コバルト・ブルー
私って小間使いとして買われたんじゃないの?
真っ白な頭の中、なんとか浮かび上がってきた言葉はたったのこれだけだった。本当はもっともっと沢山の疑問と、憤慨と、喫驚があったはずなのに。
「さて、嬢ちゃんはなぜこんな事させられてるのかのう?」
紅い瞳を不可思議そうに丸めながら、目の前の男はゆっくり腕や耳に付けた沢山のアクセサリーを取って台に置いた。シャラ、という金属の擦れる音に、なまえは更に身体を硬直させる。
なんで。どうして今自分は裸同然の格好で男の人の寝台の上にいるのだろう。その問いだけが頭の中をグルグル回りながら、自身の服をどんどん脱いでいく美しい主人の行動になまえは足の先まで震えることしか出来なかったのである。
村の若い女の中で一番勉強が出来ると言ったって、都に来たらその辺の店番娘となんら変わりない。
なまえは村の皆で使える井戸をもう一つ掘ってもらうのと引き換えに、都の大金持ちの家に代表で奉公に来た。出来る仕事なんで釜戸番や掃除のような下働きの仕事だと思っていたのに、いざ屋敷に来るとなまえを連れてきた屋敷の人間は「年齢が丁度いい。物は試しだ」と呟きながら、なまえを風呂に入れるよう女官に命じたのだ。
なぜいきなり風呂なのだ。と反論すれば女官はしれっと「御主人様の前に出るのに汚れ過ぎですから」などと宣ったので、なまえは羞恥のあまり一瞬で顔を赤くする。そんなに汚れているつもりはなかったのに、そう言われると恥ずかしくて逃げ出したくなってしまう。
必要以上に丁寧に全身を洗って、なまえの実家の倍くらいの広さがありそうな風呂場から出れば、下働きの女が着るような服とは到底思えないものを着せられた。
生地は薄く、下着を付けることは禁じられた。ふわふわと風に揺れればすぐにめくれてしまいそうな軽い衣装に、付けたこともない宝石や金のアクセサリーを首やら腕やらと沢山付けさせられて、広い寝台の上でひたすら誰とも知れぬ人を待たされることになった。
田舎の村で生まれ育ったなまえでも流石にわかる。自分はこれから下働きするのではない。ここの主人の妾候補として連れてこられたのだ。
「騙された…」
あまりの理不尽さに泣きそうになって、けれど化粧をしていることを思い出してグッと堪えた。村にいる頃は塗った事もない物をあれこれと顔に塗られて、身体は香油の匂いがキツすぎるくらいしている。村にはもう帰る事は出来ないという決意で来たのは事実だ。けれど顔も見た事ない人の夜の相手をしなければならないなんて。
「う……」
また泣きそうになった。ダメだ。目尻に赤い粉が塗ってあるので、落ちたら赤い涙が出そうである。
やがて部屋の外が少しだけ慌ただしくなって、部屋に人が入ってきた。こんなにも大きな屋敷で、村に井戸を一つ掘れるくらいの財がある人、絶対になまえの父くらいの年齢のおじさんに決まってる。と、なまえはぎゅ、と下唇を噛んだ。いやだいやだと心の中で考えながら女官に言われた通り、主人から頭を上げるよう言われるまで床に着くくらい頭を下げて寝台に座り込んでいると、後頭部に低くハリのある声が響いた。
「…?嬢ちゃん、何をしておるのかや?」
「…えっ、」
思わず顔を上げる。口調こそ年寄りめいてはいるけれど、そこには中年の男性などではなく、美しい色の瞳を持った若い男がいた。向こうも少し驚いたような顔をして、互いにぽかんと顔を見合わせる。
「何をしておるのかや?ここは我輩の部屋じゃよ」
「あの……え?」
「ん?そういえば見ない顔じゃのう」
上着を脱いだその男は、扉に向かって「おい」と声を掛ける。すると部屋の外からなまえを村からここへ連れてきた人物の声で「たまには趣向を変えてみました」などという言葉が飛んでくる。紅い瞳の男は小さく舌打ちした。
