1.opening
今日で五日。また彼とすれ違った。
なまえは太めの赤いリードに引っ張られるように前へ進みながら、家の近所である川縁の遊歩道を歩いた。朝日が昇ってまだ大して時間が経っていないから空気はキンと冷たく、頬を掠める風は鋭い。なまえは一度マフラーに顔を埋めるようにしてから、リードの先にいる愛犬を見た。
「タロちゃんは朝でも元気だねぇ…」
早朝なせいで擦れた声で小さくそう言えば、もうそろそろ壮年に差し掛かっているはずの彼女の愛犬は楽しそうになまえの前をリズムよく歩いている。なまえは大きなあくびを一つしたものの、もう少しで愛犬の散歩が出来なくなることを考えればどんなに眠くてもこの役割を家族の誰にも譲りたくなかった。
田舎の祖母の体調が思わしくなく、また以前から田舎での生活に憧れていた父の考えが合致して、既に大学に入学していたなまえの両親は彼女を残して田舎へ引っ越すことを決めた。なまえは必然的に一人暮らしを余儀なくされ、愛犬である太郎とももうすぐでお別れになる。ゆえに毎朝の散歩をなまえが引き受けるのは当然の事であった。一人暮らしには憧れをもっていたのは事実だけれど、近いところに両親がいなくなることには些か不安を感じていた。それを吹き飛ばすように、元気な愛犬と一時の別れを毎日の散歩という形で惜しんでいたのである。
そんな中毎日一人の男の子とすれ違うことに、なまえは気が付いた。
周囲が活動を始めるにはまだ早く、早朝ランニングをする人ですらほとんどいないような時間に彼はいつも早いテンポでなまえの横をすり抜けていく。陸上部にでも入っているのかな。程度に考えながら、愛犬がいつも同じルートを毎日楽しそうに歩く姿に、寂しくも顔を綻ばせた。
「タ〜ロちゃん。もうすぐ私とバイバイなの、わかってる?」
小さい声でそう愛犬に呟いたけれど、生け垣に鼻を突っ込んでいる彼には聞こえていないようだった。
そんな風に早朝の散歩を初めて一週間が経った。天気予報では暫く雨が降らないのは幸いで、これで通算七回目の散歩に、愛犬との別れが近くなっていることを悟って段々と寂しくなっていく。今日もマフラーに顔を埋めながら散歩をしていると、やはりあの男の子が向こうから走ってくるのが見えた。ランニングウェアを着て、早いスピードでこちらに近づいてくる彼に「今日もお疲れ様だな…」などと考えながらリードを握っていたのだが、今日は一つ、小さな事件が起きる。それは彼が愛犬太郎の横をすり抜ける時に起こった。
「ウー、ワンワンワンッ」
「うわっ」
「こら!タロ!!」
太郎が彼に思いきり吠え、彼に飛びかかろうと勢いよく向かって行った。なまえはそれを阻止するように瞬時にリードを引き、彼に太郎が飛びかかる前になんとか留める。中型犬の太郎はなまえによってリードを引かれ、前足が上がった状態でもなお彼に向かって行きたいのか前足を空中でひょこひょこと動かしている。
「すみません!」
すぐに謝って、一瞬顔を上げる。するとランニング用のパーカーのフードを被っていた男の子はそれを取り、悪戯っぽく笑った。
「いいっすよ。大丈夫。朝から元気っすね〜」
よ〜しよし、なんて言いながら興奮している太郎に話しかける彼に申し訳なくてなまえはなおもリードを引きながら、興奮しきった太郎をなんとか大人しくした。
「すみませんでした。走っているの邪魔しちゃって…」
「いえいえ気にしないでください。じゃあ」
爽やかに片手を上げて、彼はまたフードを被ると走って行ってしまった。
太郎に必死で顔をしっかり見ることはなかったけれど、優しい声の人だったな。程度の認識で、その日は散歩を終えたのだった。
けれど次の日もまた次の日も、太郎は彼に近づくといきなり吠えて飛びかかっていくのである。
「え〜っ、いきなりどうしてタロちゃん!!すみません本当にすみません!!」
気にせず行ってください!と言うと、ランニングの彼は足を止めて、もしかして…と呟いた。
「この前からおひいさ…知人の犬を預かってるんですよ。もしかしたらその匂いでもするんすかねぇ」
だとしたらオレも悪いかもだし。などと爽やかに言うので、なまえはぽかんと口を開けた。犬に吠えられて完全にこちらが悪いのに自分が悪いかもと言うなんて、優しい人だな…などと思わず感心してしまう。
