九話

 その日の朝、こはくの妻は珍しくおねだりをしてきた。

「こはくさまのお手が空いた時でよいのです。一月後でも、二月後でも」

 そう恐縮しながら、妻が百貨店に行きたいと言ってきた。結婚して暫く経ったが二人でどこかへ出かけた記憶は少なく、以前二人で彼女の着物を買いに出かけたくらいである。それも互いの勘違いやすれ違いから喧嘩に発展した時なので、こはくからしたらほんの少し苦い記憶だ。

「さよけ。百貨店なら明日でもええよ。ちょうど休みじゃ」

 何か欲しいものがあるんか?と言えば妻はパッと顔を明るくして、急いで部屋を出ていく。何事かと思っていると、いそいそと一枚のチラシを持ってきた。そこには大きく「舟和」と書かれた文字と、洋装断髪の女性が匙で何かを食べている姿が描かれていた。浅草にある和菓子の名店舟和はあんみつや芋羊羹が評判の店で、時折百貨店の催事で売っているのを見かけるのである。

「あのね、こはくさま。舟和のあんみつが今日から三ヶ月間、百貨店でいただけるんですって!洋食屋さんのアイスクリィムを追加できて、ここでしか頂けないお味でなんですよ」
「行こか」
「はい!」

 桜河の夫婦は揃って甘いものが好きである。こうしてあっという間に決まった出かける予定に気をよくした妻が、こはくが出かける時に珍しく自分から口づけをしてくれたので、こはくまでも一緒に有頂天のままその日一日を終えたのだ。

「こはくさん、今日は随分とご機嫌だなあ。いい事でもあったのかあ?」
「別に……そういうのとちゃうよ」
「わかった!明日は奥さんとデェトでもするんだろう!よかったなあ」
「……」
「……図星かあ」

 ついつい顔に出る自分と、それをすぐ察知する仕事の相棒、三毛縞斑との相性は限りなく良くて、こはくにとっては限りなく悪いのである。


 次の日、妻が早々に起き出した事に気がついたこはくはゆっくり体を起こした。まだ夜明けともつかない時間に朝ごはんを作り出した妻の物音はいつも聞いているし、それで目を覚ますのはこはくにとっても日常である。しかし今日は部屋の向こうの気配がいつもと違った。それにいち早く気がついたこはくは目を見開く。

「歌っとる……」

 妻は確かにぴよぴよとしていて、くるくるとよく動く印象だ。しかし家事仕事をする時は真剣な瞳で効率よく仕事をこなしていく方で、そんな普段との温度差もこはくを惹きつけてやまないというのに今日の妻は浮かれていた。そこそこ大きな声で歌を歌うほどに。

「あかん、かわええ……」

 布団に突っ伏して一人呟く。幸い歌を歌うほどに浮かれている妻には聞こえていないだろう。

「こはくさま〜朝餉が出来ますよ!そろそろ起きてくださいませ!」

 こちらの気など知らない呑気な妻が起こしに来るまで、結局こはくは小さく聞こえる妻の歌声に耳を澄ませては悶絶していたのである。

「こはくさまったら珍しくお寝坊ですね。お疲れですか?」
「そんなんとちゃう」

 妻が心配そうに聞いてきたので、こはくは炊き立てのご飯をおかわりして有り余る自身の体力を誇示した。

「お待たせしました」

 妻は以前こはくが買った藤色の着物を上品な白練の帯と合わせて、そこに薄い桃色の帯締めをして出て来た。そこまで大袈裟ではないけれど、近所を歩くには上等すぎる出立ちである。

