十話

 
 こはくがふと目を覚ますと、そこは幼少期にいた座敷牢の中だった。いつ自分がここへ戻ってきたのかは正直覚えていなかったが、異様にしっくりくるのはやはり長く寝起きしていた場所だからだろうか。

 座敷牢には、上の方に小さな採光窓がある。そこから漏れ出る光で今が朝、もしくは昼間だということがわかった。座敷牢は常に暗く、空気が沈澱している。四季を感じられる空気の違いはあれど、夏でも薄寒いそこは冬になるとより一層冷えるのだ。ぶる、と身震いするほどの冷えには覚えがある。今は冬なのだろう。

「ていうかわし、なんでこないな所、」

 ぽつり、独り言を言うと突然自分の頭上から自分のものではない声が聞こえてきた。

「こはくこはく!起きた?」

 誰や?と反射的に視線を上げて、そこで目を見張る。そこには一人の女性が幽霊さながらにふわふわと浮いているのだ。

「う、うわあああ!」
「えっ!なに?!どうしたの?」

 女性が慌てて後ろを振り返り、何もないことにホッとすると「何もいないよ?!」とこはくに近づいてくる。

「うわああ!アホ!寄ってくんなや!」
「ど、どうしてぇ……?」

 不意に女性が、目を潤ませて口をへの字に曲げた。それを見たこはくは、目の前の異端な存在への恐怖よりも罪悪感で胸がいっぱいになる。女性の顔はどこかで見たことがある。否、見慣れた顔のように思えたのだ。そして同時に泣かせてはいけない存在だと自分の中の知らない部分が大声で告げてくる。慌てて「すまん、」と謝ると、女性はじっとこはくを見てから満面の笑みをこぼした。何かを探るような彼女の瞳に思わずドキリとするけれど、恐らく心の臓が跳ねた理由はそれだけではない。

「こはくは妖怪とか幽霊とか嫌いだもんね。嫌ならこんな場所で怪奇小説とか読まなければいいのよ」
「なんで知っとるんじゃ」
「知ってるよ。こはくのことはよく知ってるの」

 いいでしょべつに!と言いながら、彼女はふわふわ浮いてこはくの頭上を旋回した。彼女が宙を舞うたびに、嗅いだことのある花のような香りがする。
 こはくは段々と彼女への恐怖心を花の香りで薄めながら、それでも恐る恐る彼女に話しかけた。

「なぁ、ぬしはんは何者やねん。妖の類か?」

 疑うように言うと、彼女は考えるように腕を組んでから、目をパチパチと瞬かせながら言う。

「妖の類……かなぁ?わかんない」
「わしの台詞じゃ、そんなん」
「でも私、可愛いでしょ?綺麗でしょ?どう?」

 彼女は空中でくるくる回ってから、こはくの顔の前に自身の顔を近づけた。確かに愛嬌のある顔立ちだけれど、絶世の美女かと言われればそうでもない。なのにこはくは彼女の顔を見ると動悸が止まらなかった。つい、がらにもない台詞が口から飛び出そうになって、すんでのところで止めたつもりがついつい言葉の端がこぼれ落ちる。

「せやな。綺麗じゃ。ぬしはん、別嬪やなぁ」
「でしょ?綺麗なの私!可愛いの!」

 嬉しい!とふわふわ浮いたまま足をばたつかせる彼女に、こはくも思わず口元が緩む。普段はこんな事言うようなたちではないのになぜそんな言葉が出るのか。その女性の妖力の類かもしれないと思いつつも、コロコロ変わる表情がなんとなく愛おしくなる。

「こはくのこと大好きなの私!だからきっと、余計に嬉しいのね」

 これでも色んな人に綺麗って言われてきたのよ。と言いながら、不意にする流し目は確かに美しい。こはくは「そうなんか」と呟いた。この女性はそんなに他人に賞賛を得るような生活をしてきたのだろうか。それはきっと、男からかけられた賞賛だって少なくないはずである。なぜかそんな思考に至り、こはくは黙り込んだ。初めて会ったはずのこの女性が、他の男に賛美をもらっている事が何故か自分は気に入らないらしい。