「余計なことしやがって…」
その言葉になまえの身体は無意識にびくりと揺れた。怖い。よく分からないけれど、この人は怒っている。
なまえの主人であろう人物は無造作に全てのアクセサリーを外し、今度は着ていた服の上衣を脱いで、上半身裸のまま寝台に上ってきた。
なまえの恐怖と緊張はそろそろ限界値に届きそうである。そんな彼女の薄い布越しの肩に、男はぽんと手を置いた。
「…安心せい。我輩は嬢ちゃんに手を出したりはせんよ。名前はなんという?今日連れて来られたのか?」
なまえは一つ頷いてから、震える声で、何回も言葉をつっかえながらながらなんとか彼に伝えた。村に井戸を掘ってもらう代わりに此処へ来たこと。下働きをしに来たはずなのに、気が付いたらこんな所でこんな格好で主人を待っている事になっていた事。全部伝えてから名乗り忘れていた事に気がついて名前を名乗れば、彼はなまえの名前を呼んで頭を優しく撫でてくれたのである。
「なまえちゃんと言うんじゃな。それは怖かったじゃろ。我輩の側近がすまない事をした。明日からはちゃんとした仕事を出来るよう我輩から言ってやろうな」
「あ、ありがとうございます…」
「我輩は零。御主人様って呼ばれるのは好みじゃないからのう。名前で呼んでおくれ」
「はい。零様」
よしよし。とまた頭を撫でてくれた事にホッとしてボロボロと涙をこぼすと、零が慌てたようになまえの涙を拭った。目尻に塗っていた赤い粉が落ちたのか、「涙が赤い…!!」と慌てて布で拭いてくれている。布は赤く染まってしまった。
「あぁっ!も、申し訳ございません…!!」
「いや、泣いても仕方のない状況だしのう…我輩がハレムを頑として持たない事に側近たちも業を煮やしたのじゃな…」
ふむ、と零は一度考える仕草をすると、何かを思いついたのかなまえをじっと見つめた。服が薄いので胸元を隠しながら、なまえはおずおずと返事をする。
「のう嬢ちゃん。こんな酷い事をしたやつにちょっと仕返しせんか?」
「え、え?なにを…?」
「簡単じゃよ」
ほら。と彼は寝台のシーツをめくって中に入るとなまえを呼んだ。そんな彼の行動に、身体は一気に硬直する。一緒に寝るということはつまり、そういうことだろう。
「案心せい、勿論手は出さぬよ。けれどこうすれば我輩の妾…のフリが出来るじゃろ。こんな酷いことしたやつにひと泡吹かせられるぞい」
「め、めかけ…!」
「本当に妾にするわけじゃないし妻にするわけでもない。我輩、ハレムを作る暇なんて生憎無いんでのう」
そのかわり毎晩一緒に眠るだけすれば我輩の妾として側近が勝手におぬしの村にもっと金を送るじゃろうし、ここでの地位も安泰じゃよ。と言われると、なまえの耳にもいいこと尽くめに聞こえてくる。この人が嘘吐きだったらそれで終わりなのだが、そうは見えない。
「もし嫌なら断っても構わんのじゃが、そうするとおぬし多分別の家に売られてしまう気がするからこの話を飲む事を勧めるぞい。今この部屋から出ていく事になったら我輩に気に入られなかったって思われちゃうからのう」
「え……」
そんなこと聞いていない。
「田舎の村から出てきた処女なんて、クソじじいどもの食い物にされて終わりじゃよ。どうするかはおぬしが決め…」
零が全てを言い終わらない内に、なまえは慌てて寝台に潜り込んだ。冗談では無い。こんなに酷い目にあったのにまた売られるなどという屈辱受けて、更に見知らぬ男の慰み者になんてまっぴらである。
シーツの隙間に入り込み、零がいる側とは反対側を見ながら端っこで丸まる。すると背後から楽しそうに笑う声が聞こえてきた。
「契約成立じゃな。賢い賢い」
「よろしくお願いします…」
なまえは一度くるりと寝返りを打って、大きな寝台の上の少し離れた場所にいる零にそう伝えれば、また彼は喉の奥を鳴らすように笑った。