「変ではないですか?」
「似合うとるよ」

 思わず「色っぽいやんか」と素直な感想が口をつけば、妻は照れたように目を泳がせた。

「こはくさまもお着物お似合いですね。とても格好良いです」
「さよけ。おおきに」

 改めて互いの格好を褒め合うとなんとなく気恥ずかしい。少しくすぐったい雰囲気を散らしたかったのは妻も同じようで、慌てて草履を履いて外に出てしまった。

「あんみつ、売り切れてしまいます!」
「せ、せやな」

 バスに乗って百貨店のある中心部に出て来て、ガヤガヤと忙しない人の流れを掻い潜る。普段一人で歩く時や、仕事の相棒である三毛縞と歩く時は人の隙間を縫って歩くけれど、今日はお世辞にも体捌きが洗練されているわけではない妻が隣にいる。油断すればあっという間に人混みに流されそうな彼女の肩を抱くようにして人を避けさせていると、妻が「こはくさま、大丈夫ですから……」と呟く妻の声が聞こえた。見ると彼女の耳が赤い。ついここが道の往来なのを忘れて、家の中と同じような感覚で彼女に触れていた事に気づく。

「すまん」
「私が鈍臭くて、すみません」
「ちゃんと前見ないとあかんよ」
「そんな、子どもみたいな」

 その刹那、真横から「すみません!」と聞こえる。妻が洋装の男とぶつかったようだった。丁寧に謝る妻に、男は手をひらひらさせて去っていった。

「前から思っとったんやけど、ぬしはんは今までずっとこうやったん?」
「え?は、はい」
「さよけ……」

 街に出る時はなるべく妻に付いていくことを、こはくは勝手に決めた。

 
 百貨店はあいも変わらず、今日も今日とて賑わいを見せている。まだ昼食には早い時間なので店を冷やかそうと決めると、こはくは妻に聞いた。

「なぁ、なんか欲しいものないんか?」
「欲しいもの……」
「なんでもええよ。買うたるさかい」

 普段からねだりものなどしない妻なので、こんな日くらいは彼女の我儘を聞いてみたかった。以前彼女が練り香を買ってきた時は勘違いして嫉妬して傷付けてしまったから、今度は彼女が何か買って喜ぶ顔が見たいと思ったのだ。

「えっと……ええと……」

 妻は欲しいものをまず頭の中で思い浮かべているのか明後日の方に視線をやり、思いつかなかったのか眉間に皺を寄せたかと思ったらふと目の前の店に目を輝かせた。

「こはくさま!私根付が欲しいです!」
「根付?えぇんかそんなんで」

 もっと高価なものをねだればいいのに。と思いながら妻を見ると、妻は着物の帯の部分から自身の財布を取り出した。見ると元々付けていた根付が取れてしまっている。

「この前これのせいでお財布落として、お向かいさんに拾ってもらったんです」
「根付がえぇな。高いもんは今度や」

 相変わらずぴよぴよとしている妻は、時折こはくには考えられないことをしでかす。目の前の店に入ると店内は白檀の香の香りがする、上品な店だった。根付から焼き物まで揃うその店は小物屋というよりは工芸品の店のようである。

「あ、わわ、こはくさま、根付一つでもお高そうです」
「いっそええもん買うて、二度と落とさんようにせなあかんよ」

 軍属であり、特殊な部署にいるこはくは命をかけて仕事をしている分もらっている給料は多い。さらに実家の仕事もこなしているのだから、妻が心配することなど何もないのだ。
 店の中をぐるりと見回すと、豪華な寄せ木細工の小箱や漆塗りの器も並んでおり、店主らしき男が穏やかに礼をしてくる。一度ぐるりと店内を見ているとやはり地方の工芸技術を用いたものが多く、なかなか手に入らなそうな品ばかりであることがわかった。

「へぇ、ええ店やな」

 ふと率直な感想を口に乗せながら革製の立派な煙草入れに目がいく。上等な加工は腕利きの職人のものだろうか。

「そちらは天城の里から仕入れたものでございます。長年交渉を続けてようやく君主様から仕入れを許可されたものですので、なかなか手に入らないですよ」
「……縁やなぁ」

 以前よく都で仕事をしていた破天荒な男の顔が思い浮かぶ。里に戻って結婚したということは聞いていたけれど、きちんと里を守っているようだ。

「なぁ、これ買うてくから一旦取り置いてくれへん?」

 店主に声をかけると、妻がぽかんとした顔をした。こはくは煙草を吸わないのに何故、という顔だ。

「これは、お義父はんに。うちとこの父も煙草は吸わんねん」

 桜河の者は匂いのするものを嗜むことはない。けれど義父への贈り物兼、間接的に燐音への祝いとして買うには丁度良いと思ったのだ。

「うちの父にですか?ありがとうございますこはくさま」
「お義父はん煙草吸うお人やんな?」

 妻が頷いたので、一旦それを取り置いてもらってから目当ての根付を見に行った。やはり組紐の色や細工が珍しいものが多く、妻は楽しそうに品物を見ていたが、一つの根付で止まった。