「いえ、完全にこちらが悪いので…すみませんでした」
「気にしないでくださいってば。この子、名前はなんていうんすか?」
「あ、太郎です…」
「へ〜。かわいいですね。うちのは小型犬なんすよ」
「そうなんですか。名前は?」
「ブラッディメアリっす」
「……そうですか。おしゃれ、ですね…」
預かっている犬と言っていたので彼が名前を付けたわけではないのに、なまえは思わず絶句してしまった。彼の知人はなかなかのセンスのようである。
「じゃあ、オレそろそろ行くんで。まだメアリ預かってるし、もし吠えちゃっても気にしないでくださいね」
「ありがとうございます。すみませんでした」
軽く頭を下げると、さっさと彼は走って行ってしまった。
「も〜タロちゃん。お散歩の時間、変えようか」
そうすれば彼とすれ違うこともなくなるかもしれない。と思って、なまえは更に早い時間に起きて、太郎をリードに繋いだ。冷たい空気にも負けないくらいの眠気だったが散歩の時間を遅くしてしまうと通勤で駅に向かう人が増えてしまうし、ルートを変えるのも太郎がかわいそうだったのでこうするしかなかった。
が、
「あ、あれ〜?」
「あ、おはようございます。今日は早いですね」
また出会ってしまった。30分も早く起きて散歩に来たのに、また彼と鉢合わせてしまったのだ。案の定、太郎は彼に飛びかかっていく。
「いえ、あの〜、ご迷惑をかけてしまうかと思って…」
「そうだったんですね。気を遣ってもらってすいません」
今日早く目が覚めちまったもんで…と言う彼は、申し訳なさそうに頬をかいている。興奮する太郎を押し留めて、なまえは足早に立ち去ろうとしたのだが、そんななまえを彼が引き留めた。
「よかったら太郎くん触らせてもらっていいっすか?」
「え?どうぞどうぞ。」
彼がそっと太郎に近づくと、太郎も彼に近づき、匂いを嗅いでから足元に飛びかかった。そんな太郎に彼は「よしよし、元気っすね〜」とあやすように話しかけると、やがて太郎は少しだけ大人しくなった。
「かわいいですね。何犬ですか?」
「雑種です。柴犬が入っているかも」
「あ〜確かにそんな顔ですね。よしよし太郎くん。大人しくできてえらいえらい」
そう言って太郎と戯れる彼の顔を、ようやくしっかりと見た。
よく見たら精悍な顔立ちをしている彼になまえは不意に恥ずかしくなる。
無邪気に笑う顔はなんとなくやんちゃな感じがして、学校ではものすごくモテるんだろうな…なんてぼんやりと考えてしまった。
「散歩の時間、気になくていいっすよ。今日メアリ元の飼い主の所に戻るんで太郎くんも明日からはこんなに興奮しないと思います」
「そ、そうですか…すみませんでした」
彼と会うといつもすみませんしか言っていないな。と思ったけれど、彼が言うようにそれ以降太郎が彼を吠えることもなくなり、彼はこちらに小さく会釈をする程度になったのである。
それから更に数日後、両親と太郎は田舎へと引っ越していった。寂しい気持ちと最近の習慣のせいでなまえは散歩をしていたいつもの時間に目を覚ます。狭い1Kの住み慣れない小さなマンションは、元実家に近いのでいつも散歩をしていた川縁の遊歩道も近い。なまえはふらりと外に出ると、一人でその遊歩道に向かった。
最近の習慣だった愛犬との散歩が欠けた今、その時間に遊歩道を歩く事と彼とすれ違うことだけがなまえの日常に組み込まれた一欠片だったのである。
一人で風の吹きすさぶ川縁を歩く。いつもは元気にリードを引く太郎ももう近くにいなくて、余計に寒々しい。なんとなくベンチに腰掛けてゆっくり明るくなり始めている空を見た。その空とは相反するように、気分は暗くなっていく。
「寂しいなぁ…」
大学には友達もいるし、家族とも太郎ともその気になればすぐ会える。でもやはり今まで近くにいた存在がいないのは寂しくて、なまえは思わず鼻をすすった。外の冷たい空気に反して目元はじり、と熱くなる。誰にも見られていないのに無意識に誰かに見られることを避けるように、彼女は下を向いた。
「…おはようございます。どうしたんですか?」