「今日からここがおぬしの寝床じゃし、我輩の唯一の妾って事で。ちゃんと頑張って明日は我輩に抱かれたって自慢して回るんじゃぞ」
「な…っ!!」
「今日は疲れたんで寝るぞい。おやすみ…」
癖のある黒髪をシーツに散らばせて、彼はすぐさま寝息を立て始めた。そんな随分とあっさりしたかれのこうどうに、なまえは混乱せざるを得ない。なにそれ。それだって十分恥ずかしいし、もう何がなんだかわからない。
「疲れた…」
小さく呟くと、何かを考える前にすぐに意識が落ちてしまった。疲労が頂点に達したのである。
次の日なまえのすぐ横に零がいた事に驚いて叫び声を上げそうになって、慌てて自分の口を手で塞いで防いだ自分を褒めてやりたい。と切実に思った。男女の夜の事なんてなまえにはサッパリわからないけれど、目が覚めて悲鳴を上げるのが何か違うことはわかる。
とりあえず一つ、なまえは自身の主人の事を知った。
嘘は吐かないようなのと、それから寝相が悪い。寝台が広い理由はこれだったりして。なんて、ちょっと笑いが溢れてしまったのである。
妾の仕事。ご主人様の夜のお世話。その為に毎日磨きあげること。ご主人様を飽きさせないためにたまに我儘を言って困らせること。らしい。
「暇すぎる…」
村にいた頃は毎日家の手伝いや勉強をしていたなまえにとって、日中何もすることがないのが苦痛で仕方なかった。
村に井戸をもう一本掘ってもらうのと引き換えに村の代表として都の大金持ちの家に下働きとしてやってきたなまえは、ハレムを持とうとしない主人に側近が業を煮やした結果、よいタイミングで買われてきたせいで騙されて妾にされそうになったのだ。
そこを屋敷の主人である零が妾のふりをするよう提案してくれたことにより、なまえは働きもせずのんびり過ごしている。夜寝る場所が零と同じ寝台ではあるけれど彼は遅くに帰ってくることも多かったし、なまえに手を出すことはない。
そこから初めて過ごした夜の日の朝から、なまえは零のたった一人の妾としてこの屋敷で生活することになったのである。
しかし暇なのがなまえにとって最大の苦痛だった。働きたいと思い下女の人に仕事は無いかと聞いてみたら「お妾様が仕事なんて」などと皮肉交じりに否定されてしまった。仕事もせず、ただ主人に可愛がられるだけの生活なんて、彼女たちからしたら垂涎ものなのかもしれない。けれどなまえにとっては拷問も同じだった。
「せめてお勉強でもしたいなぁ…」
知らないことを知るのは楽しいから、勉強は好きだった。読んだことの無い本を一冊でももらえれば勉強が出来るのにと、なまえは中庭にある大きな噴水に足を浸してぼんやりと蕩け落ちそうな脳で考えた。村では水は非常に大切なものでこんな風に噴水という飾り物にするなんて考えもしなかったけれど、太陽に光ってキラキラと光る水は確かに美しい。
「ただいま」
「あれ…零様」
まだ昼間だというのに、零が家に帰って来た。なまえがここに来て初めての事である。
「なんじゃ。暇そうにしておるのう」
「あ、えっと…おかえりなさいませ」
水から足を出してぺたりと頭を下げれば、零様は「頭なんて下げんでよい」と言いながらよっこいしょ、となまえを抱きかかえた。なまえの足から伝った水が彼の上着を濡らしたので、慌てて降りる降りるとジェスチャーをしたが、どうやらうまく伝わらなかったのか逆にしっかりと抱き抱えられてしまった。
「ま、待って零様、下ろしてください!」
「おぬし軽すぎるぞ…ちゃんとご飯食べないと」
「食べてます。ここに来てから私結構太りました」
「おぬしの村、そんなに貧しいのか…?我輩この前側近頭からいくら払って村に井戸作ったか聞いて驚いちゃったぞい…安くて」