「これ可愛らしいです」
「ん?猫やな」

 木彫りの猫に芥子色と紫、それから白を組み合わせた紐がついた根付は、小さな鈴が付いている。店主に勧められて鈴を鳴らしてみると、澄んだ音が響いた。

「まぁ、鈴の音色が綺麗」
「こちらは木彫りもさることながら鈴の細工に力を入れている地域の工芸品でして」
「これええな」

 鈴のわりに珍しい音色がするので、妻がどこにいてもすぐわかりそうだと、こはくは思った。

「こはくさま、」
「それにしよか」

 ふと隣の根付を見ると、ひよこのような鳥を象ったものも置いてあった。こはくはそれも包んで欲しいと店主に告げて、先ほどの煙草入れと一緒に購入する。

「ありがとうございますこはくさま。大事に致します」
「そうしてくれるとわしも嬉しい」

 へへ、と表情を崩して笑う妻の顔を見ながら、こはくも顔を綻ばせた。貴族ではないものの妻も一応階級的には上の方の家を出ているのに、あまりそういう空気を感じない。まとう空気がどこまでも柔らかく、こはくの荒んだ日常をほんのりと温めながら撫でる様に癒してくれるのだ。

「そろそろあんみつ食べに行こか」
「はい」

 目当ての店に入り、まだ売り切れていなかったあんみつに二人揃ってアイスクリィムを乗せるよう頼んでから、話題は先ほどの根付の話になる。

「そういえばこはくさま、小鳥の根付も買っていらっしゃいましたね」
「ん?あぁ、せやな。わしも付けようと思って買うた」

 ひよこのような小鳥に、組紐は柔らかい緑色のそれは、妻がよく着る着物の色に似ていた。

「お気に召したんですか?」
「せやな。ぴよぴよしてて、ぬしはんみたいやったから」
「ぴよぴよ……こはくさまよくそう言いますね」
「事実じゃ。いくら歳上でもぬしはんはどこまでもぴよぴよしとって、目が離せへんねん」
「私そんなに未熟ですか……?」

 ぴよぴよ、の表現を未熟者という意味にとらえたらしい妻が肩を落としたけれど、こはくは違う、と首を振る。確かに抜けている所はあるが、そもそも桜河の家に嫁いでくる辺り彼女と彼女の家の胆力は目を見張る物があるのだ。

「ちゃうよ。ぴよぴよしとってかわええっち、意味じゃ」

 ついそんな事を言えば、妻は一度顔を赤くしたけれど、すぐ楽しそうに笑い返した。

「私も猫の根付を選んだのはこはくさまみたいだからですよ。猫ちゃんみたいでかわいいですものね」
「かわええっち、」
「いいの。かわいいんです。たとえこはくさまの身の丈が6尺あっても、強面でも筋肉隆々でも、歳上だったとしても。私からしたらかわいいんです」

 血に塗れた家に生まれた男の事を平然とこんな風に愛でる彼女の胆力にはやはり恐れ入る。こはくはすっかり毒気を抜かれ、にこにこと機嫌の良さそうな妻に対して「さよけ」としか言えなくなった。かわいいと言われる度に突っかかっていた自分が恥ずかしくなって、あんみつの中の求肥を口に含んで自らを黙らせる。甘くて美味しい。けれどそれ以上に頬が緩む。それらを全て甘味のせいにするべく、また匙を動かすのだ。

「こはくさまは根付、何に付けるのですか?」
「わしも財布に付けよ思うとる。勤務中は持たへんからな」

 匙ですくったあんみつのあんこと洋食屋のアイスクリィムがとろりと混ざっては舌先で跳ねた。まるで、鈴の様な軽やかさである。

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