたくと、床と違い埃が溜まっていた。お掃除ロボットではここまで出来ないものだ。リビングの窓を開けて換気しながら黙々とやっていると、案外そちらはすぐ片づいた。何せ物がない部屋なので、掃除をするのも楽なのである。お掃除ロボットがいたのも大きい。
まだ洗濯は終わらないようなので、トイレやキッチンの水回りの掃除もして、シャツの洗濯、乾燥が終わったら第二段の洗濯をしつつ、恐らく家にないだろうと踏んで持参してきたハンディアイロンでシャツにアイロンを掛ける。
「……」
ふと、茨がこもっている仕事部屋の方へ目を一度向けた。本当に微かに人と話すような声が聞こえるのは恐らく電話でもしているのだろう。自分の家の事をやる暇さえないほど忙しいなんて、身体を壊さないのだろうか。なんて考えたけれど、その思考は吹き飛ばした。依頼人のことを詮索するのはルール違反である。自分はひたすら仕事をしようと、何枚もあるシャツのアイロンを掛け続けた。
「失礼します」
なまえが仕事を開始して二時間後、茨が部屋から出てきた。ちょうど風呂の掃除を終えてリビングに戻ってきた所である。
「ちょうどお時間かと思い…報告頂けますか?」
「はい。リビングの掃除機掛け、トイレ、お風呂の掃除、洗濯、シャツのアイロン掛けまで終わりました」
「おや、この短時間でそんなにこなしてくださったんですね。ありがとうございます」
「いえ、そこまで汚れていなかったので軽くですが…。時間の都合上まだ乾燥機が回っているのですが、取り込んでから帰った方がいいでしょうか?それとも取り込むだけなのでお任せしてしまってよろしいですか?今日は次の仕事まで余裕がありますのでよろしければ取り込んでから帰ります」
「あぁ、そのくらいでしたら自分が…」
そう言いかけた瞬間、彼のスマホがけたたましく鳴いた。
「今日は初回ですし時間内に終わらなかった私の配分ミスですのでそこまでやらせて頂きますね」
「すみません、お言葉に甘えます」
スマホを手にまた仕事部屋に戻った茨を見送っていると、乾燥機が鳴った。なまえはそれを取り込むと、下着や色物類を畳んでいく。靴下はありがたいことに全て同じメーカーの同じ色のものだったので一対ずつまとめて、下着は軽く畳んでおいた。それらを寝室らしきやはり殺風景な部屋の収納に仕舞って、なまえのここでの仕事は終了である。一応茨の仕事部屋に耳を済ませると電話をしている気配はないのでノックをすると、返事が一つあった後茨が出てきた。
「時間を超えてしまい、すみません。今終わりました」
「いえ、こちらこそありがとうございました。超過分のお支払い方法は?」
「あ、いえいえ。大丈夫です」
「そういうわけには…」
「でしたらまたご利用ください。よろしくお願いします」
「え……はぁ」
気の抜けた返事をした茨に、なまえは一枚のチラシを渡した。仕事中は普段から持ち歩いているものである。
「私、料理作り置きのサービスもしているんです。ご予算や好き嫌い、アレルギーをご呈示して頂ければ買い物からやりますし、日持ちのするものを数種冷蔵庫や冷凍庫に保存出来るものを作ります。よろしければこちらも追加で出来ますのでよろしくお願いします」
「はぁ…」
「もし味付けが気になるようでしたら次回はまたお掃除やお洗濯でご利用頂いて、その際に試食で何かお総菜軽く作らせていただくことも出来ます」
「し、仕事熱心ですね…いえ、仕事熱心なのはよいことです。いやぁ、見習いたいものですなぁ!」
「ありがとうございます。よろしければご検討くださいね」
はいこれ。と茨が受け取ろうとしないチラシをなまえはぐい、と押しつけ、そのまま一礼して玄関で靴を履いた。見送ろうとしてくれる茨の方を振り向いて言い忘れていたことを伝える。
「あ、そうでした。お洗濯したもの、お部屋の収納に入れたのでもし違う場所に入れてしまっていたのなら申し訳ありません」
「え?いえいえ大丈夫ですそんなもの」
「下着や靴下は同じ物が入っている所に入れたので大丈夫かとは思いますが…では失礼します。ご利用ありがとうございました」
「……!!お、お疲れさまでした!敬礼〜!」
ぱたんと、扉が閉まった。扉のロックが微かな金属音を立てて閉まる。彼女がエレベーターに乗ったであろう時間を見計らって、茨はそっと後ろを向き、早足で自身の寝室へ飛び込んだ。適当に置いてある収納ボックスの中を開けると、そこにはきちんと畳まれた下着や靴下が詰まっているのである。
「……うわ、」
すっかり忘れていた。洗濯機の中に使用済みの下着や靴下を放置していたことを。本来同年代の女に洗濯を任せるということ自体抵抗があったけれど、彼女も仕事だしシャツくらいなら任せてもいいか思っていたのに、うっかりしていたせいで下着まで洗ってもらってしまい、畳んで仕舞うところまでやられてしまった。
茨は羞恥なのか動揺なのかわからない感情で頬を熱くする。そういえばトイレ掃除までしたと言っていた。最悪である。
「あぁもう、無駄に仕事熱心だな…!!」
さすが巴家が利用するハウスキーパーの娘である。
だがこれで一度利用はしたのだから、あとは『なあなあ』にしていけば日和はすぐ茨の家の事情など忘れるだろうと踏んでいる。ならもう彼女に会うこともないだろうと、背中に這いずり回る羞恥心を一息で殺してから茨はビルに出社すべく荷物をまとめて家を出たのである。
そう、もう利用する予定などないのだから、一時の恥なんて忘れればそれで終わりだ。溜まっていたものがなくなりさっぱりとした部屋を見ていると、洗濯くらいなら仕事の合間に出来るのではないか、なんていう気分にすらなってくる。そうだ。洗濯機に入れて放置すればいい家事なんて一番簡単ではないか。なぜ億劫に思っていたのだろう。
そう思っていた。その時茨は本気でそう思っていたのである。
それから一週間後。
インターフォンが鳴ったのでエントランスのロックを外した。暫くしてからチャイムが鳴ったので、家の鍵も開ける。
「こんにちは七種さん。おじゃまします」
「…お世話になります。なまえさん」
「あ、名前で呼んでくれるんですね。嬉しいです」
今日はまた洗濯とお掃除でよろしいですか?と聞かれたので大人しく肯定する。
「下着は洗わないで結構ですので、シャツだけお願いします」
「えっ下着こそ洗った方がよくないですか…?」
「……」
正論である。
「……あの、私仕事で色んな人のパンツ洗ってますし、お気になさらず…。なんなら日和さんのパンツも洗ったことありますから…」
「いらない情報をありがとうございます」
結局またなまえの手によって、下着は洗われて収納ボックスの中に丁寧に収まっていた。冷蔵庫の中には彼女が料理サービスのお試しで作ってきた。と言って無理矢理置いていった切り干し大根の煮物と鶏肉のトマト煮が入っている。味が気に入りましたらぜひどうぞと言っていたけれど、食事こそどうにでもなる。彼女の商魂逞しさにやや辟易としてしまう。なによりそこまで踏み込まれるのは嫌悪感すら湧いてくる。
はずだった。
茨は中身がミネラルウォーターと彼女が置いていった使い捨ての保存バッグしか入っていない冷蔵庫を開けて、切り干し大根の煮物を手で摘まんで一口食べた。
「うま……」
困る。好みの味付けではないか。
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