「やだこはく、悋気?悋気なの?」
「やかましいわ。わしにもよくわからんねん」
「嬉しい嬉しい!やっぱりこの顔にして正解ね!この子にありがとうって伝えておいて」

 そう言って、女性は頬を押さえながらくすぐったいように笑うと、突然ふわふわと舞っていた動きを止めて、座敷牢の採光窓に窪みに座り込んだ。

「ありがとうこはく。あなたの成長が私の楽しみだったの。本当よ」
「待て。ぬしはんほんまに……」
「元気でね。お嫁さんと仲良くね」

 そう言って瞬きをした瞬間、こはくの視界が白んだ。


「こはくさま、おはようございます」

 目を開けると、目の前には先程の女性と同じ顔の女が宙を浮く事なく畳に膝をつけたまま、自分を覗き込んでいた。思わず彼女の肩を掴むと、女は驚いてこはくを揺らしていた手を引っ込める。そこでようやく気がついた。女は、最愛の妻ではないか。

「び、びっくりしました……。どうかしましたか?」
「いや、すまん……夢見とったみたいや」

 ここでようやく、こはくは今までの出来事が夢であった事に気がついた。座敷牢の中で、宙を舞う妻に会う。なんとも不思議な夢ではあるが、全てがこはくを取り巻く人や物だ。おかしい点は見当たらない。

「怖い夢ですか?大丈夫ですか?」
「ぬしはんが出てきた」
「そうでしたか。それで起こしに来た私を見て驚かれたんですね」

 さぁ、朝餉にしましょうと立ち上がり寝室を出て行く妻の背中を見ながら、なぜ夢の中の女性が絶世の美女ではなかったのにあんなにも美しく見えたのかを理解して、こはくは一人恥ずかしくなる。相も変わらず、こはくはぴよぴよとした妻に夢中なのだ。


 用意してもらった朝食を食べ終えてお茶をすすっていると、不意に妻が一通の手紙を差し出してきた。

「こはくさま。下のお義姉さまからお手紙が来ております」
「下の姉はん……?なんやろう」

 封筒をびりびり破いて中を見ると、仕事の依頼ではなく命令でもなく、下の姉が初めて送ってきた、近況報告の手紙で、早く甥っ子か姪っ子を作れという姉らしい言葉の最後に、それは書かれていた。

『実家の梅の木が病にかかり、やむを得ず切り倒しました。こはくの部屋からも見えていた早咲きの梅です』
「……あの梅か」

 こはくの座敷牢の採光窓からは、近くに植えてあった梅の木が顔を出していた。冬になるとそれがちらちらと花をつけるのを、こはくは座敷牢の水底から楽しみにしたものである。

『あなたの成長が、私の楽しみだったの』
『私、可愛いでしょ?綺麗でしょ?』

 微かに覚えている、夢の中で嗅いだ花のような香り。あれは確かに、梅の花の香りだった。

「そうやったんか」

 こはくは小さく納得して、お茶をすすった。あれはもしかしたら、梅の花が最後に挨拶に来てくれたのかもしれない。

「こはくさま。そういえば今日はこはくさまがお生まれになった日ですね」
「あ……せやった」
「知っておりますか?最近ではお正月に歳を取る数えではなく、各々お生まれになった日にお祝いをすることもあるらしいですよ」

 自信満々に言う妻に、こはくは少し笑いながら返す。

「ぬしはんそれ、去年も言うてたやないか」
「えっ、えっ?そうでしたっけ?」
「言うてたわ」

 そろそろ出勤の時間だと、こはくは立ち上がる、妻は恭しくそれについていくと、いつもの愛らしい笑顔で言った。

「いってらっしゃいませ、こはくさま。お夕飯、お好きなもの作って待っていますね」

 不意に愛おしくなって思わず玄関で彼女の頬に口付けると、妻は「そちらですか?」と拗ねるように唇を尖らせてからほんの少し背伸びをして、こはくの唇に触れるだけの口づけを返した。
 

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