「こんな、水を飾り物に使うようなお家に住んでいる方からしたら相当貧しいですよ」
ふん、と睨むように視線を外せば、零はなまえの機嫌を損ねたことに気が付いたのだろう。必死に謝りつつ彼女を抱えたまま屋敷に入っていった。
我ながら上手く妾役をやれているような気がすると、なまえは思った。零も零で、わざとなまえを構うようにしているのだろう。おかげで屋敷の人々は零がなまえを溺愛していると勘違いしている。夜一緒に寝て、たまに零様の寝相の悪さに辟易としているだけなのに。
ふと、もう帰ることのない村のこと、家族のことを考えた。みんな元気かな。元気ならもうそれでいいと、そう思った。
結局零は一度帰ってきて食事を摂ったらまたすぐ家を出て行って、再び帰って来たのは夜だった。
「おかえりなさいませ」
「おぉ。今日一日何をしておったのかや?」
「…何も」
少し目を伏せてそう言うと零は何かを考えこむように顎に手を当てた。
「ふむ。確かに村で沢山働いたりしてきたおぬしからしたら暇じゃろうな。何かしたいことはあるかのう?」
「したいこと?」
「そうじゃのう…楽器や舞踊を習うとかどうじゃ。ものすごく妾らしいぞい」
「……あんまり、興味ないです」
思わず本音を言ってしまって、なまえは慌てて言い直した。いい生活をさせてもらっているのに、我儘が過ぎたと思ったのだ。
「あ、あ、すみません。何かやらせて頂けるならそれで十分です…!」
「おぬしは、どんなことに興味がある?我輩はそれが知りたいのう」
零様が紅い瞳を細める。こういう時の彼は、本音を見透かしているかのようだ。なまえは一度斜め上を見ながら考えて、小さく呟いた。
「…零様がどんなお仕事をしてるか知りたいです」
「我輩か?宝石の卸売りじゃよ」
「卸売り…?」
「そうじゃな…例えば」
零様が立ち上がり自身の宝石箱を持ってきた。見事な黄金細工の宝石箱に目が眩みそうになるが、彼はそれを開けると指輪とネックレスを取り出した。指輪には透明の石が、ネックレスには青い石が付いている。
「うわぁ…すごい」
「さて嬢ちゃん問題じゃよ。この指輪とネックレス、どっちが高いと思う?」
ちなみにどっちも宝石じゃよ。と言われてじっと目を凝らした。石のサイズはネックレスの方が倍くらい大きい。
「えっと…ネックレス?」
「残念、不正解じゃな。指輪の方が3倍以上の値段がするんじゃよ」
「え〜!大きさも違うし、色の無い透明な石なのに!」
「石の種類や大きさ、形、デザインによって値段も全然違う我輩はそれを目利きしながら買い付けて客に売る仕事をしておる」
「へぇ…綺麗…すごいです」
「…商売に興味があるか?」
ならこれをあげような。と零は部屋の隅にある棚から二冊の本を取り出した。宝石の種類の本と、商売の基本が書かれた本のようである。
「お勉強ならこれでしてみるといい。知識というものは無駄にならんからやってごらん」
「あ、ありがとうございます…!!」
念願の本をもらえて私は思わず彼に抱き着いた。細いのに力の強い零は、びくともしないまま受け止めてくれる。
「なるほど。かわいい妾が喜んでくれると嬉しいのう。ハレムを持つ男の気持ちが少しわかったぞい」
さ、今日はもう寝ようぞ。となまえの額に口づけをして、零は寝台へと入った。形だけの妾なはずなのに、彼は数日前からこうしたスキンシップをしてくるようになった。なまえの中にまだ全然慣れる気配はない。
「おやすみなさい…」
明日から少しだけ楽しい日々が送れそうだと、なまえは零に感謝しつつ胸を躍らせながら寝台に入ったのである。
「零様ほんと、寝相だけは、勘弁して…」
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