すると頭上から聞いたことのある声が響く。顔を上げると、いつもすれ違う彼が少し驚いた顔でなまえを見下ろしていた。
「…あ、」
「今日は、一人っすか?」
「えっと、はい…」
頷くと、彼はなまえが座るベンチの横に腰掛けた。
「太郎くんは…」
そう言われて思わずこみ上げた感情が一気に吹き出た。新天地を楽しみにしている両親には言えなくて我慢していたことが、ここで耐え切れなくなってしまった。
「……う、」
「えっ、え、大丈夫、ですか」
「うぇ……」
ぱたぱたと、静かに涙が零れ落ちた。それに驚いた彼はどうしたらいいかわからない、というように慌てているのがわかる。これ以上迷惑をかけてはいけない。と、なまえは首を横に振った。
「すみません。大丈夫。大丈夫です」
「で、でも泣いてるじゃないですか…」
もしかして…と言葉を繋いだ彼は、きっと勘違いしている。なまえはその誤解を解こうと、手を振って否定を示した。
「あの、太郎は生きてます。元気です…」
「あ、よ、よかった」
勘違いしてすいません…と小さく言った彼に、なまえは顔を上げて言った。
「いえ、私こそ勘違いさせてしまうような…すみません。大丈夫ですんで…」
どうぞ。と彼が走るであろう先の道を手のひらで示すと、今度は彼は首を横に振る。
「でも、泣いてる理由があるんなら…オレでよければ聞きます」
時間もあるし。と言った彼は、ベンチに深く座った。
観念して、なまえは今の事情を話した。家族が遠くへ行ってしまったこと。太郎がここを離れる前に毎日散歩をして、名残惜しんでいたこと。
「そうだったんですか。じゃあ今寂しいっすね」
「少しだけです。友達もいるし、すぐ慣れるから…」
涙を服の袖でぐいぐいと拭くと、なまえは立ち上がった。
「太郎と散歩している時、話しかけてくれてありがとうございました。ランニング、頑張ってくださいね」
そう言ってできる限り笑うと、なまえは立ち去ろうとしたが、斜め下から彼がそれを制した。
「待ってください。その、よかったら、オレと友達に…なりませんか」
「えっ、」
びっくりして斜め下を見れば、恥ずかしいのか目線を外している。その手には、彼のスマホが握られていた。
「寂しくなったら連絡してください。その、太郎くんを知っている仲じゃないですか…」
自分でそう言いながら、彼は一気に頬を赤くした。
「すいません、なに言ってんだか…」
優しい人だ。となまえは思う。朝、ほんの少しの時間しか顔を合わせていなかったなまえに向かって友達になろうなんて言ってくれる人優しくないわけがない。彼の真剣な顔や照れた表情が、なんとなく心深く突き刺さった。
「ありがとうございます。こちらこそよかったらお友達になってください」
名前を名乗る。すると彼は「あ〜…」と一度悩んだ風を見せると、その後小さな声で「ジュンって呼んでください」と呟いた。苗字じゃないのかと思いつつ、なら、となまえも名前で呼んでほしい、と伝えた。と同時にスマホのメッセージアプリのアカウントを交換する。
「じゃ、じゃあなまえさん。よろしくお願いします」
寂しくなったらいつでも連絡してください。ともう一度なまえに言うと、彼はさっさと立ち上がり走り去ってしまった。
あんなにかっこいい人と友達になれるなんて緊張するな…と、なまえは彼のアカウントを一度確認する。そこにはフルネームで『漣ジュン』と書かれている。
「え、あれっ」
この珍しい名前は見たことがある。この苗字で、あのかっこいい顔、まさか、
「えっ、えええ!!」
なまえはすっかり泣いていたことを忘れ、ただただ手を震わせてスマホを凝視したのだった。
「……っし、」
走るテンポが、無意識に早くなる。落ち着け落ち着けと自身を制しようと思っても、逸る心がどうしても呼吸を乱し、口元を緩めていく。
ようやく彼女に連絡先を、名前を聞けた。ジュンは一人早朝の冷たい空気の中で高揚する気分と体温を抑えきれず、ペースをどんどん上昇させていくのだった。
後にその日、ジュンはいつもの1.5倍の距離を走っていたことに気付く。
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